シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2007年8月26日 
「この幻を見た時」船水牧夫牧師
使徒言行録16章6−15節



 パウロの第二回目の伝道旅行は最初から躓きの連続でした。

 アジア州での伝道を聖霊に禁じられ、フリギア・ガラテヤ地方でも伝道を禁じられ、更にミシアからビティニア州に行こうとしましたが、それもイエスの霊が許さなかったというのです。

 聖霊の力強い働きによって福音が前進していったのに、その同じ聖霊が今度は阻む力となって立ち現われ、パウロを窮地に追い込んで行ったのです。



 「トロアスに下った」とありますが、そこはアジアの西端の港町で、その先は海です。パウロは八方塞がりの状況の中で、途方に暮れるような思いで海を眺めていたことでしょう。

 そのパウロがある夜、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という幻を見たのです。パウロはこれを神の御心と信じ、マケドニアに渡ったのです。

 ここで初めて、ヨーロッパの地にキリストの福音が届けられたのです。



 パウロは自分の思いを優先させて、不満と苛立ちをもってトロアスに来たことを深く恥じ、自らの非を悟ったことでしょう。

 人間の理性的判断や心情では当然のことと思えることも、神の目から見たらどうであるのか、神の御心に聞くという姿勢の大切さを改めて思わされます。

 パウロは自らが深く神の前に打ち砕かれた時に、マケドニア人の「わたしたちを助けてください」との叫びを聞きとることができたのです。



 私共シロアム教会はこの所において、「わたしたちを助けてください」という声を聞き取っているでしょうか。

 自分の計画、自分の思いを優先させて、この地に満ちている「わたしたちを助けてください」という声を聞き逃すことのないようにしたいものです。

 そしてキリストの救いの福音を告げ知らせる役目をしっかりと果たして参りたいと思います。



 私共キリスト者は、この世の競争社会の仕組みの中で自分のことで精一杯というところがあることは否定できません。しかしキリストの教会までがこの世に染まってしまっては存在意味がない、「塩気を失くした塩」と同じです。

 生活保護を打ち切られ、「お握りを食べたい」と書き残して餓死した人に象徴されるような社会福祉の貧困の中で喘いでいる、様々な形の差別が依然としてある、格差が広がっている、平和がない、争いが続いている、そういう中で、何とかしてキリストの福音を、キリストの愛を持ち運ぶ教会でありたいと思うのです。

 世界中のみんなが愛し合って、安心して平和に暮らせる社会を作る使命というものを私共はキリストから託されていると思うのです。



 確かにこの世にあって、私共キリスト者も海にまで追い詰められてしまっている、そういう一人一人になってしまっていると言えるかも知れません。

 しかし、海の向こうで「助けてください」と叫んでいる声を確かに聞き取ることができるならば、私共自身、自分のことで一杯一杯だなんて言えなくなります。そして海を渡って行くと、そこには私共自身思っても見なかった恵みに満ちた大きな世界が広がっていることに気付かされるのです。

 助けを求めている隣人と共に生きる、救いを求める隣人に寄り添って生きる時、自分のことで一杯一杯だと思っていた世界が大きく開けていることに気付かされるのです。

 パウロがそうでした。伝道計画が破綻し、八方塞がりでどうしようもなくなった時、「助けてください」との叫びを聞き、海を渡る幻を示されたのです。「この幻を見たとき」、それはパウロ自身にとっても、道が開かれ、救われるきっかけともなったのです。



 今、私共に求められていること、それは聖書に導かれて祈り、神の御心がどこにあるのか尋ね求め、自分が今、何をなすべきなのかを知ることだと思います。

 何よりも自分を愛するように隣人を愛し、共に生きて行く、その信仰を私共は主イエス・キリストによって与えられているのですから、その信仰をもって信仰者として決断し、行動して参りたい、それが神が私共に求めておられることだと思います。

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 2007年8月19日 
「隣人と共に祈ろう」西原明牧師
ローマの信徒への手紙12章9−18節 ルカによる福音書10章25−42節



 シロアム教会は「善きサマリヤ人」と特別の関わりを持っています。 なぜでしょう?

 「東京自殺防止センター」の仲間である英国のセンターの名称は”The Samaritan”(=善きサマリヤ人)です。

 善きサマリヤ人である自殺防止センターに「宿」を提供するシロアム教会は、「宿屋の主人」の役割をしているわけですが、更に、毎日曜の牧会祈祷で自殺防止センターのために祈る、この「宿屋の主人の祈り」が、自殺防止センターの活動を支えているのです。

 このことを意識しながら、善きサマリヤ人の物語を味わいましょう。



 さて「だれが苦しむ旅人の隣人になったと思うか」とのイエス様の問いに学者が「その人を助けた人です」と答えると、「行ってあなたも同じようにしなさい」とイエス様は言われました。

 私はどきっとします。「ユダヤ人の祭司」のように「キリスト教の牧師」であるわたしも、しばしば、見て見ぬふりをし、関わりを持つことを避けているからです。

 マザー・テレサは「無関心と、愛がない事とは、罪だと」言いました。私はまともにイエスさまの顔を見ることが出来ない思いになります。



 ここまで説教原稿を書き進んで来たとき、突然、心の奥に、讃美歌21−197のメロディーが聞こえ、いや、そんな罪深いお前にイエス様の愛のまなざしが注がれているのだぞ!と、気づかせられました。

 「ああ主のひとみ、まなざしよ、/ 三たびわが主を いなみたる/ 弱きペトロを かえりみて/ 赦すはたれぞ、主ならずや」。

 そうです。「あなたも行って、サマリヤ人と同じようにしなさい」というイエスの言葉に素直に従えないと嘆く私のそばにもイエス様は近寄り助けてくださる。

 宗教改革者ルターは、イエスこそが神さまから私たちに送られた善きサマリヤ人だと言いました。

 「あなたも同じようにしなさい」とは、「イエスさまがあなたにされたのと同じようにしなさい」という意味になります。



 妻・由記子の妹、義子は大腸から直腸、肺、脳、骨と転移し続ける癌と闘いました。

 社会福祉学の学生や医療現場で働く教え子のためまだまだ生きたかった彼女は、その願いとそぐわなかったのでしょうか、病床での牧師の祈りも好みません。

 ある日曜日、そんな彼女を頼りにしていた女性患者が祈って欲しいと願った時、彼女は死を前にした友人のために祈る信仰的準備がないまま、それでも一所懸命に祈りました。まもなくその女性も義子も周りの人々に感謝しながらは安らかに天国に召されました。

 骨まで犯されて苦しかった彼女が、友のため、いや友と共に神さまに祈ったそのとき、イエス様も彼女のそばに近寄り助けて共に祈ってくださったと私は信じます。

 彼女も隣人のそばに寄りそう善きサマリヤ人の一人でした。



 ローマ12章で、使徒パウロが勧めています。

 「兄弟愛をもって互いに愛し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」。

 弱い私たちでも、怠らず励んで主なる神とイエス様の御顔を仰ぎ続け、喜びの時も苦難の時もたゆまず祈り続けるならば、イエス様に命じられたとおり、善きサマリヤ人がしたと同じように、お互いに愛し合うことを全うすることができるのです。

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 2007年8月12日 
「信仰の継承」船水牧夫牧師
使徒言行録16章1−5節



 第二回目の伝道旅行でパウロはテモテと出会い、彼を伝道旅行に伴いました。テモテの祖母ロイス、母エウニケ、この二人はパウロの第一回伝道旅行の時に入信したものと思われます。

 テモテの父親はギリシア人でしたが、テモテヘの手紙を見ますと、母エウニケは熱心なユダヤ教徒として聖書に親しみ、テモテをユダヤ教徒として育てたと思われます。

 しかし、祖母、母がパウロの説き明かしを聞いて、自分たちが読んで来た聖書が「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」を与える書物であることを信じ、洗礼を受けました。その時、テモテも洗礼を受けたようです。



 テモテの父親は早くに亡くなり、祖母、そして母に育てられた、心優しい青年にとって、母と祖母を置いて、迫害、殉教をも覚悟して、パウロに従って行くということには、相当の決意を要したことと思います。

 祖母ロイス、母エウニケに取りましても、テモテが伝道者として歩み出すということに十字架を負う覚悟がいったことと思います。



 テモテへの手紙を見ますと、パウロはテモテに「主を証しすることを−恥じてはなりません」と言っております。

 テモテは、その伝道の生涯の中で、幾度か壁にもぶつかったことでしょう。人生の荒波に揉まれながら生きて行く中で信仰の練達という実を結んだのでしょう。

 テモテが信仰の戦いを経ながら成長していった様は、パウロの記したフィリピの信徒への手紙で見ることが出来ます。「テモテが確かな人物であることはあなたがたの認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」(2.22)。

 彼をこのような者たらしめたのは、パウロと伝道旅行を共にし、そこで鍛えられ、十字架の恵みと救いの確かさを、いよいよ深く知ったからでしょう。



 パウロは、母と祖母に宿った信仰が子(テモテ)にも宿ったのだと申します。親の信仰を子に引き継いで行くことの大切さを思います。

 しかし信仰の継承ということを簡単に口にしますが、如何にこれが難しいかを思わされます。子供の人格を尊重することは勿論、大切なことですが、親として子供を神様から託されているわけですから、学校の勉強や健康に気を遣う以上に、信仰を子供に伝えて行くことの大切さを覚えたいと思います。

 いつかきっと福音を信じる者となる、ならせて下さいという希望と忍耐をもって、一人の信仰者として子供と向き合って参りたい、そう願い祈る者です。



 私共の教会では、10月に伝道コンサートを予定しておりますが、親子で参加出来るようなプログラムを考えております。

 是非ともこの良い機会を逃すことなく、一人でも多くの方々においでいただきたいと願い、祈り、十分な準備を持って臨みたいと思います。



 これまで日本のプロテスタント教会は、キリスト教に接することの少ない日本人に対して、不特定多数に呼びかける特別伝道集会のような企画を大事にして来ました。

 実際、それによって信仰へと導かれた方々も多いのも事実です。それを願って私共も10月に伝道集会を計画しているわけです。しかし、その一方で家族伝道というものが重要視されながら、実際には蔑ろにされて来たという面があったように思います。

 信仰を親から子へ、子から孫へと伝えて行く、逆に子供が親を信仰に導く、そういう努力というものを日本の教会はあまり熱心に行って来なかったように思います。



 不特定多数への伝道を横の伝道とするならば、もっと縦の伝道を大切にすることを考えて行かねばならないと思うのです。

 総会資料にも書きましたが、「子供たちを礼拝に招き、御言葉の種を幼い心に蒔く大切な信仰継承の場として教会学校」は必要ですし、何とかして、そこに教会員の子供たちを教会共同体の一員として迎え入れたいと思うのです。

 信仰が親から子へ、子から孫へと伝えられて行く中で、神の民が形成されて行くことを確信し、そのことに希望を持って生きる者でありたいと思います。

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 2007年8月5日 
「魔術からの解放」船水牧夫牧師
使徒言行録13章1−12節



 今朝の箇所を見ますとバルナバ、サウロ個人が異邦人伝道を思い立ったというのではなく、彼らの伝道旅行の背後には、アンティオキア教会の人々が福音宣教の使命をもって祈り、日曜日ごとの礼拝を熱心に守っている中で、聖霊の示しを受けて、第一回の伝道旅行がなされたことが分かります。



 アンティオキア教会の人々は、キリストの恵みと導きによって召し出されたことを感謝すると共に、その恵みを証しし、宣べ伝えて行く責任を覚えたのです。

 弱く罪深い人間が主イエス・キリストの十字架の福音によって罪赦され、教会の群れに加えられた恵みを他に証しし、その恵みを分かち合いたい、そのことを祈り願ったのです。



 アンティオキア教会の熱い祈りと財政的支援を受けて異邦人伝道へと遣わされたバルナバとパウロの第一回伝道旅行は13章、14章の記事に記されております。

 彼らがキプロス島に渡って最初に直面し、対決しなければならなかったのが魔術や占い、偽預言者との戦いでした。

 当時の世界においても、今日の日本においても、キリスト教を宣べ伝えて行く際に、どうしても避けて通れないのが、こうした民間宗教的な、土俗的な信仰が日常生活の中に、風俗として、習慣として、どっぷりと浸かり込んでいる社会での伝道の困難さです。



 パウロは魔術や占いをする者、偽預言者と厳しく対決しました。

 「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。『ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしても、ゆがめようとするのか』」(9節)。



 この魔術師は、さも自分が偉大な者であるかのように誇示し、金儲けを企み、更には時の権力者に擦り寄り、媚びへつらい、更なる利権を手に入れようとしていた、そういう魔術師であったようです。

 こういう人たちは、現代でもカルト宗教、あるいは宗教まがいの怪しげな団体として、多くの人を惑わし、金銭的、精神的に大変な被害を与えていることは皆さんよくご承知のことと思います。

 魔術的なものを用いて、人をたぶらかす、惑わす、騙して金を取る、マインドコントロールする、こういうものに対してはキリスト者は、パウロのように相手を睨みつけてでも、断固戦う必要があると思います。



 イスラエルに於いては昔からこうした魔術的なもの、呪術、占いを厳しく戒めて参りました。これら一切の行為は神らしきもの、神を支配しているかに見せかける人間の魔術的な振る舞いだからです。

 毎日の生活習慣の中に紛れ込んでいる為に、誰もこれを特別に意識したり、本気で相手にしたりしなくて済む程に、妥協的な装いを持っておりますが、こうしたものが福音を歪めて行く力となってしまうのです。



 魔術的なものが政治的なものとして現れて来る時、それは絶対的な権力となって立ち現れて来ます。古くは時のローマ皇帝を神として崇めるということをしたわけです。

 日本でも戦前、戦中は天皇を神として崇めたのです。天皇が神に祭り上げられた結果、自国民のみならず近隣諸国までを巻き込んで、人々を塗炭の苦しみへと陥れたのです。多くの尊い命が天皇の名の故に奪われたことは記憶に新しい所です。

 神ならぬものを神とする愚かしさと恐ろしさを、二度と繰り返さないよう、日本基督教団は八月第一主日を平和聖日として守るべく定めてこれを守って参りました。



 この世と妥協して生きることがキリスト者に許されるならば、キリストの十字架は必要ないことになります。

 キリスト教は福音宣教の初めから、異教的な支配、魔術や占い、運命というものから本当に解放される時、人間の本当に自由な生き方というものが明らかにされることを証しする群れとして神によって召し出されている、そのことを深く自覚しつつ、この世にあって信仰者としての姿勢をしっかり保持して参りました。

 シロアム教会もそのような姿勢を保ち続けて参りたいものです。

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