シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
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2008年4月27日 |
「行いではなく、信仰によって」船水牧夫牧師 ローマの信徒への手紙4章1−12節 |
◇ パウロは4章で「信仰によって義とされる」という、キリスト教の根本教義といってもよい信仰が、既に旧約聖書に明白に示されているということを論証しようとして、3節で「聖書には何と書いてありますか」と言って、「肉によるわたしたちの先祖アブラハム」の信仰を引き合いに出して語るのです。 パウロは、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(3節後半)との創世記15章5,6節の言葉を引用して、アブラハムが得たのは、「信仰によって義とされる」信仰であったというのです。 アブラハムは信じ難いことを神から約束された時に、それが主なる神の御言葉であるが故に、「アーメン」と言ったのです。彼が神の御言葉の前にひれ伏した時に、神は彼を義なる者と認められたのです。 アブラハムが偉大なのは彼が何を為したかではなく、唯、神の御言葉に自分を全て委ねた、その信仰においてでありました。これがキリスト教における信仰の基本的な在り方だと言えます。 ◇ 信仰とは自分が神の前に義とされるためには、あれを為さなければ、これを行わなければといった思いから解き放たれて、唯、神の恵みによってのみ生きる姿勢へと自らが踏み切った時、その信仰が神によって義と認められるのです。 洗礼を受ける時も同じです。もう少しキリスト教が分かってから、自分の気持ちの整理がつくまで‥‥、それでは、いつまで経っても洗礼を受けることはできません。 わからないことだらけでも、ともかく自分の全てを神様にお委ねして生きよう、「このお方による以外救いはない」、それが信仰なのです。神はそれを信仰として認め、私共を受け入れて下さるのです。 そして信じる気持ちを起こされたのも、実は自分の力ではなく、聖霊の賜物によるのです。ですから安心して、私共は神様に全てをお委ねして洗礼を受ければよいのです。 ◇ パウロは4節で「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見做されています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と記しております。 この意味は労働に対して支払われる賃金は恵みとして支払われるのではなく、当然、使用者側の義務として支払われるべきものだ、ということです。 労働者が丸一日働いた。それに対してそれ相当の給料が支払われる、これは当然のことで、働いた者の賃金は権利であって、断じて恵みとして与えられるものではないのです。 ◇ では、神と人間の関係はどうでしょうか。私共が義とされるのは、私共の働き、能力、行い、資格によるのであれば、当然の権利として受け取ることのできるものとなります。 であれば、神と人間の関係は債権、債務の関係、権利、義務の関係となります。神が私共に下さるのは恵みでも、何でもないことになります。 しかし私共には果たして神に支払わせるだけの債権を持っているでしょうか。義とされる資格が、自分の努力や働きによって当然の報いとして得ることができるようなものでしょうか。 全く否です。何らの資格なく、働きなく、値する何物もなく、ただ神の恵みによってのみ私共は義とされるのだ、そのことをパウロはここで言っているのです。 私共は、この恵みを信じるだけで、罪赦されて、神の子とされ、救われるのです。では信じるということだけで義とされるなら、信じるという条件を満たせばそれでよいのか、パウロはそういう考え方も否定するのです。 信じるから救われるのではない。信じても、信じなくても神は私共を恵み、義とされるお方なのだ。私共はそれを恵みとして、賜物として受け入れるだけでよいのだ。 その神の恵みの業に注目し、感謝して生きる、そのことを神は私共に求めておられるのだ、ということです。 ◇ イスラエル民族にとって、最も偉大な王、信仰の鑑とされたダビデもそうでした。 「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見做されない人は、幸いである』」(6−8節)。 9節に「ではこの幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか」とあります。「この幸い」というのは、今読みました6節から8節に記されている幸いのことです。 ですからキリスト教でいう幸いとは、「罪を覆い隠された幸い」、「主から罪があると見做されない人の幸い」のことなのです。 ダビデは神の前で、到底許されざる重大な罪を犯しました。サムエル記下11章にそのことが記されています。 ダビデはその罪を悔い、神に赦しを請い、その罪を赦されたという体験を致しました。それを歌っているのが詩編32編だと言われております。7、8節の言葉はそこからの引用です。 罪が赦され、救われる、それに優る幸いはないことをパウロは旧約聖書を用いて論証しているのです。 ◇ ユダヤ人は、自分たちは割礼を受け、律法を持っているから、神から罪を赦され、救いに与かっている特別に祝福された民なのだと誇っておりました。しかしパウロはそうではないと断言しているのです。 割礼や律法によってではなく、信仰のみだというのです。 創世記17章から明らかなように、アブラハムが義とされたのは割礼を受ける前であったのです。アブラハムは無割礼のままで神によって、その信仰の故に義と認められたのです。 神に義とされるのは割礼にも無割礼にも依存はしていないのです。ただ神の恵み、赦しによってであることをパウロは、旧約聖書を用いて論証しているのです。 アブラハムは信仰によって義とされた後に、確かに割礼を受けましたが、それは義とされたことの目に見える印として受けたに過ぎないのです。 それが11節に示されております。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」。 ◇ 割礼が形式でありますように、洗礼も形式といって構わないと思います。 その洗礼という形式を成り立たせているもの、それはイエスを主と信じ、そこにしか自分の幸いはないことを知り、生涯イエスを主として従って生きることを神と人との前で告白する、その目に見える印が洗礼という儀式なのです。 ですから洗礼を受けた、だからもう地獄に行かなくて済む、この世の苦しみ、不幸に遭わなくて済む、そういうことがキリスト教の洗礼の意味ではないのです。 洗礼は、それまでのこの世的なものの考え方や価値判断を捨て、主イエス・キリストに全てをお委ねして生きて行く、そのことの決断の印なのです。ですから洗礼は信仰者にとって、ゴールではなく、まさに出発点なのです。 ◇ 許されざる大罪を犯したダビデが、尚、そこで、神様の赦しを信じて「罪を覆い隠された幸い」「主から罪があると見做されない者の幸い」を歌いました。キリストが十字架にかかって下さったのは、まさにそのことであったのです。 神がキリストの十字架の故に、その私共の「罪を覆い隠し」て下さり、「主から罪があると見做されない者」として下さったのです。 十字架の贖いを通して、罪の内に死すべき私共を救い、正しい者、義なる者として認めて下さったのです。これほど幸いなことはないのです。 主イエス・キリストを信じ、自分の罪を悔い改めて、神に従って生きる、そこに私共の真の幸いな道が開けて来るのです。 全ての人がこの神の祝福に招かれていることを、感謝をもって覚え、主に従い続けて行く幸いな人生を過ごしたく願う者です。 |
2008年4月20日 |
「信仰による義の実現」船水牧夫牧師 ローマの信徒への手紙3章21−31節 |
◇ 当時、ユダヤ人は、そしてかつてのパウロも、神の義は律法に明らかに示されており、その律法をきちんと守らなければ、割礼を受けなければ神に義とされず、救われないのだと主張していたのです。 しかし、復活のキリストと出会ったパウロは、いや、そうではない。イエス・キリストを信じる、それだけで、信じる者全てに神の義が、神の救いが与えられるのだということを明らかにしました。 「信仰によって義とされる」、それを「信仰義認」と言います。これはキリスト教の、とりわけプロテスタント信仰にとって最も大切な教理です。 ◇ 「神の義」とは「神の正しさ」のことです。確かに律法は神の義を、正しさを示すものですが、しかし、律法には神の正しさを私共に行わせる力はありません。律法を知ることによって、私共は自分が如何に神の正しさから遠い存在であるかを、思い知らされるだけです。 「ところが今や、律法とは関係なく、……神の義が示されました」(21節)。「神の義が示される」とは、神が正しいお方であるということが明らかにされる、ということです。 人類が犯して来た罪、不義不正、神への背きに、例えばノアの洪水のように、神が洪水を起こして人類を裁き、滅ぼすというのであれば大変わかりやすいことです。 しかし、神は人類を滅ぼすという形で神の裁きを行い、神の義を示されるということをなさらなかったのです。 ◇ ではどのようにして神は、自らの義、正しさをお示しになったかというと、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(24、25節)という方法で、自らが義なるお方であることを示されたのです。 神の裁きの下で滅ぶほかない私共人間のために、神は、愛する独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、その贖いの十字架の死によって、私共の罪を赦して、義として下さったのです。 無償で、救いがキリストを通して私共に与えられた、それが福音の内容なのです。そのようにして神は自らの義を明らかにされたのです。 それによって、私共は無条件で罪あるままで、私という存在がまるごと義とされ、救われ、神の栄光に与かる者とされたのです。 ◇ 私共をこのような喜びと感謝の内に生きることができる者として下さったのがキリストの贖いの十字架なのです。 私共の罪と悲惨、そのどん底まで降りて来て下さり、それを引き受け、担って下さった、それによって「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされ」たのです。神の栄光を受けられる者とされたのです。 「神の恵みにより無償で義とされ」た、ということは私共の側には神によって義とされるものは一つとしてないということです。キリスト・イエスの十字架の贖いによってのみ義とされた、ということなのです。 ただ神の恵みを信じる、その信仰によって救われる、神の栄光に与れる者とされるのです。それが信仰義認、信仰によって義とされる、ということなのです。 ◇ 私共が自分の内にある一切の誇りを捨てて、この世のものを頼りとすることを止めて、ただキリストを誇りとし、キリストを信じ、頼みとして生きる、そこに私共の本当の感謝と喜び、光栄に満ちた生き方が始まるのです。 罪人である私共がキリストの贖いの血によって義とされ、神の栄光を受けられる者として下さった、これこそが私共が生きるにも死ぬるにも変わらない利益なのです。 罪の内に死すべき私共が、そのままで義とされ、神の栄光を受けられる者とされた、その感謝を神に捧げ、その喜びを共に分かち合うために、今、私共こうして礼拝を守っているのです。 |
2008年4月13日 |
「信仰の法則によって」船水牧夫牧師 ローマの信徒への手紙3章21−31節 |
◇ パウロは、あなたがたユダヤ人は、割礼や律法を守っているから、神の怒りから免れていると思っているが、そうではない。あなたがたを含め、全ての者は、神の怒りから逃れられないのだ。 どんなに道徳的に優れた人間になるための努力や善行を積んでも、神に義とされる、正しい者とされることには決してならないというのです。 もし私共が、そこでつまり3章20節まで読んで聖書をパタンと閉じてしまうならば、私共には絶望と悲惨しか残されておりません。しかし、パウロは21節で「しかし、今や」という言葉で、私共人間にとっての根本的な救いの道について語り始めるのです。 ◇ ところで「救い」とは何でしょうか。キリスト教では救いの第一の意味は「罪から」救われることだというのです。 教会へ行くとすぐ、罪、罪人、悔い改めよと言う、と悪口を言う人がいます。しかし、教会がキリストの教会である限り、教会は罪について語らざるを得ないのです。 キリスト教で言う罪というのは「ハマルティア」と申しまして、「的を外す」という意味です。 神の掟の中で最も大切なこととして神が私共に命じ給うことは「あなたはわたしのほかに何物をも神としてはならない。」いわゆる「モーセの十戒」の第一の戒めです。 ところが人間はこの神の戒めに逆らい、真の神を神として拝まず、朽ちる人間や、鳥や獣や這うものなどを拝み、創造者なる神の代わりに、神以外のものに絶対的な価値を置き、それに頼る生き方をしているのです。 それを聖書は罪と呼ぶのです。私共は実にこの神の根本命令である「神を神とする」、「神を義とする」という人間の在り方から離れた生き方、これが罪なのですが、そのような的を外した生き方をして神の怒りを招いているのです。 ◇ パウロは21節以下において、ではどうしたら人間は救われるのか、ということを説き始めるのです。 ここでパウロは、救いは人間のあらゆる努力、信心によって得られるのではない。救いは、ただ神の側からの一方的な恵みとして、人間に与えられているのだ、そしてそのことを信じさえすれば良いのだ。それがイエス・キリストを信じる信仰によって義とされることなのだ、というのです。 主イエス・キリストにおいて示された「神の義」を信じる、その信仰によって私共は救われるのだ、というのです。 イエス・キリストにおいて私共の罪が赦され、イエス・キリストを主と告白する信仰によって義とされる。それを信じる、それが私共が神から求められていることだ、とパウロはここで語っているのです。 エフェソの信徒への手紙2章8節に、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」とあります。実に、「信じる」ということ自体も、人間の能力ではないのです。 ◇ もし、イエス・キリストの十字架、それが神の怒り、憤りを示すだけであるならば、私共は確実に神の怒り、憤りの故に滅ぶほかないことを示されるだけです。 しかし、イエス・キリストの十字架には、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3.16)とありますように全くの価なしの神の恵みによって、罪の故に滅ぶほかない私共の身代わりとして神は御子イエス・キリストを十字架につけ給うた、それによって私共は神の前に罪赦され、義とされた、救われたということが示されているのです。 ◇ 神から賜物として与えられる信仰、そこに全てがあるのです。 それ以外に救われる道はないのですから、神の前では何らの差別がない、みんな平等だということです。 全く価なしの恵みによって、私共は神との交わりに生き、神の祝福の内を歩むことが赦されているのです。これが聖書の告げる福音なのです。 罪人である私共がキリストによって神の前に義とされる、そこに私共人類全てにとっての喜びがあり、感謝があり、救いがあるのです。 |
2008年4月6日 |
「正しい者は一人もいない」船水牧夫牧師 ローマの信徒への手紙3章9−20節 |
◇ 先にパウロは、神の言葉がユダヤ人を通して啓示された、そのことはユダヤ人の誇り得るものだ、しかし、それだからといってユダヤ人が特別、優れた民族かと言えば決してそんなことはない。 全人類が罪の下に置かれている、そのことに於いては平等なのだ、というのです。 ◇ 10節から18節の括弧の中の言葉は、既にキリスト教会の集まりの中で、又、ユダヤ人の間で歌われていた、罪の下にある人間の「嘆きの歌」だと言われております。 10節に「正しい者はいない。一人もいない」と記されております。神に向かって自分の義、正しさを主張できる者がどこにいるか、というのです。 11節でパウロは、神に選ばれてあることをあたかも自分の価値の故でもあるかのように錯覚し、そこに安住していたユダヤ人に向かって「神を探し求める者もいない」と警告しております。 私共キリスト者も、神を求めて生きていると口では申しながら、礼拝を守り、いささかの責任を為すことに安んじ、神からの語りかけにどこまで真剣に聞こうとしていたか、自らを反省する者です。 ◇ 12節では、人間は皆、自分勝手な道を歩み、神が自分を今、何の為に生かし給うのか、ということを忘れてしまい、ただ、いたずらに年月を過ごし、死んだも同然になっているのだ、と指摘しております。 13節から14節にかけては、人間は言葉をもって人を欺き、苦しめ、罵り、誹ることによって、自分を傷つけ、駄目にしていると言うのです。 15節からは「足」についての嘆きです。私共の歩く道、それは破壊と悲惨の道であって、人を傷つけ、苦しめ、悲しませずにはおかない、それが人間の実相だと言うのです。 ◇ これまで述べて来たことの結論として、「彼らの目には神への畏れがない」と断定しております。それが罪の下にある、罪に支配されている人間の本当の姿なのであって、そのことに於いては、ユダヤ人もギリシア人も、何ら差別がない、平等なのだ、そうパウロはここで主張しているわけです。 私共が承知しておくべき大切なことは何か、それは罪の自覚です。この道は間違っているのだということをはっきり自覚することです。 全ての人間が、神の怒りと裁きの下に置かれている、これが人間の本当の姿なのだ。そしてこれは律法を持ち、守っていると誇るユダヤ人も例外ではないのだ、とパウロは申しているのです。 ◇ ユダヤ教徒として誰よりも熱心であったパウロが、ユダヤ人も他の民族と何等変わることがない、律法を実行しても救われない、律法はただ罪の自覚を生じさせるだけだと言いきっている、これはすごいことです。自分のこれまでの人生の全否定といってもいいほどのことです。 どこからそのような180度の転換が生まれたのでしょうか。それはパウロが復活のキリストと出会ったからです。 イエス・キリストの絶大な恵みを知った時、イエス・キリストの十字架の赦しを身に受けた時、彼は自分の本当の姿、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(テモテ一1.15b)ということに気付かされたのです。 全ての人が罪ある者として神の怒りの裁きの下にある、そうパウロが断じているのは、キリストの十字架と死と復活を通して示された、人間の罪の実相、そしてその罪の赦しと救いが御子キリストによって与えられたという福音をパウロが信じたからにほかなりません。 ◇ 「正しい者はいない。一人もいない」、「神への畏れがない」世界に、罪人しかいない世界に、神は恵みをもって、義の道を開いて下さったのです。 それが来週から学び始めます所の「信仰によって義とされる」道です。神がイエス・キリストの十字架と死と復活に於いて、示して下さった道、それがパウロが命がけで証ししようとした、キリストの福音なのです。 一人の例外もなしに救われる道を神が、キリストに於いて開いて下さったのです。そこに神の真実があるのです。 キリストに於いて示された神の真実、そこに私共の救いの確かさがあることを喜びと感謝をもって受け止める信仰に生きたいと思います。 |