シロアム教会 礼拝説教要旨集
2007年11月 4日 11日 18 25日 目次に戻る
 2007年11月25日 
「思いを一つにして」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙2章1−11節



 今朝の箇所の6節から11節は、キリスト教の中心的信仰を言い表した個所と言えます。前半の6節から8節、そこにはイエス・キリストというお方が宗教的願望によって生み出された架空の人物ではなく、歴史上紛れもない事実であることが、先ず告白されております。

 キリストは神の身分でありながら、それに固執することなく、栄光の身分と力を捨て、人類の歴史の中に全き人間として、生まれたのです。それがクリスマスの出来事なのです。

 旅先の家畜小屋で産声を上げ、生涯の終わりには残虐な十字架刑につけられ、むごい死に方をされた。

 それはキリストが神の身分に固執せず、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったことによって、人間の持つ弱さと苦悩、そして罪と悲惨さ、全てをキリストがお引き受けになられて、徹底的に担い通された、そのことによって人類に対する神の愛を、その身をもって示されたのです。それによって人類は救われたのです。



 ペトロの手紙一の2章24節に「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とある通りです。

 私共は神の前に罪を犯し、その罪の故に、神の怒りによって滅ぼされる存在であったのですが、キリストが私共の罪一切を私共に代わって引き受け、十字架の死によって私共の罪を購って下さいました。

 それによって私共は罪赦され、神との交わりが回復され、永遠の命に生きる希望を与えられたのです。



 後半の9節から11節は、神に従い、十字架による死という最も低い所へ下り給うたキリストを、神は死より甦らせ、高く引き上げ、そして全てのものが彼のもとに膝をかがめ、「イエス・キリストは主である」と告白し、礼拝し、神を称える、これが後半の内容です。

 今日の聖書の箇所は、フィリピ教会の中に「利己心や虚栄心」があり、それが教会の一致を妨げていることを知ったパウロが、この問題を解決する為には、キリストのへりくだりにならう以外ないと確信し、当時、初代教会の中で広く流布していたキリスト讃歌を引用したのでしょう。

 弱さと罪に満ちた自分の為に、キリストが全き人となって来て下さって、この私の為に十字架において肉を裂かれ、血を流された、そこに示された神の深い愛と憐れみを思い起こし、「利己心や虚栄心」を捨て、キリストのへりくだりにならい、互いに思いを一つにして仕え合いなさいと勧めているのです。

 キリストのへりくだりに導かれて、相手を自分より優れた者とする、そのことを通して教会の交わりを強め、思いを一つにして福音の前進と教会の成長を見ることができるよう、フィリピの教会に勧めをしているのです。



 「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とありますが、残念なことに、「利己心や虚栄心」は、今日の世界に象徴的に、極めて深刻な形で表れているように思うのです。

 今日の世界は徹底的に利益中心です。全てが自分中心です。自分さえ良ければ、しかし、もう、それが立ち行かない所まで世界は追い詰められているように思うのです。

 日本の食品業界の数々の不正や偽りが次々と明らかになりました。利益第一主義が身の破滅を招いたといえます。

 前回の参議院選挙での自公の敗北は利益誘導型の選挙の終焉を象徴している選挙だったと言えるのではないでしょうか。

 地球環境の問題も自分の国さえ良ければ、では済まなくなっております。世界が一つ思い、一つ心となって一致協力しなければ、解決できることではありません。



 「利己心や虚栄心」をキリストにならって捨て、キリストの救いの事実に目を向けて生きる生き方の中にこそ、真実に私共の生きるべき道が示されています。

 そこにしか私共の救われる道はない、そのことをしっかり心に刻んで、「イエス・キリストは主なり」と告白して、キリストに従って参りたいと願う者です。

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 2007年11月18日 
「福音にふさわしい生活」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙1章27−30節



 パウロは、冒頭で「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と勧めております。

 コリントの信徒への手紙二にも、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(6.20)とあります。

 キリストの贖いによって罪赦され、神の国の一員とされたのですから、ひたすら神の恵みと憐れみ、神の愛に励まされて、新しい命の喜び、希望を持って、福音にふさわしい生活をし、自分の体で神の栄光を現しなさい、と言うのです。



 次に、パウロは「福音の信仰のために共に戦」いなさいと勧めております。

 実際、信仰生活をする者は心の内側にいつも大きな戦いがあることを知っております。肉の欲、自分の利己的願い、それらとの戦いの連続、それが信仰生活です。

 それは時として外との戦いという形で現れることもあります。福音の為の戦いというのは、あくまでも福音の内容を明らかにして行く為の戦いなのです。

 私共の生き死にが、このキリストの福音にかかっていることを、それぞれの立場から、それぞれの置かれた場所で明らかにして行く戦いなのです。



 ですから、そういう中で具体的な戦いの相手が立ち現われて来ることもあり得るわけです。

 異端的な教えとの戦いを避けることは許されません。又、国家権力の悪魔的な力と対決しなければならない場合もあるわけです。あるいは社会的慣習、儀礼や因習に対して福音を明らかにして行く戦いもあります。

 そのような戦いを一人一人がそれぞれの場で、それぞれの在り方でして行く、これが福音にふさわしく生きるということなのです。



 そしてそれは意識するしないに拘わらず、個人が孤立して戦っているのではなく、教会の共同の戦いとしてなされているのだということを覚えたいと思います。

 それ故、パウロは「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦って」いる、と述べているのです。

 私共は皆それぞれ異なった賜物を神から与えられております。

 それを用いて、それぞれの場所で、福音の為に戦っているわけですが、それを教会全体が祈りをもって一つ心となって支え合う交わりによって、個々の信仰の成長が計られると共に、福音も又、教会に属する人々の相違にも拘わらず「一つの霊(聖霊)」による支配に導かれて前進して行くのです。



 29節でパウロは、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と申します。

 キリストは、神の独り子であるにも拘わらず、十字架の苦しみをお引き受けになられてまで、私共の罪を担い、一人一人を愛して下さった、それによって私共は滅びから救われ、永遠の命を与えられたのです。それが福音なのです。

 その福音にふさわしい生き方が私共にも求められているのです。

 ヨハネの手紙一に次のような言葉があります。「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによってわたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(3.16)。

 そのように私共も又、キリストの為に、キリストの愛をもって他者の為に仕えて生きることを求められている、そう思うのです。



 私共がこの世にあって旗幟を鮮明にして福音にふさわしい生き方をし、苦しみを担ってこの世を生きるということは、一人では到底できることではありません。

 その為に教会はあるのです。一つの聖霊に満たされ、一つ心となって主にある交わりに支えられて、共に戦う、共に苦しむ、その砦が教会なのです。

 私共の信仰がいささかでも前進することがあるとするならば、それはお互いが信仰の交わりに生き、教会の礼拝で共に神を賛美礼拝し、聖餐に共に与かり、共に祈り合うことが許されているからに外ならないと思うのです。

 そこで本当に、「福音にふさわしい生活」が現実のものとなるのではないでしょうか。

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 2007年11月11日 
「生きるにも死ぬにも」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙1章20−26節



 パウロはここで自分が生きるべきか、死ぬべきか、どちらを選んだらよいのか、この二つの間で板挟みになっていると告白しております。実際に、私共の現実の生活の中でこのような問いを持ってしまうことはあり得ることです。

 政府は9日に自殺対策白書を初めてまとめました。西原由記子さんをはじめ、多くの自殺防止に取り組んで来られた方々の知恵がそこには入っていることと思います。とにかくこの10年で30万人以上が自ら命を断っているのです。本当にこれは深刻なことです。

 「この辛さを抱えたまま生き続けるべきか、それよりいっそ死んだ方が楽ではないか」、と眠れぬ夜を過ごし、思い悩む時でも、本当のところは生きられるならば何とか生きていたい、きっとそう誰もが願っている筈です。

 そういう状況にある人に寄り添って、何とか生きる方向へ一歩を踏み出してほしい、そういう願いを持って自殺防止センターが立ち上げられ、ボランティアによる電話相談が毎晩、この教会の一室でなされているわけです。



 パウロは、私の生き死に全てはキリストの栄光を現す為、その為に私は使徒として立てられ、働いている。ただ自分は全身全霊をもって、キリストの栄光を現す、この一事の為に努めている。そのことに於いて恥じることの無い生き方、死に方をしたいと切望していると述べております。

 パウロはそれに引き続いて、「死ぬことは利益なのです」と言い、更に「この世を去って、キリストと共にいたい」、それが自分の本音だというのです。

 しかし、それは生きられないから死んだ方がましだということではありません。パウロのみならず、全てのキリスト者はイエス・キリストの贖いの十字架によって罪の赦しを与えられ、罪の支払う報酬である死を死ぬことなく、主の復活によって確かなものとされた死を超える命、永遠の命に生きる希望を抱いているのです。

 その信仰故に死を恐れないのみか、「死ぬことは利益なのです」。キリストにあって死ぬならば、死も又、幸いである。それがキリスト教の死生観なのです。



 しかし、私パウロは使徒としてキリストの福音を宣べ伝えて行かなければならないから、「肉にとどまる方」を選ぶ、生きることを決断していると言うのです。

 パウロは自分個人の願いよりも、優先させなければならないものがあることを知っておりました。それは神の御心です。私共が生きているのは神によって必要とされ、神に用いられて、誰かの為に、何かに、役立てる為に生かされているのです。

 世の中には自分は誰からも必要とされていない人間だと思い込んでいる人が少なくありません。しかし、どんな人でも神によって必要とされ、生かされているのです。

 パウロが選び取った「あなたがたのために」生きる人生が決して平坦なものでなかったことは私共がよく知っている所です。現に、この手紙を書いている場所は牢獄の中でした。

 自分の為ではなく、「あなたがたの必要のために」生きる生き方を続ける限り、パウロには殉教の死も含めて、様々な困難、苦痛と向き合わねばなりませんでした。しかし、パウロは敢えてこの道を選んだのです。

 彼はこの生き方の中にこそ、本当に生きて甲斐のある喜ばしい真実の生き方があることを信仰を持って受け止めたのです。



 自殺対策白書には、いろんな対策が打ち出されているようですが、一番大切なことは本当の意味で、その人の「隣人」になることだと思うのです。それがその人にとって「生きがい」を見いだし、死から生への出発点になると思います。

 パウロが見いだした「生きがい」、それは他の誰でもなく、神様から必要とされている、神様から愛されている、そして神様によって死ぬにも生きるにも守られているということにありました。そしてそれは私共全てに言えることだと思うのです。

 私共はパウロがそうであったように、大胆に恥じることなく、生きるにも死ぬにもキリストが崇められることを願いながら、隣人に愛をもって仕えて行く者でありたいと思います。

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 2007年11月4日 
「福音の前進に役立つ」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙1章12−19節



 フィリピの教会の人たちはパウロがエフェソで投獄されたということを耳にし、献金や見舞品をエパフロディト という青年に託してパウロの許に派遣し、パウロの身の回りの世話をさせました。パウロはそのことを大変感謝し、そして自分は囚われているけれども、心配しないでほしい、キリストの福音はそのことによって停滞するようなことはなく、却って前進しているのだ、そのことを是非、あなた方にも知ってほしい、喜んでほしい、そういう気持でこの手紙を書き出しているわけです。

 パウロは、今日、世界のキリスト教界にとりまして最も偉大な伝道者、神学者だと言えます。しかし、彼が伝道していた当時、彼に対する評価は相当低かったと見るのが正しいようです。

 実際、彼は初期のキリスト者たちを迫害する側の急先鋒でしたし、何よりも生前のイエスにお目にかかっていたわけでも、従っていたわけでもありません。

 そして、パウロは、「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず」(ガラテヤ4章14節)とありますような、人の嫌がる病を患っていたようです。

 更には「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいる」(コリント人への手紙二10章10節)、そういう評価を人々から受けていたようです。

 しかし、パウロは、福音は自分のような者をも用いて、それどころか、何をしたくても動きのとれない、惨めこの上ない獄中生活を通してでも、福音は後退するどころか、前進したと述べているのです。



 状況の悪さ、その福音を語る者の資質、そうしたこの世的な評価によって福音の前進や後退が決まる、と判断するのはどうでしょうか。

 むしろ、世間の常識ではどうかなと思われる状況、そして人物、そういう中で語られる福音にこそ、却って、救いと恵みの約束、希望を与えて下さる神の愛を一層はっきりと伝えられるということがあるのです。

 一人一人が自分の置かれた場で、それがどんなに悪い条件のように思えても、そこで福音の前進に役立って用いられている、キリストの証人として立てられている、そう信じます。

 福音が前進するのはキリストの恵み、キリストの福音、それ自身に力があり、人間の思いを遙かに超えて前進して行くのだということを、今一度、覚えたいと思います。時には後ろ向きと思われるような事態の中でも、福音、それ自身の力によって役立てられ、用いられて、福音が前進して行くことを信じます。



 私共のシロアム教会は現在、苦難の中にあります。しかし、神様に背負われ、持ち運ばれていることを信じ、希望を持って、喜びと感謝の内に信仰生活、教会生活を送る者でありたいと思います。

 シロアム教会は、苦難の中にあっても、主にある希望を持ち続けて、教会生活を過ごした牧師、信徒によって支えられ、福音伝道の業が進められて参りました。

 今朝、こうして先に天に召された先輩たちのお写真を前にしながら、聖徒の日の記念礼拝を守り、改めて、そのことを思うのです。

 もうすぐアドヴェントです。2千年前、マリアの身に起こったことが、私共人類の救いの出発点になるなどと言うことを当のマリア自身は勿論のこと、周囲の誰一人、思う者はなかったことでしょう。

 しかし、マリアの身に起こったことが神の御計画として、役立てられ、用いられたのです。私共も又、私共の身に起こった一つ一つが神によって、福音の前進に役立てられていることを信じたいと思います。

 マリア讃歌(ルカ1章)に歌われておりますように、自らの卑しさ、貧しさ、低さにも拘わらず、神はこのような者をも心にかけて下さり、恵みと憐みを持って助け、救って下さった、その恵みを心から喜び、感謝をもってクリスマスに向かって備えをして参りたいと思います。

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