シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年2月24日 
「人を分け隔てなさらない神」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙2章1−11節



 立花隆氏は、生物としての人類の生存条件は三つある。

 それは大気と水と食料だ。そしてそのどれもが危機へ、破局へと向かいつつある(2,3日前のNHKテレビでオーストラリアの深刻な水不足を放映。実際、水不足の危機は地球的規模で現実のものとなっている。20世紀、世界は石油利権で何度も戦争をして来たが、これからは水不足が深刻化し、激しい奪い合いが起こるだろうと言われている)。

 それを最早、防ぐ能力、自浄能力を人類は失いかけている。そして、ルネサンスの終焉、近代合理主義の崩壊、人類の黄昏の時代に今、我々は生きている、と立花氏は言うのです。



 パウロは1章の後半で、人間は神を否定し、自らを知者と思い上がり、「神の真理を偽りに替え」(25節)た故に、神は人間を為すがままに任せられた。

 そしてそれが「死に値するという神の定めをよく知」(32節)りながら、尚、そこに留まっている人間の罪と悲惨な姿を記しております。まさしくそれは今日の世界の状況と見事に符号しているのではないでしょうか。

 「私たちが知っている通り、被造物全体が今に至るまで、声を合わせて呻き、痛みを訴えているのです」(ローマ8章22節、八木誠一訳)。パウロが今日の姿を予想したかのような言葉を2千年前に発していることに驚きを覚えます。

 創造の秩序、自然との調和、これらを破壊している人間の愚かさ、罪深さ、神への背信行為は、やがて自らの滅びを招かざるを得ない、そのことについては「弁解の余地がない」と1章20節で語っております。



 「かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(2章5節)。

 神の怒りの日、神の裁きの日、神の最後の審判、その日が必ず来る。神は、神の「豊かな慈愛と寛容と忍耐」(4節)をもって、私共が悔い改めて、神の許に立ち帰るのを待っていて下さるが、必ずその日は来るとパウロは申します。

 かつて神は人類の犯した罪の故にノアの洪水をもって滅ぼされましたが、今又、人類は自らを神とする傲慢さをもって自然を支配できるかのように錯覚し、神の前に罪を重ね、それを為すがままに任されたという形で、神の怒りが大洪水によってではなく、その逆に地球から水が無くなるという形で、被造物全体を巻き込みつつ、人類が滅びへと向かっている、そう思われてなりません。

 神の定められた終末の時と、この地球での人類の滅びとは次元の違う問題かも知れませんが、人類が為すがままに任された為に生じた世界の危機的状況を、神の怒りと、その裁きの警告としてはっきり受け止めたいと思います。



 神は、私共が罪を悔い改めて、神を神として崇め、礼拝することを求めておられます。そして2章10節、11節に示されておりますように「栄光と誉れと平和」を「分け隔て」無く全ての人に与えようとされているのです。

 それを明らかにしているのが主イエス・キリストの十字架です。主の十字架は全ての者に及ぶ神の裁きと、そしてそこに起こる赦しの豊かさを示しているのです。

 今日、私共の教会は、ノアの箱舟となって、この危機的な状況の世界の救いの為に真剣になって祈り、人類と被造物全体が滅びから救われる為に、そして「滅びることのない神の栄光」(1章23節)を証しして行く務めを、神から求められている、神から担わされている、そう思うのです。

 「神の栄光と誉れ、平和」を告げ知らせ、救いの恵みを、神なき世界に向かって明らかにすることが私共教会の使命であり、それが伝道ということではないでしょうか。



 かつてノアが神の怒りの故に滅びへと向かっている人類に、悔い改めて、そこから救われるように、と叫び続けたように、キリストの教会に属する私共もノアの箱舟という教会共同体を形造りながら、人類のみならず被造物全体の救いの為に、キリストの贖いによる救いの恵みを証しして参りたいと思うのです。

 そこにしか、この世の危機を解決する道はないし、そこに唯一の人類と全ての被造物の生存の希望があると信じる者です。

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 2008年2月17日 
「神の真理を偽りに替える罪」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙1章24−32節



 パウロは今朝の箇所で、神の怒りの下にある人間の惨めな姿、罪の姿、倒錯した不自然な姿を具体的に示した上で、人間はしようと思えば何でもできる。神を認めず、神を拒み、自分の好きな神を勝手に作ることもできる。

 それどころか自分を神にすらできるが、そのことによってもたらされる神の怒りと裁き、罪の報いを受けなければならないと記しております。

 24節以下で、パウロは最も人間の自然的本性としての性の問題を取り上げております。そしてそれが汚れたものになっている、と言うのです。

 聖書は性的欲求それ自体を罪とは考えておりません。男が女を求める、女が男を求める、これは神の創造の秩序に叶っていることでありまして、恥ずかしいことでも、汚れたことでもないのです。

 しかし実際には、自然であり、美しい、喜ばしいものであるべき性が、不自然な恥ずべき、倒錯した汚わらしい性となって、商品化され、私共の周囲に氾濫し、目を覆うばかりの現状であることは周知の事実です。

 幼い子どもが犠牲となり、若い人たちの心と体が蝕まれております。つい先日も沖縄で14歳の少女が米兵によってレイプされるという痛ましい事件があったばかりです。



 パウロは26,27節で異性愛が崩れ、同性愛に陥ることを性の倒錯、歪みの象徴的な徴と断じております。しかし今日、同性愛を反社会的、不道徳なことと決めつけることはできなくなっております。

 フェミニスト神学者はここに示された、パウロの性についての理解を差別的、抑圧的、破壊的な人間理解として退けます。「日本フェミニスト神学・宣教センター通信」No.34 で、山口里子さんは今日の箇所について鋭く論じております。

 私個人は、同性愛は神の創造の秩序に反する不自然なものだと思いますが、この問題について丁寧な議論を積み重ねて行く必要があると考えております。

 当時のギリシアなどでは同性愛は愛の理想であるとさえ考えられていた中で、同性愛が死刑に値する忌むべきこと(レビ記20章)が常識とされていたユダヤ人にとって、従ってパウロにとって、同性愛は真の神を否定し、神ならぬものを神とし、偶像礼拝をしている人間の悲惨さ、罪の現実を象徴するものと思われました。

 美しく、尊い性が、その本来あるべき位置から転落して、不自然な、偽りの性的関係に堕してしまった。そこにパウロは深い淵の底にいる人間の悲しむべき姿、神の怒りの下にある人間の惨めな姿を見出したのです。



 更に29節から31節にかけては様々な悪徳が挙げられております。パウロはここにも倒錯した人間。本来の自分というものを失い、神の怒りの下にある人間の惨めな姿を見たのです。

 神を認め、神を神として拝んで生き、神と共に生きることを正しいこととはしなかったので、人間は深い淵の底に沈み、為すべきではない不自然なことをするようになってしまった。ここに全ての人間の罪と悲惨が、その結果としての神の怒りと審きがあるのだと、パウロは言うのです。

 そういう意味では、確かに山口里子さんが指摘していますように、この箇所は、同性愛がテーマではなく、神ならぬものを神として生きる人間の罪によってもたらされる悲惨な現実と、それに対する神の審きがテーマだ、とする見解は正しいのです。

 モーセの十戒の第一戒に「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)、とあります。神を神として崇めない。神を認めようとしない。そういう人間を神は為すが侭に任せられた、とパウロは言うのです。

 「勝手にしなさい」、それが神の怒りの現われであり、同時にそれが審きとなっているのです。

 人間が神を認め、神を拝んで生き、神と共に、神に従って生きることを正しい事とは考えなくなってしまった。その結果として何が起こったかというと、私共が不自然さの中で、勝手放題のことをして、罪と悲惨に陥るという形での神の審きにあっているのだ、とパウロは言うのです。



 パウロは十字架の恵みの光の中で、人間が如何に罪深く、神の怒りの下にあるのかを痛切に知らされました。

 神の独り子イエス・キリストが、この世に来られたのは、神から離れ、それゆえに不自然な欲望に身を任せて生きていた人間を、神の下に立ち帰らせ、真実の人間の在り方を見出させ、自然な生活に立ち戻らせる為であったのです。

 その為に主イエスは十字架への道を歩まれたのです。

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 2008年2月10日 
「真理の働きを妨げるもの」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙1章18−23節



 ある神学者は1章18節から3章20節までの部分を「夜」と名付けています。イエス・キリストの福音というものがどんなにか光輝く、喜ばしい訪れなのか、恵みと感謝に満ちたものであるのか、それをわからせるために、闇の中にいて気付かずにいる人間の罪と悲惨さを明らかに示しているのが、この部分だと言うのです。

 ここに、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義」とあります。神の側から示される真理を妨げるものは何かというと、不信心と不義だとパウロは言うのです。それを言いかえれば、「自分は神なしにやって行ける」と考えて生きることです。

 神を否定する、神を恐れない、それが真理を妨げる、阻む行為です。神を抑え込んで自分の思い通りにしてしまう、それが「不義によって真理の働きを妨げる」という意味です。

 そのことによって、神が神として崇められない、神が侮られる、神が蔑ろにされる、そこに神の怒りが現れるのは、蓋し当然というべきでしょう。

 しかし、この神の怒りは、罪の内に生きる人間を罰するという形ではなく、全く罪のない神の愛し給う独り子イエス・キリストを十字架につけて、私共の身代わりとすることによって、神の怒りの審きがなされたのです。

 そしてイエス・キリストが死より甦らされたことによって私共人間の罪が赦されたことの目に見えるしるしとされたのです。その甦りの光の中で私共は神の怒りがどんなにか激しいものであったかを知らされるのです。



 聖書が言う罪とは、既述しましたように、私共人間の倫理道徳の逸脱行為や宗教的戒律違反の行為としての罪ではなく、人間の根源的な罪(原罪)、神を神として崇めることをしない罪、自分を神とし、神のご意志に聞き従おうとしない人間の罪を問うているのです。

 その最たるものが戦争です。とりわけ第二次世界大戦におけるナチスのユダヤ人全滅計画(ホロコースト)、そしてアメリカによる広島・長崎への原爆投下、そして日本も天皇を現人神とする天皇制絶対主義国家の下で、大東亜共栄圏の美名を用いてアジア諸国への侵略と非人間的残虐行為の数々、正義の名の下に不義を、自由解放の名において悪徳の限りを尽くしました。

 明日は「建国記念の日」です。戦前戦中はキリスト教徒も、宮城遥拝、神社参拝を強要され、拒む者は投獄され、なかには獄死した牧師もいたのです。

 戦後、天皇の人間宣言がなされ、信教の自由が憲法によって保証されましたが、「建国記念の日」(=紀元節)は、戦前戦中のあの悪しき亡霊を今に蘇らせようとするものです。日本基督教団は、それゆえこの日を「信教の自由を守る日」と定めて反対の意志を表明して参りました。



 まことの神以外のものを神とするところから世界の歪みが生じ、自己の絶対化が始まり、不義不正が生じて来るのです。

 このような世界の中にあって、福音を恥としない私共キリスト者の果たすべき責任は、何よりも先ず、この世界の主人公は人間ではない、主なる神こそがこの世を支配し、歴史を導いておられるお方であって、その主なる神と正しい関係を作り出す、すなわち主なる神を本当に畏れ敬い、神の御心が何であるかを聞き、それに従うところに真の平和がもたらされる、ということを明らかにして行くことではないでしょうか。

 キリストの十字架は、神の激しい怒りの現われであると同時に、神の全人類に対する深い愛のしるしでもあるのです。私共人間の愚かさ、罪深さの故にキリストが私共の罪の身代わりとして、十字架にかかられ、そして甦り給うことを通して私共に罪の赦しと永遠の救いを確かなものとしてくださったのです。

 その恵みを、神の愛を、喜びと感謝をもってアーメンと告白し、「真理の働きを妨げる」闇の世界に、キリストの平和の福音を宣べ伝えて参りたいと思います。

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 2008年2月3日 
「救いをもたらす神の力」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙1章16−17節



 「ローマの信徒への手紙」は、未知のローマの教会員に対するパウロの自己紹介、とりわけ彼自身がどういう信仰理解、福音理解をしているかということを記したものです。その始めのところで「わたしは福音を恥としない」と申します。

 私がシロアム教会で初めて礼拝説教の奉仕をしたのは、今から丁度5年前のことです。その時の聖書が今日の箇所でした。

 私もパウロと同じ思いで、自己紹介を兼ねて、シロアム教会の皆さんに、自分がキリストの福音をどう捕えているかを、「福音を恥としない」という題でお話させて頂きました。

 今回、この箇所を改めて読み返して感慨を新たにしておりますが、今日は連続講解説教という枠の中で、お話したいと思います。



 パウロは何とかしてローマの地にも福音を宣べ伝えたい、信仰による励まし合いをしたいという切なる願いをもっておりました。そしてその理由を16節で「わたしは福音を恥としない」からだと言うのです。

 なぜなら「十字架につけられたキリストを宣べ伝え」ることは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが」(コリント一1.23)、この無力と恥辱の極みなる十字架こそが、「わたしたち救われる者には神の力」(コリント一1.18)であることを、パウロは信じていたからです。

 神の独り子イエス・キリストは、私共の罪の贖いの為に、神から遣わされて、この地上に全き人間としてお生まれになられ、地上の生活を歩まれ、苦しみと恥を負い、神に捨てられた者として十字架におかかりになられました。この主イエスを神は甦らせ給うて、私共の罪の赦しと永遠の命に生きる希望を私共に約束して下さったのです。これが福音です。

 パウロは、この福音を恥じることなく告白し、伝道し、証したのです。キリストの教会はこの十字架の福音を信じ、告白し続けて参りました。



 どのようにも神の前に立ち得ない者が、神の一方的な愛と恵みによって立ち得る者とされ、救われるということ、そしてそのことが起きるのは唯、神を信じる信仰によってのみ、ということ、それをパウロは「恥としない」、と言っているのです。

 「わたしは福音を恥としない」というのは、弱さ、醜さ、罪の中で呻くほかない私を、神が、神の力によって救って下さったという深い感謝に溢れた思いで、語ることができる言葉なのです。

 パウロは「福音を恥としない」と言ったすぐ後で、福音は一人の例外もなしに信じる者全てにとっての「救いを得させる神の力」だと述べ、さらに「福音には神の義が啓示されています」と述べております。



 聖書に示された義はいかなる意味においても、人間の義ではなく、神の義なのです。

 神は義なるお方であるが故に、この世の悪を裁き、神の律法に生きる敬虔な者を救い給う神である、これがユダヤ人の神の義についての考え方でありました。

 しかし福音における神の義というのは、罪人を義とし給う神の義です。

 神の義が罪ある人間を裁くことによってではなく、神が御子イエス・キリストを遣わされて、これを十字架につけることによって人間の罪を赦されるという形で、神の義は貫徹されたのです。これが福音なのです。



 ですから信仰というものは私共の理性や意志、感性、情緒、或いは自らを厳しく律する難行苦行のうちに悟り得るというものでは全くないのです。

 神を否定し、自らを義とする不信仰な自分が、イエス・キリストの十字架の前で全く打ち砕かれ、福音の力に圧倒されて、初めて信じる者へと変えられるのです。私共はそのようにしてキリスト者とされたのではなかったでしょうか。

 教会は、この「神の福音」が聴かれ、説かれる場所です。

 自らの弱さと醜さ、罪をありのまま認め、そのような者を救う為に神が御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになられたことを感謝し、その主の恵みに応えて、神と教会に仕えて参りたい、と願う者です。

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