シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年1月2 7日 
「共に励まし合うために」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙1章8−15節



 パウロにとって、ローマの教会は未知の教会でしたが、遠くローマに信仰を同じくする教会が建てられていることを覚えて、神に感謝せずにはおれませんでした。

 あらゆる世俗的繁栄の象徴であるローマにおいて、キリストの福音を受け入れ、真の神を礼拝する群れが存在している、そのことは異邦人伝道に召され、世界宣教の幻に生きるパウロにとってどんなにか、大きな喜びであり、励ましとなったかと思います。

 そして、9節後半では、まだ会ったことのないローマの教会員のことを絶えず祈りの中で覚えていると記しております。



 次に、パウロはローマ教会への訪問を、切実な思いで、「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」(13節)と、自分の願っていることが神に許していただけないので、どうしても行けないでいることを、告げております。

 そのことを告げてからローマ教会訪問の目的を11節以下で述べております。第一に「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。」あなたがたの力になりたい、励ましたいからだ、と言うのです。

 ローマ皇帝を神として礼拝することを強いられ、キリスト教に対する迫害も日増しに強まって来ている、そうした中で、キリストを信じる群れがキリストの福音を掲げて戦っている、その小さな群れのためにパウロは祈っている、祈っているだけではなく、今すぐにでも行って励ましたいと言うのです。パウロの熱い思いというものが伝わって参ります。



 第二番目の目的は、「あなたがたの所で、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」パウロは初代教会の優れた伝道者、指導者の一人として、四方八方からの苦しみの中で、福音のために戦い続け、教会の人々に「霊の賜物」を与えることを、伝道者としての重要な使命であると自覚し、そのために働いておりました。

 同時に彼自身もキリスト者の一人として、教会の交わりの中で、養われ、励ましと慰めを与えられたことも確かなことです。

 パウロはローマの教会に対しても、謙遜な思いを持って、自分が彼らからの励ましと慰めを与えられたいと願い、期待しているのです。



 第三に、13節、「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで」いるというのです。

 パウロは、共に励まし合うために、と述べた後、更にキリストをまだ知らないローマの人々に伝道したいという希望を語っております。

 信仰の訓練を通しての個々の信仰の成長と教会形成、そして教会の外なる人々への宣教の働き、教会形成と伝道という、教会の働き全体に仕えたいというパウロの思いがここに表れていると思います。



 そして最後に、今までの3つの目的のまとめとして、それをするのは止むに止まれぬ責任感からだと申しております。

 「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」(14節)。パウロはどこにおいても、福音を宣べ伝えなければならないということを、謂わば借金、負債のように自覚していたのです。

 教会の敵としてキリスト者の迫害の先頭に立っていた自分が、神の憐れみによってキリストに仕える者とされた、しかもそのような私を神は召し、福音宣教のために用い給う。それ故、パウロは宣教の業を謂わば借金、負債として自覚していたのでしょう。



 キリストの福音によって救われたという喜びと感謝から来る、この愛の重荷、愛の負債は、しかし、全てのキリスト者にある共通の思いでもあります。

 パウロが自分はキリストの僕であって、キリストに愛の負債を持っている者として福音を宣べ伝える責任がある、と述べておりますが、パウロ同様、私共全ての者が、何のいさおしもないのに神に召し出され、救いの喜びに与かった者であります。

 そのことを覚えて共々に、主に生かされている喜びと感謝を持って、キリストの福音を証しして参りたい、そう願う者です。

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 2008年1月20日 
「神の福音に召された私たち」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙1章1−7節



 宗教改革者マルティン・ルターは「ローマの信徒への手紙」の注解書の序文で「まさしく新約聖書の主要部、又、わけても鮮やかな福音」と記し、そしてキリスト者がそれを一語一語暗唱できるまで覚える値打ちのあるものだと付け加えております。又、同じく宗教改革者カルヴァンも「この手紙を理解する者は全聖書を理解する扉を開く」と言ったと伝えられております。

 ルターやカルヴァンは、この手紙によって戦い、新しい教会の土台を据えたと言っても過言ではないでしょう。

 私共の生きている時代も教会の内外から激しく信仰が問われているという状況には変わらないのではないでしょうか。



 私共はキリストの体なる教会に属する、「神に愛され、召された聖なる者」として、一人一人がキリストの体を形造っている枝々です。内外にあるキリストを信じさせまい、離れさせよう、誤らせようとする悪しき力と断固として戦うべく選び分かたれたキリスト・イエスの僕、それが私共です。

 神の福音の為に選び出された私共が、この救いの喜びの「音ずれ」を、より確かなもの、より強固なものとする為にも、この「ローマの信徒への手紙」を、これから共に学んで参りたいと思います。

 私共の信仰が成長する時、この教会も成長し、今、この世界に漂う何ともやり切れない世相、閉塞状況、混迷を打破し、まことの喜ばしい「音ずれ」、福音を力強く証しする群れとされると思いますし、そうならせて頂きたいと思います。



 パウロは未知のローマ教会に手紙を書き送るに当たって、自分は神の召しによってキリストの奴隷として、福音を宣べ伝える使徒となった者であると記し、それ以外の肩書や経歴は一切記しておりません。必要はないと考えたからです。但し、自分が福音をどう理解し、信じているか、それだけはどうしても挨拶の中に入れたかったのでしょう。それがハイフンの中の2節から6節迄です。

 この2節から6節は、パウロ独自の言葉ではなく、当時の教会が共通に持っていた言葉、礼拝や信仰教育の中で語られて来た言葉を用いて「わたしたちの主イエス・キリスト」とはどういうお方であるのかを明らかにしていると多くの注解書が指摘しております。

 そしてその理由を、キリスト者が共通に理解し、信じている主イエス・キリストにおいて、たとえ一面識もなかろうとも、主にあって一つ体である、主にある兄弟姉妹であることを確認したかったからではないか、というのです。

 2節から6節に記されております内容は、この手紙全体を通してパウロが明らかにしておりますので、これから丁寧に学んで参りたいと思っております。



 パウロは初めに、あなた方ローマにいる人々と、同じ主イエス・キリストに属する者として召されたという共通のものによって結ばれていることを確認した上で、ローマの教会に恵みと平和を祈り、長い手紙を書き始めております。

 パウロが約2千年前、ローマの教会の信徒に宛てて、親しみを込めて書き送った手紙、それがこの手紙です。ここで語られている内容、それはパウロが命懸けで伝えようとしたイエス・キリストの福音です。

 ローマの教会がこれによって力付けられたように、私共も又、この手紙からキリストの福音を、喜ばしい「音ずれ」を信仰をもってしっかり聞き取り、力付けられ、励ましを受けたいと思います。



 7節にある「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」とあります。「聖なる者となった」というのは聖人君子の聖人という意味ではありません。

 6節に「イエス・キリストのものとなるように召された」とありますが、これと同じことです。キリスト者となった、と言い換えても間違えではありません。

 「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」を、そのまま「神に愛され、召されてキリスト者となったシロアム教会の」私共一同に宛てられた手紙でもあるのだということを思いつつ、これから学んで参りたいと思うのです。

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 2008年1月13日 
「私を強めてくださる主」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙4章10−23節



 この手紙は、フィリピの教会の人たちが獄中にあって苦難の生活を強いられているパウロを力付け、励ますために使者を送ったことに対するパウロからの感謝と御礼の手紙です。

 と申しましてもパウロは、自分はどんな境遇にあっても足ることを学んでいる故に、贈り物自体よりも、その中に現れたフィリピ教会の信仰的成長を見ることができて嬉しい、と言っているのです。

 つまりパウロは、フィリピ教会の援助を信仰の証し、神への献身の徴と理解したのです。フィリピ教会が、パウロの獄中での苦難を共にし、更なる福音の前進のために献身の徴として献金を捧げた、その信仰を喜び、同時に、捧げられた献金によって必要を満たして下さる神に感謝しているのです。



 11節に、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」、とあります。

 「満足することを習い覚えた」、これは当時の有力な思想であったストア哲学の言葉で、「内的に充足する」という意味です。この思想はストア哲学だけではなく仏教や儒教にも通底するものがありますが、それはあくまでも自分の精神的鍛練によってこの境地に達することを理想としているのです。

 しかし、パウロの場合、この自足の境地に自分を到達させるものは、自己鍛練や精神力ではなく、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)と申しておりますように、イエス・キリストの力を受けるならば足ることを知るだけではなく、あらゆることを成し遂げて行くことができるというのです。

 そこにストア哲学や仏教などの教えとの大きな、決定的な違いがあるのです。



 パウロはどんな境遇に置かれようとも主が共におられることを信じ、主が一切の必要を満たして下さるお方であることを信じて、全てのことに感謝と喜びを持って、生きていると告げ、そしてそのような生き方へと私共を促しているのです。

 それが19節に示されております。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」

 そして、だから、少し前に戻って6節、7節、「どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

 それ故、「主において常に喜びなさい」(4章4節)と繰り返し、繰り返し、この手紙の中でパウロは勧めているのです。

 そして最後に、一切の必要を満たして下さる神への感謝と賛美がなされております。「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20節)。



 この正月の間、一億人以上の人が神社仏閣でお参りしたと報じられております。何のためにお参りするのか、その多くは商売繁盛、無病息災、家内安全、祈願成就といった自分のことに関する願い事が叶うようにとお参りし、御賽銭を投げ入れます。

 しかし、キリスト教はそうした御利益を願って献金しているわけではありませんし、献金すれば現世で幸せになれるとは説きません。私共そのことを願わないわけではありませんが、そのために献金しているわけではありません。

 この世で苦しみ、悩み、病を抱えたままで救われる道がキリストによって示されている、そのことへの感謝の徴として、信仰の証しとして献金を捧げるのです。

 私共はお金という最も俗なるものを礼拝という聖なる場で、献金として神の御業のために捧げる、そのことによって自分たちが日常生活の他の場面でも、必要とされるものを捧げて神の御栄光を現し、福音の前進のために働く用意がある、隣人のために時間と労力と財を捧げる用意がある、ということを告白しているのです。

 私共は、神への「香ばしい香り」として、共々に福音宣教の業に仕え、主の恵みを証しし続けて参りたいものです。

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 2008年1月6日 
「人知を超える神の平和」船水牧夫牧師
フィリピの信徒への手紙4章2−9節



 フィリピ教会のエボディアとシンティケという二人の有力な婦人が、仲たがいをしてしまったことにパウロは心を痛め、「主において同じ思いを抱」いてほしいと願い、第三者にも、その和解の労を取ってくれるよう訴えております。

 神がイエス・キリストにおいて示して下さった神の愛、赦し得ない者を敢えて赦し、愛して下さったその恵みに応えて、和解し難いと思える人との和解を求めて生きるところに主にある交わりが形造られて行くのです。

 それ故、彼女たちがキリストによって示された赦しと愛をもって、神に喜ばれる交わりに生きてほしい、それがパウロの願いでした。



 4節以下で、パウロは、「主において常に喜びなさい」と申します。キリスト者とは、御子キリストの贖いの十字架によって罪と死から救われ、神との永遠の交わりに生きる喜びを与えられた者のことです。

 救い主イエス・キリストがいつも共にいて下さるのだから、この世のことに捕らわれて主にある喜びを見失うようなことのないようにと勧めているのです。

 「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになりなさい」とは、信仰に根ざした寛容のことです。私共キリスト者は、キリストによって、自分のどうしてみようもない罪を無条件で赦された恵みを感謝し、神と人との前に謙遜に生きるべく召された者です。

 とすれば、居丈高に人の欠点や罪を責めたり、怒ったり、いらいらしたりできない筈です。不和や争いの中にあっても謙遜と柔和な心をもって接する、それがキリスト者に求められる広い心なのです。



 異教徒の町、フィリピで暮らしていた信徒たちにとりまして、又、日本に生きる私共にとりましても、「常に喜べ」「すべての人に広い心を持て」「どんなことでも思い煩うな」というこの三つの約束を果たすのは至難の業、実行不可能に思えます。

 パウロはその道を私共に示しております。それが6節後半、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」神はいつもあなたと共にいて備えて下さっているのだから、感謝し、神に全てを委ねて祈りなさい、と勧めているのです。

 「何事につけ」とありますから、祈りに制限はないのです。どんなささいなことでも神の前に持ち出しさえすれば、全ては祈りに変えられるのです。

 たとえそれが「うめき」であったとしても、神に向かってなされるなら、それはもう立派な祈りなのです。



 更に「感謝を込めて」とあります。あらゆる祈りを感謝をもって献げなさいと、勧めているのです。

 私共の現実がどうあれ、キリストが私共の為に救いを全うして下さったという事実は変わることがないからです。

 感謝して生きる、それは人間の心がけでそうなるのではなく、神がそういう生き方をイエス・キリストにおいて既に用意して下さった、ということなのです。

 ですから、「求めているものを神に打ち明けなさい」と続けております。

 このように神が私共と共におられ、全てのことを益として下さるお方であることを信じ、感謝をもって祈る、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」その時、私共はあらゆる思い煩いから解き放たれる経験をするのです。

 何と素晴らしいことでありましょうか。感謝でありましょうか。



 主イエスは弟子たちに言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14.27)。

 キリストを信じるとは、キリストが与え給う平安、平和の内に生きることです。

 あらゆる問題を、たとえ呻くほかないと思える時であっても、呻きを祈りに変えることのできるキリスト者は思い煩いに打ち勝つだけでなく、どんな時にも平和に生き得るものとされているのです。

 新しく始まったこの年も、主にある交わりの中で、お互いが神の平和、平安の内を歩む一年でありたい、そう願い祈る者です。

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