シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年3月30日 
「キリストに示された神の真実」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙3章9−20節



 ユダヤ人は自分たちが神から特別選ばれた民として、モーセの律法を持ち、神の民の徴としての割礼を受けた者であることを誇りとし、外国人を見下げておりました。

 しかし、パウロはユダヤ人としての特権、選ばれた民として優越感に浸っているのは全く愚かなこと、それどころか神の怒りを自らの身に積んでいることにどうして気が付かないのか、と厳しくその罪を糾弾しました。

 それへの反論を想定して記したのが1節です。「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」それに対してパウロは、「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます」とし、先ず、第一に、と言ってただ一つの優れたものを挙げております。それが2節後半です。

 「まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。」神は、彼らの心に神の言葉がしっかり届くことを信頼して、神の言葉を委ね、彼らが、その神の言葉に信仰を持って、応えて生きる者となるようにと、彼らを選び出されたのだ、そうパウロは言うのです。

 確かにユダヤ人が神の言葉を委ねられていることは、他の国の人、民族と違って優れている点です。しかし、それは唯、神の自由な恵みの選びによるのであって、彼らの資格や値打ちによるものではありません。

 しかし、ユダヤ人はそのことを忘れて、自らの民族としての優越を愚かにも誇り、神が決して我々を見捨て給う筈がない、という安易な考えの下に、委ねられている神の言葉に聞き従うことをせず、神の信頼を裏切り、勝手な生き方をしていたのです。



 これは私共キリスト者に対する警告として聞かねばなりません。

 私共が神の教会に招き入れられたのは私共にその資格があった訳でもなく、努力したからでもないのです。ただ神の恵みの選びによることです。自らが神の招きに相応しい生き方を本当にしているかどうかを、よく吟味すべきではないでしょうか。

 真の福音が語られる教会は、そこで人間の罪があらわにされ、あなたは本当に主イエス・キリストを愛するかと問われ、そして「我に従え」とのキリストの呼びかけに応えて、福音に相応しく生きることへと促される、そこに教会に属する新しい神の民の生き方があると思うのです。

 ただ教会に連なっている、そのことだけに安心しているならば、それはパウロが批判する所のユダヤ人と何等変わらないことになってしまいます。

 私共は自らの罪を神の前に悔い改めて、少しでも神の恵みに応えて生きられるよう、神の祝福と憐みを願い求めながら、教会生活を送りたいものです。



 旧約聖書の歴史に示されたイスラエルの民は、絶えず神の言葉に背き、罪を犯し、神の信頼を裏切り続けるという不信仰な姿をあらわにしました。

 にも拘わらず、神は慈愛と寛容と忍耐をもって、彼らが悔い改めて主に立ち帰ることを期待し続けられた、それが旧約聖書に一貫して明らかに示されております。

 私共が、どのように神に背き、不誠実であったにせよ、神の真実を無にすることは出来ないのです。そのことをパウロは4節で「決してそうではない」と非常に強い言葉で断言しているのです。

 「決してそうではない。人は全て偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」全ての人間が偽り、不真実であっても、神の真実は変わることがないということです。



 神の真実は私共の不誠実を突き抜けて、人類の歴史の中に明らかに示されたのです。それがイエス・キリストの十字架です。

 イエス・キリストの十字架は神を偽りとし、神を裁く、その人間の罪の究極的な、目に見える徴です。同時に神の真実が究極的な形で明らかにされた目に見える徴、それが、2千年前の神の独り子、主イエス・キリストの十字架なのです。

 私共がこの世に於いて生きる唯一の道、それはただ、キリスト・イエスによって示された神の真実に、神の言葉であるイエス・キリストに、自分の全てを委ねて生きることに尽きます。

 私共がどんなに、不誠実、不義の中にあっても、神の真実は決して変わることはないのです。

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 2008年3月23日 
「栄光の主に伴われて」船水牧夫牧師
ルカによる福音書24章13−27節



 主イエスが十字架につけられて死なれた翌々日、日曜日の夕暮れ、二人の弟子がエルサレムからの険しい下り道をエマオの村に向かって歩いていました。

 この二人も、おそらく一週間前の日曜日、イエスに従ってエルサレムの町に入って来たのでしょう。その時は民衆の「ホサナ、ホサナ」という歓呼の声に迎えられて、彼らも意気揚々とエルサレムに入ったことでしょう。

 19節、及び21節を見ますと、彼らはイエスをローマ帝国の圧政と抑圧からイスラエルを解放し、独立を勝ち取る救世主メシアと見ていたようです。この二人だけではなく、イエスに従っていたペトロをはじめ、全ての人々が多かれ少なかれ、そういう期待をイエスにかけていたのです。

 エルサレムに入城した時は、まさにその期待が現実のものとなるように思われました。民衆が歓呼してイエスを王として、救い主として迎えたからです。



 しかし、彼らの夢は無残にも打ち砕かれてしまいました。イエスが逮捕され、無法な裁判によって死刑が宣告され、十字架刑に処せられて殺されてしまったからです。

 一週間前、意気揚々とイエスに従って乗り込んで来た弟子たちは皆、散り散りになって、深い絶望落胆の思いをもって、エルサレムから離れて行こうとしておりました。この二人も同じ心境でした。彼らが暗い顔をして、足取り重く歩いていたのは無理からぬことでした。

 二人はこの一週間の出来事について興奮冷めやらぬ思いで、主イエスの十字架の死や、天使たちが「イエスは生きておられる」と告げたという甦りのことについて夢中になって、語り合い論じ合いながら歩いていたのです。

 しかし、語り合い論じ合う彼らの顔は「暗く」沈んでいました。主イエスの甦りの命ではなく、十字架の死という厳然たる事実に圧倒されていたからです。



 復活の信仰というのは、いくら人間が知恵を尽くし、論理を展開して、「聖書にこう書いてあります。私はそれを信じています」と、いくら告げたところで、「ああ、そうですか。では私も信じます」とはならないのです。

 又、墓が空っぽであることを確かめさせても、誰が「イエスは復活した」と言ったところで、主イエスご自身が、その人の心の内に親しく語りかけて下さらなければ、真実の意味で、今生きておられる主イエスご自身にお会いしなければ、どうにもならないのです。それは今日の私共にしても同じことです。

 不信仰をさらけ出している二人に、「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)のです。主イエスの復活の記事で、全ての福音書に共通しているのは、甦られた主イエスの方から、いつも弟子たちに近づいて下さったということです。

 主イエスご自身が、自らの復活が事実であることを弟子たちに示されたのです。それによって弟子たちは目が開かれ、主イエスが甦られたことを信じる者とされたのです。



 主イエスは二人に、聖書にはメシアが苦難を経て栄光に入るという神の御心が明らかにされていることを、聖書全体にわたり説明されました。それを聞いていた彼らは、主イエスの聖書の解き明かしによって「暗い顔」から次第に心が燃えて来たのです。

 そしてお話下さったのが甦り給うた主イエスその人であることに気付いた時に、二人は33節、「時を移さず出発して、エルサレムに戻った」のです。

 絶望落胆の中で「暗い顔」をしてエルサレムを離れた彼らは、真っ暗な道を喜びに溢れた顔で、寝ることも忘れて、再びエルサレムへ取って返したのです。主イエスが確かに甦られたことを告げるために。



 教会は、死に勝利し給うた復活の主、栄光の主イエス・キリストが私共と伴って下さる、共に歩いて下さることを知って、暗い顔を捨て、晴れ晴れとした喜びに生きる者の集いです。

 絶望と死の墓から甦り給うた栄光の主イエス・キリストが、いついかなる時にも私共に伴って下さる、たとえ「死の陰の谷を行くとき」があったとしても、そこにも主がおられる、この喜びを分かち合う群れ、そのことを証しする群れが教会です。

 この主の恵みの中に留まり続ける教会としてこれからも、共に歩んで参りたいと思います。

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 2008年3月16日 
「誉れは人からではなく、神から」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙2章17−29節



 ユダヤ民族はただ、神の一方的な恵みによって「神の民」として選ばれ、異邦人に対して唯一の生ける真の神を知らせ、全ての国民に神の愛と義を明らかにするという役割を人類の歴史の中で果たすよう求められた民族でした。

 しかし、自分たちは神に特別選ばれた民だと誇り、他を見下し、その生き方は全く神の民たるに相応しくないものでした。パウロは具体的な例を挙げて、その実際生活と行いが律法の誇りを裏切っている、それは恐るべき偽善、自己欺瞞ではないかと糾弾しております。

 パウロは更に、25節以下で割礼の問題に触れております。割礼はユダヤ民族が神の民として神によって特別に選ばれたことの目に見える徴でした。

 しかし、パウロは、律法を持っている、又、割礼を受けているからといって、真に神に属する民とはいえない。霊による「心の割礼」を施されることこそが、真の神の民だと言うのです。



 主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々が神の御心がどこにあるかを考えず、形式を整えることだけに関心を寄せ、人々に誉められることを第一とし、神に誉められることに関心を払わなかった、そこに本末転倒している人間の罪の姿を見たのです。このユダヤ人批判は、そのまま私共キリスト者にも当てはまる言葉です。

 確かに、神の名が私共キリスト者によっても汚されている現実があることを思います。私共は神の怒りの下で滅ぼされて当然な者です。

 そのような私共の罪を、神は怒りをもって裁き、そこから救われる道を示して下さいました。神の名を汚す私共の代わりに、神ご自身が人となって私共の罪を負って下さったのです。それが主イエスの十字架なのです。

 十字架は私共の罪に対する神の激しい怒りの裁きの徴です。十字架においてキリストが私共の身代わりとなって担って下さってことによって、私共の罪の赦しがそこにおいてなされたのです。

 主イエスの十字架において私共の罪も共に十字架にかけられ、贖われ、そして十字架の主イエス・キリストの甦りによって私共の罪も又、赦され、神の豊かな恵みに与かり、死が絶望ではなく、神と共にとこしえに生きる希望の始まりであることを知らされたのです。



 申命記30章6節に、「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得る事が出来るようにして下さる」とあります。

 又、コロサイの信徒への手紙2章11節から14節に、こう記されております。

 「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、又、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かして下さったのです。神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いて下さいました。」


 神がキリストの十字架を通して、私共の心に割礼を施して下さったのです。これ程、確かな神の民としての約束はないのです。

 私共キリスト者は、聖霊を通してキリスト・イエスの救いに与かり、洗礼を受け、心に割礼を施されて、神の民とされ、教会の交わりに入れられた者です。



 しかし、洗礼を受けたことが、教会に来ていることが、或いは教会で奉仕していることが誇りになってしまっているとしたならば、2千年前にパウロがユダヤ人を厳しく責めたと同じ理由で、私共も又、悔い改めを迫られている事を思わずにおれないのです。

 形式化した教会生活、外見上のキリスト者としてではなく、まことに神によって召し出された者に相応しい歩み方をなして、神からの誉れを受けられる者でありたいと願う者です。

 御言葉に励まされ、聖霊によって心に割礼を受けた者として、人からの誉れではなく、神からの誉れを求める信仰に生きて参りたいと思います。

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 2008年3月2日 
「公平に審かれる神」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙2章12−16節



 ユダヤ人はモーセの十戒に代表される神の教え、律法というものを、神がユダヤ民族を特別に選んで付与された神聖なものとして保持し、これを誇りとしていました。そして律法を持たない異邦人を軽蔑し、裁いていたのです。

 しかしパウロは、いくら律法を知っていてもそれを実行しなくては、何の意味もない。従って、神の怒りの裁きはユダヤ人であろうとギリシア人であろうと分け隔てなく公平になされると言うのです。

 14節、15節でパウロは、ユダヤ人以外の者に対して、律法が無くても、何が正義で、何が悪かは、自然のままで、生まれながら知っている筈だ。だから自分は聖書も律法も知らなかったという弁明はできない。

 律法を知らなくとも私共の中には、神の律法が記されている。良心というものがある。その良心が絶えず、自分を糾弾する声が聞こえている筈だと言うのです。

 ですから、パウロは、ユダヤ人は律法を待っているから裁かれないということはないし、律法を持たない異邦人は持っていないという理由で裁かれることはない。神は分け隔てなく、どちらも公平に裁かれる、とパウロは告げております。



 最後の審判の時、「人々の隠れた事柄」が全て明るみに出され、「分け隔てなく」全ての人の良心が自分自身を訴えるだろう、自分の罪を証しするだろう。自分を罪ある者だと思ったことはないと、思って生きていた人も、終わりの日には自分の罪が明らかにされ、罪の告白へと導かれると言うのです。

 最後の審判の時、「神が−裁かれる日」、その時、初めて「隠れた事柄」、本当の自分の姿が明らかにされる。

 そこでは私の良心も、心の思いも、自分を弁護できない。分け隔てなく、誰もが、一人の例外もなく神の徹底的な裁きにあって滅びる外ない惨めな自分の姿をはっきり知らされるのです。

 パウロは、公平で徹底的な厳しい最後の審判の時、全ての者が「キリスト・イエスを通して裁かれる」と告げております。そしてそれが、パウロが「私の福音」と表現している、神の隠されていた、秘められた計画なのです。

 即ち、私共の誰一人として神の怒りの裁きを免れる者はなく、滅びる外ない、まさにその終末の日に、キリスト・イエスが私の弁護人として私の傍らに立って下さるのです。キリスト・イエスは私の犯した全ての罪を、自らお引き受け下さって、御自分の義の中に救い取って下さったのです。

 主イエス・キリストこそ私の弁護者、私の為に十字架におかかりになられて、私共の罪の贖いとなられて、死んで下さったお方、その義をもって、私を義として下さったお方、そのお方が、最後の審判の日に、私の為に執り成して下さる、それが「私の福音」とパウロが呼んだものに外ならないのです。

 それ故に私共は神の激しい怒りをもって臨まれる裁きの日に、尚、望みを持つことが出来るのです。



 この先の8章34節でパウロは告げております。「誰が私たちを罪に定めることが出来ましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。」

 神の前で私共の罪が、白日の下に晒される。自分の良心までも自分を訴え、自分の罪を告発する。そして自分の罪の故に神の激しい怒りを受け、厳しい裁きの下で滅ぶ外ない。その審判の日が必ず来る。

 その裁きの日に、キリストが弁護者として私の傍らに立って、私の為に神に執り成して下さる。

 その時、私共ははっきりと知るのです。何故、罪なき神の独り子イエス・キリストが十字架の恥と苦しみを受け、死ななければならなかったかを。

 まさしくそれは、イエス・キリストが私共の罪と恥一切を背負われて、私共の贖いとなられて十字架におかかりになられたということです。裁きの座で、私共を弁護する為、私共の罪を引き受けられる為に十字架におかかりになられたのです。

 これがパウロ言うところの「私の福音」なのです。そこにはユダヤ人も異邦人も区別はないのです。

 終わりの日の審きの日に、主イエス・キリストが私共の為に執り成し、救って下さるという恵みを深く覚える者でありたいと思います。

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