シロアム教会 礼拝説教要旨集
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2007年12月30日 
「目標を目指して」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙3章12節−4章1節



 神の子イエス・キリストは、神に背き、罪のうちを歩む私共の身代わりとなって、罪を購って下さった、それが十字架に示された神の愛です。ところがその十字架の救いの恵みに逆らって歩いている者が多いことにパウロは深い悲しみと憂い、痛みをもって涙しているのです。

 十字架に敵対して歩く者の正体は、初めから終わりまで全て自分の欲望、利益が根本にあって、それを絶対のものとして生き、それに捕らわれて生きている、つまり地上のことしか考えていない、地上のものにしか望みを見出さない、その結果、彼らの行き着く所は滅びだ、と言うのです。

 キリスト者をしてキリスト者たらしめる者、それはキリストが私の罪の為に十字架にかかり給う程に、私を愛し、赦し、招いて下さっている、そのことを信じ、受け入れる信仰、それだけが救いの条件、保証なのです。



 パウロは、神の上への召しに望みを託して将来の目標に向かって一心に進む生き方、そういう生き方へと人々を招き、私に倣え、又、「私たちを模範として歩んでいる人々」と共に歩もうではないか、一緒に信仰生活に励もうではないか、と勧めているのです。

 パウロは自らがキリスト者として完全な者となっているから、私を見習えと言っているのではないのです。

 12節以下、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 キリストが私共を捕らえ、愛し、支えていて下さっている、その完全さの故に生きる根拠が与えられ、追い求めるという在り方が成立しているのだ、ということです。



 パウロは、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(2章13節)と語り、人が神を尋ね、信仰を求める、それ自体が実は神の働きだ、聖書を読むようになったのも、教会に来るようになったのも、全ては神の導きによることだと言うのです。

 洗礼を受けるというのは、自分の決心や決意の上に成り立っているように思いがちですが、そうではなくて、実はキリストが既に私を捕えて下さっている、そこに根拠があり、それを信じて、洗礼を受けるのです。

 クリスマスに受洗されたIさんは、「全てこうなるように神様によって導かれて来たということを、今はっきり感じています」、と感謝をもって告白されておりました。

 そうなのです。神様は愛をもって彼女を捕らえ、支え、導き、信仰の告白へと至らせて下さったのです。それは多かれ少なかれ私共の心にある思いでもあります。



 キリストの十字架の恵みによって、私共を栄光の体に変えて下さる神は、この世に生きる私共を力付け、励まして下さるのだから揺るぐことなく、主にあって堅く立ちなさい、とパウロは最後に勧めております。

 信仰生活には内からも外からもさまざまな誘惑、攻撃があります。それがどんなに強いものであるかはお互いよく知っているところです。

 しかし、私共の本国が天にあることを信じ、十字架の救いの力に全てを委ね、互いに励まし合い、祈り合う中で信仰の生涯を全うしたいと思うのです。

 私共人類は驕り高ぶり、自然を支配出来るかのような錯覚に陥り、自らを神として生き、欲望の赴くままに生きております。しかし、私共キリスト者は移ろいやすい、儚い、この世の宝に目を奪われることなく、それを追い求めることなく、ひたすら上に召して下さる賞与を得ようとする、この一事を努めて参りたいものです。

 新しい年も、共に、主にあって堅く立ち、目標を目指して、主のご栄光を現し続ける者でありたいと願っております。

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2007年12月23日 
「小さい救い主」西原明 シロアム教会協力牧師
ミカ書5章1−4a節 ルカによる福音書2章1−14節



 今日のクリスマス礼拝でIさんが洗礼を受けます。2007年のイエス・キリストの誕生日はIさんの新しい命の誕生日であります。

 二千年前のユダヤは外国の支配を打ち破る救い主メシア、カリスマ的力を持つ王が現れるのを待ち望んでいました。

 だが、クリスマスに生まれた救い主は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」でした。乳飲み子は一人では生きることが出来ない弱く小さい存在です。

 私たちもそのようなものとしてそれぞれの人生に送り出され、今日まで歩き続けています。イエス・キリストもまた、同じ道を歩むものとして、最も小さな姿で来られた救い主です。



 「小さい救い主」について黙想しながら、私は
「小さい神の子供たち」Children of Lesser God
というお芝居を思い出していました。聾唖者がヒロインです。

 人は神の姿に似せて造られたと聖書に書いてあるが、耳が聞こえない私を造った神さまご自身も、耳が聞こえない不完全な神、小さい神だと、ヒロインは言うのです。

 神さまはこのようなユーモア溢れる人生の受け止め方を笑って赦してくださる方だと私は信じています。



 フィリピ2:6に、救い主キリストが私たちを救うために「神の身分でありながら神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられた。」とあります。

 同じことを、ヘブライ2:17 は、「イエスは、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」と言います。

 救い主が身を低くして「人間と同じ者」「全ての点で兄弟たちと同じようになる」ということのきわまった姿が、「ちっぽけな乳飲み子」としての誕生でした。

 今、Iさんも神の新しい乳飲み子として誕生します。この後いつも、Iさんの兄弟となられて同じ苦しみ、喜びを分かち合ってくださるキリストが、共に歩いてくださいます。

 その道筋には、信仰の先達たちの励ましの声が聞こえます。



 記者ヨハネの声です。「言は肉となって、私たちの間に宿られた」。

 ― そう、神の身分であられた方が私たちと全く同じ人間となり、私たちと一緒に住んでくださる。私たちはもはや独りぼっちではありません。

 マタイが叫びます。「生まれる男の子はインマヌエルと呼ばれる。それは『神は我々と共におられる』という意味である」。― 

 生きることが苦しみ、絶望に満たされていると見え、死の危機に脅かされる時にも、その暗黒の中に「神は我々と共におられ」ます。

 クリスマスに飼い葉桶の乳飲み子として生まれ私たちの兄弟となられたキリストは、終わりまで私たちを導き共に歩み、私たちを清めて栄光に輝く者に育ててくださるのです。

 「ついには、私たちは皆、成熟した人間となり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」。(エフェソ4:13)

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2007年12月16日 
「キリストを知る絶大な価値」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙3章1−11



 クリスマスは本当に喜びに溢れた日です。

 私共を救うために御子イエス・キリストが全き人間として、この世にお生まれになられたからです。この喜びの知らせを感謝をもって共に喜ぶ、それがクリスマスなのです。

 それ故、「クリスマスおめでとう」と互いに心の底から言い交わせないとすれば、自分自身の信仰の有り様というものをもう一度、自身に問いかけて見る必要があります。

 そして、この喜びはクリスマスだけではなく、私共キリスト者の全生活、全領域において溢れている筈です。



 パウロが今日の箇所で「喜びなさい」と言っているのは、フィリピ教会に何か特別に喜ばしい出来事があったから、パウロの身の上に特別に喜ぶべきことがあったからではありません。

 フィリピ教会やパウロを巡る状況はまさに、その逆です。パウロは獄中にあり、フィリピ教会は異端との戦いという辛く、深刻な状況の中にあって、「喜び」が語られているのです。

 3章1節、「主に於いて喜びなさい」。4章4節、「主において常に喜びなさい」。ここにパウロの喜びの根拠がはっきりと示されております。

 キリスト教信仰の根底にある喜びとは、私共がこの世で、いかなる状況に置かれたとしても、とても喜ぶことができない状況の中にいたとしても、「主において」いつも喜ぶことができるということなのです。

 主イエス・キリストが救い主として、この世においでくださったからです。そしてその主は、いつも共にいて下さると約束して下さったインマヌエルの主であるからです。



 この地上において経験する悲しみ、辛さ、苦しさ、悩み、不安というものが、キリスト者になったら無くなるというわけではありません。

 そういう中にあっても、救い主イエス・キリストがいつも私共と共にいて恵みをもって支え、守り、導いて下さる、救って下さる、キリストの霊が、「万事が益となるように共に働くということ」(ローマ書8.28)、それを信じることにおいて真実の喜び、決して、どこからも、誰にも奪われることのない喜びが私共の根底に与えられている。それがパウロの言わんとする「主において」の喜びなのです。

 ローマ書8章の終りでパウロは、どんなものも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と語り、キリストにある輝かしい勝利を歌い上げております。

 私共キリスト者は、この世の知らない「喜び」を「主において」与えられている、これは何にも変えられない喜びです。



 キリストと出会う前のパウロは、自分の血筋、学問、教養を誇り、ファリサイ派の一員として厳格に律法を守っていたことを誇り、それを喜びとして生きていたのです。

 しかし、復活のキリストとの劇的な出会いを通して、それら肉を誇りとする生き方が何の価値もないばかりか、むしろどんなにか罪深いものであるかを知って、キリスト以外の一切のものを頼みとしない生き方こそ、真実の信仰であり、そこに真実の喜びがあることを知らされ、回心したのです。

 私共はどうでありましょうか。この現代日本の社会の中で、肉を頼りとしてはいないでしょうか。そういうものを頼りとする競争社会、格差社会に自ら巻き込まれてキリストの恵みを見失ってはいないか、愛を見失ってはいないか、喜びを見失ってはいないか、顧みたいものです。



 肉を頼みとし、それを誇り、そこに絶対的な価値を求める時、必ず競争が生まれ、格差が生じる、その中で人間関係が歪められて様々な問題が生じて来るのです。

 こういう社会の中で、それとは全く異なった価値観、愛の価値の尊さを私共はキリストの内に見い出し、それに優る喜びはないことを知らされました。キリストの愛という絶大な価値を知って、それに捉えられてキリスト者となったのではないでしょうか。

 信仰によってのみ、私共は罪が赦され、義とされ、救われる。それがキリストを知る絶大な価値なのです。

 そこに人間にとって本当の喜びの生活があることを、身をもって証しして参りたいと思う者です。

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2007年12月9日 
「共に福音に仕える」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙2章19−30節



 この箇所は個人的な用件について記してある箇所です。

 その内容は、自分は今、獄中にいるが自由の身になってフィリピへ行くことを願っている。その前に弟子のテモテを訪問させたい。更にエパフロディトをフィリピに送り返すというものです。

 パウロがテモテをフィリピに派遣するのは、「あなたがたの様子を知って力づけられたい」からだと記しております。

 信仰生活はどんな優れた人でも、その人だけが個人で立っているのではありません。主イエスが自分に与えて下さる恵みを分かち合う中で、成長し、前進する、それが教会という所です。



 勿論パウロは自分が力づけられたい、その為だけでテモテをフィリピに送ろうと考えていたわけではありません。フィリピ教会の為に適切な指導、助言を与えられる人を派遣したいと考えてのことでありましょう。

 パウロはテモテを「確かな人物」だと評しております。「確かな」と訳された言葉、口語訳聖書では「練達」と訳されておりました。

 私共もテモテのように練達した確かな信仰者として、福音に仕える者でありたい、他の人の救いの為に、信仰の成長の為に、親身になって関わる者、上よりの助けを祈りながら、そのような者にならせて頂きたいとの志をもって日々歩みたく願う者です。



 次にパウロはもう一人の人物、エパフロディトについて述べております。

 フィリピ教会がエパフロディトをパウロの許に遣わした理由は二つです。1つは、フィリピ教会から見舞の品や献金をパウロに届けさせること、もう一つは獄中のパウロをお世話する為です。

 ところが不幸なことに、エパフロディトは病気にかかり、死の一歩手前まで行ったのです。

 神の憐れみによって癒された彼は、自分の病気のことがフィリピ教会に知られて、心苦しく思い、一刻も早くフィリピに戻りたいと考えました。パウロも彼をフィリピに戻すことが必要であると判断しました。



 パウロは彼の病が癒されたこと、そこに示された神の深い憐れみに本人はもとより、パウロも又、慰められ、力づけられ、神の恵みに感謝し、喜んでいることを記し、そしてフィリピの人たちも彼との再会の喜びに加えて、彼が神の憐れみを得て、病気が癒されたことを共に喜んでほしい、そうパウロは願ったのです。

 更に、フィリピの信徒たちが遠くにいた為にできなかったパウロへの奉仕を彼らに代わって果たし、しかも命懸けで果たしてくれた。その彼を喜びと尊敬をもって迎えてほしいと書き送っているのです。

 エパフロディトの思いとしては、自分が病に倒れ、十分な働きができなかったことを悔やみ、挫折感を味わっていたことでしょう。しかし、パウロの言葉にどんなにか励まされたことでありましょうか。

 又、フィリピの教会もこのパウロの言葉をどんなにか感謝したことかと思うのです。



 教会は罪人や病人と共にいて下さったイエス・キリストを頭とし、体とする群れです。イエス・キリストによって生きる望みを与えられた罪人の群れです。

 私共はどうでありましょうか。この世の常識から言えば、歓迎する価値のない人、歓迎すべきとは思われない人々を大切にし、心から喜んで受け入れようとする姿勢が私共の教会にあるでしょうか。

 イエス・キリストを頭とし、体とする教会は、そのことにおいて真価を問われるように思うのです。

 私がこの教会に遣わされて以来4年9カ月、シロアム教会が教会でなければならないものを本当に大切にし続けて共々に励んで来たかどうか、そのことを思うのです。

 この教会が、これからも親身になって信仰の友の為に配慮し、祈る教会でありたい。

 そして、この世では歓迎されない人々、役に立たないと思われている人々、差別されている人々の為に仕える教会として、この暗闇の世に、キリストの平和の光を輝かす教会として前進して参りたいと願う者です。

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 2007年12月2日 
「命の言葉を堅く保って」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙2章12−18節



 冒頭に「だから、わたしの愛する人たち」とあります。あなたがたは主にあって救われ、主イエス・キリストを愛する者とされたの「だから」という意味です。

 同時にこの「だから」は、その直前の6節から11節に記されたことをも指しております。キリストが神への従順に徹して栄光を受けられたの「だから」あなたがたも、喜んで神への従順に徹しなさい、と勧めているのです。

 罪深い自分を招いて下さり、キリストの贖いの恵みによって救いに与かる者とされた、その恵みを感謝すると共に、恐れおののきを持って聖なる神の前に、額ずき、自分の救いの達成の為に励むようにと、パウロは勧めております。



 キリスト教の福音の根本である「救い」というのは、自分の力、能力、修練によって獲得するのではなくて、ただ神の恵みのみ、信仰のみであるということは私共のよく承知している所です。

 ですからパウロがここで、各自が救いの達成に努めるべきことを言っているのは、刻苦勉励して信仰の奥義を極めろと言っているのではなくて、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(コリントの信徒への手紙二6章1節)という意味で言っていることがお分かりだと思います。

 本物の信仰というのは、私共の歩みを全て神様にお委ねすることですが、しかし、そのことは自分の努力を放棄することではないわけです。

 むしろ逆に自分の救いを人任せにしないで、自分自身のこととして、責任を持って救いの達成に努めるべきことをパウロはここで告げているのです。



 神の恵みを信じて、自分の救いの達成の為に全力を注ぎなさいという勧めに続いて、14節では「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝」(15節)く者となれるとパウロは言うのです。

 この世は決して沃野、緑の牧場ではなく、むしろ呟きや疑い、苦しみ悩みの多い砂漠、荒れ野だと思います。しかし、そこにおいてこそ、私共が何を求め、何を頼りとして生きるべきかが本当に見えて来るように思います。

 この「よこしまな曲がった」時代を、どう生きて行くべきか、何を求め、何に支えられ、何を頼りとしてキリストの日に導かれるのでありましょうか。

 それが16節前半に示されております。「命の言葉をしっかり保」つことによって支えられ、導かれるということです。



 「命の言葉」とは、言うまでもなく聖書のことです。この聖書を拠り所として、キリスト者は、「よこしまな曲がった時代」を生き抜くのです。

 呟き、思い悩み、途方に暮れて生きる目標を見失うこともありましょう。しかし、この命の言葉である聖書が開かれ、読まれ、それに従って生きる所に、困難ではありましょうが、それらを乗り越えて、キリストの日という救いの完成に向かって、この世を走り続ける力が与えられるのです。

そこに私共の生きる希望が、目標があるのです。



 詩編119編105節に「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」とあります。

 聖書を道の光、歩みを照らす灯として、この「よこしまな曲がった時代の中」を生きる時、「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」とパウロは確信を持って語っております。

 11節に、「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」とありますように、キリストが来られる終わりの日まで、たとえ小さな群れであったとしても、この高田馬場の地で「イエス・キリストは主である」と告白し、暗闇のようなこの「世にあって星のように輝き」、「命の言葉」を証しし続けるという尊い使命を私共シロアム教会は主から託されているのだということを誇りとして、与えられた人生を「思いを一つにして」、しっかりと生きて参りたいと思います。

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