シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2007年9月30日 
「信じる者は永遠の命を得ている」西原明牧師
コロサイの信徒への手紙2章6−15節



 聖霊降臨節も終わりに近い頃の聖書日課の主題は「終わりの出来事」である。

 初代教会は、キリストが再び来て救いを完成し神の国が実現し、その時死人も復活する、という「終わりの時」を待望した。中世の教会では「死」、「神の裁き」「天国か地獄か」が「終わり」についての関心事だった。

 キリスト教徒は、自らの死を救いの完成と重ね合わせて見つめる。神の守り、神の愛が、死のどん底でも私を囲んでいる事を確信し、感謝と喜びをもって死を迎える。

 私がお世話になったある信徒が癌で亡くなる直前、牧師に「先生、ここが、神の国ですね」と語り、安らかに召された。神の見守りを確信して死んでいくまさにその時・その場所に、もうすでに神の国が来ている、と私は信じている。



 主イエスは「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、(今現在)永遠の命を得(ており)、また、裁かれることなく(もうすでに)死から命へと移っている。」と言われる(ヨハネ5:24)。

 「私の言葉を聴く」とは、十字架と復活に集約されるキリストの働きの全てを、私のための言葉、私のためになされたことと感謝感激して受け止めることである。

 ニケア信条(讃美歌93−4参照)は「主イエス・キリストは人間である私たちのため、私たちの救いのために天からくだり、…私たちのために十字架につけられ」と、キリストの御一生の全てがあなたと私の救いのためであることを強調している。



 コロサイ2:6節以下で告げられているのは、「キリストに結ばれてあなたが洗礼を受けたとき、あなたの神から離れた古い生き方は、キリストの十字架の死と共に死に滅んでしまった。そして、キリストの復活と共にあなたたちもよみがえらされた。

 神があなたたちをキリストと共に生きる者として下さった。」という趣旨である。(「キリストと共に」が繰り返されていることに注目しよう。)

 この心境をパウロはガラテヤの信徒への手紙2:20で、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と述べるが、これをコロサイ2:9−10は 「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。」と言い、その「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っている。」と讃美する。

 死んだ者をもよみがえらせる命の活力、愛し赦し清める力、神の力強いエネルギーが私たちにも溢れるばかり充満しているのだから「わたしには何も欠けることがない」(詩編23)。



 我が内に生き給うキリストを通して、我が内に神の愛が燃えさかり、私たちを生かす神の命が充ち満ち、私たちの過ちが赦され清められ、弱さが癒され強さに変革されるならば、それこそが初代教会が待ち望んだ神の国の実現であり、私たちは、「死の陰の谷を行くときにも災いを恐れず」平安に包まれて、すでにここにある永遠の命の中に生かされているのだ。

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 2007年9月23日 
「しっかりせよ」船水牧夫牧師
使徒言行録23章6−11節



 パウロはエルサレムへ向かう先々でエルサレム行きを止められましたが、「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」(21章13節)と答え、パウロの決意は変わりませんでした。

 エルサレムに到着したパウロの一行をエルサレム教会の人たちは喜んで迎えました。しかし、アジア州から来ていたユダヤ人たちがパウロを見かけて群衆を扇動した為、騒ぎとなり、ローマの軍隊が出動し、パウロを鎖で縛り兵営の中に入れ、翌日、ローマの千人隊長はユダヤの最高法院を招集しました。



 パウロは議会にサドカイ派とファリサイ派がいるのを見て、死人の復活についての議論へと問題を移し、議会を混乱させました。パウロはここで自分はファリサイ派であって復活があるという主張をしている為に裁判にかけられているのだと言ったのです。

 それが為、激しい論争がサドカイ派とファリサイ派との間で起き、収拾がつかなくなってしまったのです。

 ファリサイ派は死んでから、やがていつかどこかで甦る、そのように復活を信じ、主張しました。ユダヤの信仰の歴史の中で、段々と死んだ後に甦るという望みが生まれて来たのです。

 ところがサドカイ派はそれを否定しました。その理由は復活についてモーセ五書には何も記していないからです。



 私共キリスト者は、愛する者の死によってこの世での別れを経験しなければなりませんが、しかし、死が永遠の別れではない、再び会いまみえることを信じる復活信仰に生きているのです。

 私共がこのことを確かなこととして信じる者とされましたのは、主イエス・キリストが十字架の死を突き抜けて、神の力によって甦られたからなのです。キリストの甦りの事実によって、私共は私共自身の甦りの命についても確信をもって語ることが出来るのです。

 パウロはそのことを「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(Tコリント15章13−14節)、と述べております。

 パウロが頼みとしたのは神であり、神が死人を甦らせて下さるお方であって、パウロ自身も神によって復活に与かる者とされるという望みの故に、困難と試練に打ち勝つ者とされたのです。



 エルサレムの騒動によって、パウロはローマ軍の兵営に連れて行かれました。それによって、パウロが願っていたローマへの道が、いよいよ開かれようとしております。

 しかし、ローマで福音を宣べ伝えられるという喜びと共に、殉教をも覚悟しての旅になることをパウロは知っておりました。アジア州でパウロが被った苦難、「死の宣告を受けた思い」(Uコリント1章9節)をローマ軍の兵営の中でパウロは再び味わったことと思うのです。

 その中でパウロは、主イエス・キリストの声を、「勇気を出せ」との励ましの言葉を耳に致しました。それが11節です。

 「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。もう一度、ここでパウロはキリストの十字架に示された愛と復活の望みを確かなものとされたのです。



 「勇気を出せ」「しっかりせよ」とは、主イエスが死より復活し給うたように、私共も復活の命に与かっていることを信じ、苦難の中にあっても、何ものをも恐れることなく、キリストにある勝利を確信して生きることを意味致します。

 私共も、復活の希望が与えられていることを主にあって確信し、「死の棘」に刺し貫かれた生涯ではなく、「死んでも生きる」という確かな希望と喜びに溢れた人生を、死に打ち勝ち給うたキリストを仰ぎ見て生きることを許されているのです。

 私共もパウロのように、何ものをも恐れることなく、大胆に復活のキリストを証しし、そのキリストの復活に与かる者とされている恵みの内を、望みをもって生きる者でありたいと思います。

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 2007年9月16日 
「恵みを受け継がせる力」船水牧夫牧師
使徒言行録20章17−38節



 パウロは「”霊”に促されて」エルサレムへと急ぐ旅でしたから、帰り掛けに心残りであったエフェソに寄る暇はありませんでした。

 しかし、もうこの機会を逃したら二度と会えないだろう、そう思いまして愛するエフェソ教会の長老たちをエフェソの近くの港町ミレトスに招いたのです。

 急の召集ではありましたが、エフェソ教会の長老たちは何をおいてもという気持で三日の道のりを駆けつけて来たのだろうと思います。



 パウロは愛するエフェソの教会の長老たちを前に、訣別の言葉を述べますが、それは今までどんなことを話したか、何を教えたかではなく、どのように過ごして来たかをまず振り返ります。

 自分がどう過ごして来たか、その第一に、「全く取るに足りない者と思い」ながら「主にお仕えしてきました」と述べます。

 パウロはフィリピの信徒への手紙の中で「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(2.3)なさい、と教えておりますが、パウロ自身が神の前に打ち砕かれた者として、教会と神に仕えて来たと述べます。



 第二番目は、「涙を流しながら」、「主にお仕えしてきました」ということです。パウロは人々の苦しみ、悩みを自分のこととして感じ、熱い涙を流したのです。伝道者だけではなく、信仰に生きる者、全てにとって、そのことが当てはまる と思うのです。

 第三は、この身に降りかかって来た試練に遭いながらも、「主にお仕えしてきました」ということです。パウロは試練を、自分を訓練する為に神から課された試練として喜んでこれを受け、主にお仕えして来たと申します。私共も又、試練の中で更に確かな信仰を与えられたいと願う者です。

 第四番目に、「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも、方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました」とあります。その内容は、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」を「力強く証ししてきた」ということです。



 第五番目が、「そして今、わたしは、”霊”に促されてエルサレムに行きます。」自分の願い、思いではなく聖霊の導きのままに、主に従って行く決意を示しています。

 どのような苦難が待ち受けていようと自分は御霊に促されて、ただ神の恵みの福音を証しする任務を全うするだけだ、というのです。

 そして「しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」。

 ここにパウロの伝道者としての覚悟というか、姿勢というものをはっきり見て取ることができます。私自ら伝道者のはしくれとして襟を正される思いが致します。

 28節からはエフェソの人々への勧告となっております。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」。牧会的配慮は牧師だけの任務ではない、教会全体で為すべきことです。



 最後に、「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」と語ります。教会の中の様々な問題は御言葉によって解決する以外に、真の解決はない、ということです。

 「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」御言葉は第一に教会を建て上げ、私共を互いに高め合う働きを持っているということです。

 第二に、神の国を継がせる、すなわち神の子とされる、永遠の命へと召して下さるということです。

 36節に「このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った」とあります。エフェソの教会はパウロの言葉をただ聞いただけではありません。共にひざまずいて熱心に祈ったのです。

 どんなにか熱い祈りが捧げられたことかと思います。私共の教会も、御言葉の力を信じる祈りの共同体でありたいと思います。

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 2007年9月9日 
「天地の主なる神」船水牧夫牧師
使徒言行録17章16−34節



 パウロがアテネの町に入ったのは西暦50年頃のことです。その頃のアテネの町は学問、芸術の最盛期の輝きは失われておりましたが、依然としてヨーロッパに於ける文化、殊に哲学の中心地でした。

 しかしパウロは、至る所にある素晴らしい神殿、彫刻にも、町の人々の語る深遠な思想・哲学にも、感動も驚きも感じなかったようです。それどころか、「この町の至る所に偶像があるのを見て憤慨し」ました。

 天地を創造し、万物を支配し給う唯一の真の神を信じ、人間の手で作った神々の偶像を拝んではならないとの教えを、厳格に守っていたパウロにとりまして、神々の見本市のようなアテネの町に憤りを覚えたのは当然です。



 パウロは、ギリシア神話の神々は人間が作り出した神々であって、それを彫刻にして、神殿に安置して拝むことの愚かしさをまず説きます。そしてアテネの人々がまだ知らない真の神について、彼らにも分かるように、ギリシアの詩人の言葉を引用しながら、説き明かします。

 神は天地万物を造られたお方であること、そして人類も神によって造られたものであって、従って全ての人間は神の前にあって平等であること。神は自然現象、人類の歴史、全てを支配し、導き給う唯一のお方であること。

 そして御子イエス・キリストの十字架と復活を通して、神の救いのご計画が全ての人に明らかにされたのだから、悔い改めて、この恵みの福音を信じなさい、と訴えてパウロは説教を終えました。



 アテネの人々は、これを聞いて嘲笑い、聞くに値しないと思ったのです。とりわけアテネの人々にとって「死者の復活」は全く受け入れることのできないものでした。

 しかし、これこそがキリスト教の教えの核心なのです。復活抜きの福音はあり得ません。神の独り子イエス・キリストの復活は、霊魂不滅や単なる理論や作り話ではないのです。人間の歴史の中に事実として起きた出来事なのです。

 この復活こそがキリスト教の福音の根本なのです。



 これをアテネの人々は嘲笑い、耳を塞いだのです。このあざけりと無視は二千年の歴史を経て、今に至るまで続いているのです。

 教会はこのあざけりを背にしながらキリストの福音を語り続けて参りました。

 あざけりを受けて、イエスを現代人に受け入れやすいものにしようという試みが一部でなされていますが、それはキリスト教信仰の否定以外の何物でもありません。



 パウロが手紙の中で、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(Tコリント15.14)と述べている通りです。

 又、「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Tコリント1.18)とも述べておりますが、アテネでも、パウロは人々のあざけりに遇い、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言われたのです。これは私共の経験しているところです。

 「いずれまた」という機会はあるのでしょうか。「いずれまた」というのは福音の真理から顔を背けている姿です。



 34節、「しかし、彼について行って信仰に入った者も何人かいた。」ここに神様が、私共の思いを遙かに超えて豊かな実を結ばせて下さることを改めて教えられるように思います。

 私共シロアム教会では昨年に引き続いて、今年も伝道コンサートを計画しております。たとえ一人二人でもチラシを見て来て頂ければ嬉しく思いますし、それは神様がその人をお招きになられたのだということを信じます。

 私共は、時が良くても悪くても十字架の福音を大胆に語り続けて行く者でありたいと思います。そしてその結果については神の御手に委ねたく思うのです。

 そして私共の思いを超えてそこに神の力が働いていることを信じ、祈り続ける謙遜さに生きる者でありたいと思います。

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 2007年9月2日 
「救われるためには」船水牧夫牧師
使徒言行録16章25−34節



 パウロたちは、迫害に遭い、牢に入れられてしまいました。25節を見ますと、鞭打たれて血にまみれ、足枷をはめられ、身動きもままならない、しかも暗闇の牢の中で、尚も彼らは神様が自分たちと共にいて下さることを確信し、神様を賛美し、祈っていました。

 他の囚人たちは、パウロたちが打ちひしがれて当然と思われる中で、高らかに神を賛美し、祈っている声を聞いて。驚き、それはやがて感動へと変えられ、耳を澄まして聴き入っていました。

 パウロは牢の中にあっても神を賛美し、祈りをもって、苦難の場所を、他の囚人たちへの福音の証しの場所としたのです。



 絶望的な状態の中にあっても、尚、そこで希望を失うことなく、平安と感謝の内にある人を見る時、私共は驚くと共に、彼らをそのようにさせている力の源は何なのかということを考えさせずにおかないと思うのです。

 獄中にいた囚人たちも、絶望的な状況の中にあって尚、神に信頼し、賛美し、祈るパウロたちの信仰を見て驚き、感動し、そして大地震によって扉が開き、全ての囚人の鎖が外れたという奇跡を目の当たりにし、これは神の業であると信じ、パウロに従い、牢から逃亡することはしなかったと想像するのです。



 私共の周囲で、どうして見ようもない苦しみ、悲しみ、不安、絶望の中にあって、尚そこで揺るぎない信仰に生きておられる方を見る時、ここに確かに神様はおられるということを、その人を通してはっきりと知ることができます。

 そして自分もその人のように、神を信じて、どんな逆境、困難の中にあっても希望を失うことなく生きて行きたいと思うことでしょう。実際、そのようにして信仰に入った人は多いのです。



 看守は真夜中の地震によって牢の戸がみな開いているのを見つけました。

 看守は、囚人たちが皆逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。もし囚人を逃がしてしまった場合、看守は囚人が受ける筈の罰と同等の刑に服さねばならなかったからです。

 仕事を自分の人生の土台とし、それを支えに生きていた彼は、大地震によって自分の土台が根底から崩れてしまった、人生設計が粉々に砕け散ってしまった、そういう衝撃を受けてもう生きて行けない、そう思い定めて、とっさに剣を抜いたのでしょう。



 その時、看守は「死ぬな」との叫び声を聞きました。看守はその声が先程まで主を賛美していたパウロの声であることに気付いたのです。

 看守は、自分とは全く違う価値観、生き方をしている人がいることに驚き、自分も人生の嵐、大地震に遭っても、牢屋に閉じ込められても、揺るがない土台をしっかり持って生きたい、そう思ったのでしょう。

 そこで看守はパウロたちの前に震えながらひれ伏し、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と、問うたのです。

 彼は真実に自分が救われることを願い、その為に何を為すべきかを、そしてその為にはどんなことでもしようとの決意をもって、パウロに問うたのです。

 「救われるためにはどうすべきでしょうか」、その答えは、「主イエスを信じなさい」でした。パウロは主イエスへの信仰こそが、人生の土台、救いの道であることを示したのです。



 主イエス・キリストは私共全ての人間を救う為に、一人として救いから漏れることのないように、私共の罪を引き受けて十字架に架かって下さった神の独り子です。

 そのお方に一切を委ねること、そこに真実の救いの道がある、それがキリスト教の根本教義です。

 看守とその家族は、主イエスを信じ、主イエスを人生の土台として生き、主を証しする者へと変えられました。



 私共が絶望、悲嘆の中で思わず、主イエスの手を離してしまうようなことがあったとしても、主イエスは尚、そのような私共を捉え、支えて下さっていることを信じます。そのお方に全てをお委ねして生きて参りたいと願う者です。

 今与えられている家庭と職場、地域の生活の中で、主イエスを信じ、生きることの幸いを感謝し、喜び、祈りと賛美をもって「イエスは主なり」と告白し、キリストの福音を証しして参りたいと思います。

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