シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2007年6月24日 
「闇から光へ」船水牧夫牧師
使徒言行録9章1−9節



 誕生して間もない初期のキリスト教会は激しい迫害にも拘わらず、信徒の数が非常な勢いで増えて行きました。

 そうしたキリストの教会の前進を妨げ、抹殺しようと、その迫害の先頭に立っていたサウロが、回心した出来事がここに記されております。

 このサウロとは、回心後、約30年間に亙ってキリストの使徒として伝道の生涯を送り、ローマで殉教した、あのパウロのことです。



 パウロはエルサレム教会に対する大迫害の先頭に立つ若者でした。彼はキリスト者に対する迫害を、キリスト教撲滅を神から与えられた正しい使命と信じて疑いませんでした。

 そういう時ほど残虐非道なことが平然と行われるのです。ここに信仰熱心な者の持つ危険性があるのです。

 信仰熱心の故に、他からの批判を許さず、神の名の下に自己を絶対化し、自己を正当化し、そして自分の考えに添わない者を容赦なく裁き、切り捨てるということをするわけです。

 かつて創価学会は、学会批判者に対して盗聴や、出版妨害といった反社会的なことを行ったことがありました。又、統一協会やオーム真理教の数々の犯罪は記憶に新しい所です。



 回心前、パウロは律法厳守が信仰熱心の証しと考え、それによって神に義とされると信じていたのです。

 ところがキリストの十字架と死、そして復活に示された神の愛をただ信じ、受け入れさえすれば、罪赦され、救われる、誰でも神の民とされるのだというキリスト教の教えがユダヤ人の間に広まって行ったのです。

 ファリサイ派のパウロにとって、こうした考えは容認し難いものでした。



 パウロの回心は全く突然に起きました。パウロを捕らえたのは、天からの光でした。

 そして主イエスは彼にこう語りました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

 エゴー エイミ イエスース、「わたしは〜である」という文体は、神が権威をもってご自身を顕す時に用いられる特別な言葉です。

 パウロが熱心に忠実にお仕えようとしていたイスラエルの神が、又、イエスという名を持つお方であるという驚くべき事実を彼は知らされたのでした。

 神の名による正義の闘いと信じていたことが、神に対する敵対であり、迫害だと知らされたのです。そことが明らかにされた時のパウロの衝撃は如何ばかりであったかと思うのです。



 天の光に打たれて目が見えなくなったパウロはひたすら祈りました。目が見えなくなって初めて彼は真剣に祈ったことと思います。

 おそらくこれまでパウロはルカ18章9節以下の主イエスの譬えに出て来るファリサイ派の人のように神殿の前に立ち、「この徴税人のような者でもないことに感謝します」と祈っていたことでしょう。

 しかし「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という祈りは知らなかったと思います。しかし今、パウロは全く打ち砕かれた魂を持って、三日間、断食しながら、切なる祈りを神に捧げたのです。

 そのパウロを、ダマスコにいたアナニアというキリストの弟子は、「兄弟サウル」と呼び、キリストの教会にとって最も恐るべき敵であり、破壊者であるパウロを、キリストの名の故に赦し、兄弟として愛をもって受け入れ、洗礼を授けたのでした。



 そのようにして、敵対していた者をも、キリストの愛をもって受け入れられたという経験をしたパウロは、信仰の熱心とは、人を裁き、自らを厳しく律する熱心さではなく、人に愛を持って仕える熱心さ、隣人の苦しみ、痛み、悲しみを共に担う生き方であることを身をもって知らされたのです。

 回心前と回心後のパウロの熱心さの決定的な違いはここなのです。

 回心前は「人を裁き、自己を絶対化」していました。しかし、回心後は愛に生き、「隣人に悪を行」わず、律法に照らしてどうなのかではなく、ただ神の御心が何であるかを絶えず祈り求める謙遜な、愛の人となったのです。



 私共もキリストの圧倒的な、強烈な光によって、自らが深い闇の中にいることを、罪のなかにいることを知らされ、その闇からキリストの光へ移された者です。

 キリストの体なる教会に召された者です。そのことを感謝し、神の福音を証しして参りましょう。


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 2007年6月17日 
「恐れと不安に打ち勝つ力」船水牧夫牧師
使徒言行録8章1b−13節



 主イエスは天に昇られる前、弟子たちに二つのことを約束されました。

 第一は「聖霊が降り、弟子たちは力を受けること」、第二は「地の果てに至るまで、私の証人となること」、です。

 使徒言行録は、この二つの約束が様々の出来事、経過の中で実現していったという記録であると言えます。



 今日と違い交通機関も情報網も発達していない当時、僅か30年の間にエルサレムから始まって遠くローマにまで伝道がなされていったことを考えますと、これが小さな群れであり、しかも迫害の嵐が吹き荒れる中で、キリストの福音がそこにまで伝えられて行ったことに驚きを禁じ得ません。



 8章にはステファノがリンチを受けて殉教したことをきっかけにして、地上に最初に存在したエルサレム教会に対する大迫害が起こったことが記されております。多くの人が捕まり、牢獄へ入れられました。

 迫害を恐れて、多くの教会員が、皆それぞれ思い思いの道へと逃げました。フィリポも慌てて逃げ出した一人です。



 エルサレムから散らされたキリスト者は、悲しみと痛みをこらえ、不安と恐れに押し潰されそうになりながらも、各地を転々とし、福音を宣べ伝えたのです。

 一番安全なサマリアに逃げたフィリポ、友であり同労者であったステファノを葬ることもせずに自分の身の安全の為に逃げ出したフィリポこの逃げるフィリポを、神はキリストの証人として用いられたのです。



 大迫害に遭い、エルサレムから逃げ出し、地方に散って行った人たち、彼らは胸を打って苦しみ、どうしてよいか分からなくなった。しかし、そう言う中にあっても彼らはキリストの証人として福音を宣べ伝えたのです。

 フィリポも、又、そういう一人でした。彼の伝道はやがて実を結び、サマリアの人たちもキリストの福音を受け入れ、信じる者とされて行きました。

 このことは教会に勇気と大いなる希望を与えました。確かに自分たちは当惑したり、行き詰まることがある、しかしキリストの福音は捕らわれてはいない、絶えず新しい力を与えられ前進する、そういう確信に導かれ、勇気づけられたのです。



 私共は使徒言行録を読みまして教会が僅か30年の間に、急速に世界中に広まって行ったのは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてパウロのような偉大な使徒、伝道者たちの働きの故だと思ってしまいがちですが、しかし信徒となって黙々と働いた、無名と言ってもよい人たちの働き、奉仕に支えられて、初期の教会は前進して行ったことを覚えたいと思います。

 彼らは強制されて福音の為に働いたのではありません。自分たちの時間と労力、智恵と力、財産を福音宣教の為に喜んで用い尽したのです。命さえも投げ出して。



 彼らはキリストの福音の力に励まされ、聖霊の導きによって、キリストの証人として生き、福音の担い手となって働いたのです。フィリポが、まさにそういう一人でした。

 そのようにして2千年の歴史を通じて、福音はキリストの体なる教会に連なる一人一人の働きによって担われ、今日に至っております。

 そして、その延長線上にこのシロアム教会もあるのです。ここでの礼拝、主にある兄弟姉妹の交わりの内に、主が共に居まし給い、聖霊を豊に注ぎ給うて、このシロアム教会、そしてここに連なるお一人お一人を祝福していて下さることを覚えて、感謝するものです。



 私共は初代教会の歩みの底にあって支えておられる主イエス・キリストを仰ぎ見るものです。

 そして今も生きて働き給う主イエスが私共のこの小さな群れの弱さと愚かさ、不信仰の内に喘ぎながらの涙と労苦、祈りを覚え、共に歩んで下さり、導いて下さっていることを信じるものです。

 初代教会の人々が聖霊の助けを請いつつ、地の果て迄、困難な中にあってキリストの証人となって行きましたように、私共も又、キリストの福音を担って、この地でキリストを証しし、この地に主のご栄光を顕して参りましょう。


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