シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年5月25日 
「神との和解を得た今は」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙5章6−11節



 パウロは6節以下で申します。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」

 8節、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 10節、「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

 「わたしたちがまだ弱かったころ」の、「弱かった」という言葉は原文のギリシア語ではアスセノーンという言葉が使われております。これはスセノーという「力を与える」「強くする」という意味の言葉に、接頭語「ア」がついてできた言葉です。

 この「ア」は否定や欠如を表わす接頭語ですので、「力がない」「弱い」「無力な」といった意味になります。パウロは人間というものは、「力がない」「弱い」「無力な」「助けがない」「愚かな」存在であり、神の怒りを免れない存在、神に背き、神に敵対する存在、それが人間だというのです。

 そしてそういう私共人間のために、神は御子イエス・キリストを、この世にお遣わしになり給うて、神に逆らい立つ人間に、神の側からの一方的な愛、和解の手を差し伸べてくださった、そこに私共人間の喜びがあり、感謝があり、救いがあるとパウロはここで言っているのです。



 11節に「それだけではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今や、このキリストを通して和解させていただいたからです。」ここで「誇り」と訳された言葉は口語訳聖書では「喜ぶ」と訳されていた言葉です。

 私共が神を喜び、誇りとするのは、主イエスの十字架によって「罪の赦し」をいただいている、ただキリストの十字架に示された神の愛によって無条件の赦しをいただいているからなのです。キリストの十字架に、神が私共の罪を赦してくださったという確かな、目に見えるしるしが示されているのです。

 それ故にこそ私共にまことの平安、喜びがあるのです。主イエスの十字架に、私共の苦しみ、つらさ、痛み、悲しみのどん底にまで降りて来てくださって、担ってくださる神の恵みを知ると共に、私共の罪をすべて赦してくださる神の愛をキリストの中に見い出し、自分のすべてを神様にお委ねすることができるのです。

 この私のためにキリストが十字架にかかってくださった、その恵みから洩れる者は一人もいない、神はすべての人を救うために、御子イエス・キリストをお与えくださった。そのことを私共は喜ぶ者とされているとパウロは言うのです。



 私共、本当に無力で弱い、愚かな者、罪の内を歩む者ではありますけれども、神との和解を得た今は、このような私共を尚も神は愛し、支えていてくださっていることを信じ、この喜び、誇りをもって、キリストを求め、キリストと共に生き、キリストに仕える人生、この世にあって愛と許しをもって、互いに仕え合う人生を送りたいと思うのです。

 そして人間として最も大切な他者への思いやり、共感、信頼、あるいは愛を失っている私共の社会にそれらを取り戻して行く働きをする教会として、この世に仕え、自分の人生を喜びに変えてくださったキリストの十字架の恵みを証しする者でありたいと思います。

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 2008年5月18日 
「神の栄光にあずかる希望」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙5章1−5節



 ここに「苦難を誇る」(3節)、「艱難を喜ぶ」(口語訳)とあります。しかし、私共、苦難、艱難を誇る、喜ぶということがあるでしょうか。誰もそんなことは望まないと思うのです。

 とはいえ生きている限り、悩み、苦しみは尽きません。何よりも死が確実にやって来る、そこから救われたいと思います。その解決を宗教に求めるからでしょうか。実に多くの宗教がこの世に存在しています。

 キリスト教もそういった宗教の一つなのでしょうか。しかし、キリスト教はこ世での苦しみ、悩み、悲しみにあえぐ人に、御利益という現実的な解決の道を与えることはしません。

 あるいは、今は苦しいかもしれない、つらいかもしれない、しかし死んだ後には、この世の如何なる御利益にも勝る喜び、慰めを天国で用意されているのだから今を耐え忍びなさい。もしそれがキリスト教の福音であると考えるならば、それは全くの誤解です。

 キリスト教はこの世で生きるつらさ、苦しさから逃れるための、忘れさせるための方便、阿片を提供する宗教では決してありません。もしそうであるならば、私共の信仰は全く虚しく、この教会がここに立っている意味はないと思うのです。



 「艱難、汝を玉にす」という言葉があります。これは苦労や絶望をくぐり抜けて来た人ほど、立派な人格を形成するといった意味ですが、パウロが「苦難を誇る」「艱難を喜ぶ」と言っているのは、そういう意味なのでしょうか。

 もしそうであるとするならば、私共は苦難、艱難を一つ一つ、信仰の力によって乗り越えて、人格がいよいよ陶冶されて、高潔な人格、高邁な精神の信仰者、そういう高みまで昇り、どんな苦しみ、悲しみにも泰然自若としておれる。苦難、艱難はそういう人格を形成して行くための動力、発条なのだ。だから苦難、艱難は喜びであり、誇りとすべきことなのだということになります。

 このように艱難を喜び、苦難を誇るということが、宗教的ヒロイズム、英雄主義に通じるならば、今までパウロが述べてきたこと、すなわち「行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされる」ということと、全く違った反対のことをここで言っていることになります。



 キリスト教における救いとは何か、それは私共の弱さ、不信仰、罪、神への敵対にもかかわらず、神はキリストの故に私共を赦し、ただキリストを信じる信仰によって義とされ、神との和解が成立し、まことの平和が与えられ、神の恵みの中を歩む者とされる、そして永遠の命に与かる希望を喜び誇りとして、生涯を全うすることができる、実に今日の箇所にキリスト教の救いが述べ尽くされている、と言えるのです。

 従いまして当然「艱難、汝を玉にす」と言った、修練して自己を磨く、というような意味での艱難を考えることはできないし、そういう考えが入り込む余地は全くないのです。

 自分というものを高めることだけを目標とする時、あらゆる行いがヒロイズムに通じ、高慢になり、ひいては外面を取り繕う偽善者に、その人を追い込んでしまう結果になってしまうと思うのです。それは主イエスが厳しく批判していたファリサイ派の人々、律法学者の道です。



 キリスト者が「苦難を誇る」「艱難を喜ぶ」ことができるのは、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」(1節)いるから、更に5節後半、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」ことを知っているからです。

 パウロが申します「苦難」「艱難」は、マルコ福音書8章34節の「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」、という主イエスの言葉に示されていると思います。

 神に背き、神に敵対するこの世にあって、尚、神に従うキリスト者として立ち続ける故に受ける艱難なのです。十字架なのです。パウロはこのような、内から外からの、この苦難、艱難は私共にとって喜びであり、誇りでさえあると申しているのです。



 私共はキリスト者として生きる中での艱難、苦難を通して神の訓練を受け、忍耐を知り、練達に到り、希望に生きることができるのです。この希望は私共自身の現実から生じる希望ではありません。もし希望がそのようなものでありますならば、それは私共自身の不確かさに左右されるでありましょう。

 そうではなくて、この希望は5節後半にある「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」という、神の約束に基づく希望なのです。

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 2008年5月11日 
「神の霊によって導かれる者」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙8章12−17節



 今日は、聖霊降臨日、ペンテコステの日です。そこでローマの信徒への手紙の中から聖霊降臨日にふさわしい個所を取り上げて、ご一緒に学びたいと思います。

 ローマの信徒への手紙8章には、肉とか霊という言葉が多く出て参りますが、パウロが肉という時、それは人間存在の弱さ、不完全さ、罪深さを強調している言葉だと言えます。実際、パウロは7章24節で、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」とうめきにも似た告白をしております。



 しかし、続けてパウロは25節で、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と述べております。なぜそう言えるのか。その理由を8章2節で、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したから」だというのです。

 ここからパウロは神の霊の働きについて述べ始めます。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」(8章9節)。私共は、私共を虜としている力、肉の力、肉の支配から解放されて、霊の支配下にあって、神を喜ばせることのできる者へと変えられるのだ、そして事実、キリスト・イエスにあるバプテスマを受けた私共は、そのような者とされたのだと述べ、14節で、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」と言うのです。

 私共は神の子キリストの死によって罪が贖われ、聖霊の宮とされて、神の栄光を現わす者とされたのです。



 「神の子とする霊を受け」(15節)、キリスト・イエスを「主」と告白して洗礼を受けた者は、「皆、神の子」とされたのだ、というのです。子であるならば、私共は神を「父」と呼ぶことを許されているということになります。

 私共は肉につける者であって、罪の下に売られていた、罪の支配下にあって不安と恐れの中で死ぬばかりの惨めさの中にいた。その私共が神の霊に導かれて神の子とされ、「アッバ、父よ」と呼ぶことが許される、そういう恵みの中に、命と平安の中に導き入れられたのだ、とパウロは言うのです。

 それ故、私共は神の前に、乳幼児のごとく、その心にある思いの全てを注ぎ出すことを許された者として、「アッバ、父よ」との祈りを神に捧げることができるのです。何と言う恵み、何と言う幸いでありましょうか。

 16節を見ますと、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証しして下さいます」とあります。私共はこのような霊の働きによりまして「イエスは主なり」と告白し、神の子とせられるのです。

 ただ神の霊が私共の内に働きかけて下さって「イエスは主なり」と告白する者とされ、「アッバ、父よ」との祈りに導き入れられるのです。



 パウロはガラテヤの信徒への手紙5章16節でこう記しております。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

 私共は肉に従って生きる者ではなく、神の霊の導きによって生きる者とされたのでありますから、神の霊をいただいている者にふさわしい者として、13節にありますように、「霊によってからだの仕業を断」って、自分の体を喜ばせることではなく、神を喜ばせる生き方をしたいものです。

 「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」(ローマ書6章3節)は、「キリストと共同の相続人」(8章17節)となった者の集まりである教会に属する者です。

 礼拝後、教会総会がありますが、キリストと共同の相続人とされた者にふさわしく、神を喜ばせる教会を築く、そしてそれを次の世代に引き継いで行く、「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」、そのような思いで一致して、総会に臨みたいと思います。

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 2008年5月4日 
「信仰によって実現される約束」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙4章13−25節



 パウロは今日の箇所では、罪について語るよりも、死について語ることに重きを置いております。なぜでしょうか。それは「死に打ち勝つ力」を神によって、イエス・キリストを通して与えられた、そのことをすぐ前の10節、11節で語ることができたからです。

 パウロはその喜びの中で、自分たちがいかに神に敵対し、罪と死というかっこにくくられた絶望的な、悲惨な人生を歩んでいるかをはっきり知らされました。しかし、死に勝利されたキリストのゆえに、死と向かい合う勇気を与えられ、死について語り始めるのです。

 そこで、12節「このようなわけで、ひとりの人によって罪が世に入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」と、パウロは、キリストの復活の意味をアダムと対比させながら明らかにします。

 アダムは罪を犯したために死ぬ者となり、それによって全人類は死ぬべき者となった、これがキリスト教における原罪の教理の聖書的根拠とされる箇所です。しかし、ここは最初の人アダムの犯した罪のDNAが全人類に及んでいると解釈するのではなく、罪の普遍性という意味で理解したいと思います。



 この先の6章23節で「罪が支払う報酬は死」とありますように、人間の死は人間が神に対して罪を犯したことによってもたらされたものだというのが聖書の教えです。

 アダムが神に対する罪を犯し、神に敵対し、神への不従順のゆえに、死ぬべき者となったのに対して、キリストは神に対する全き従順をもって、死の支配に対する勝利を得られたのです。

 このことによって人類は罪と死の支配から解放されて、義とされ、命を得る者となったとパウロは言うのです。

 誰もが、やがては死を迎えます。しかし、死ぬるにも生きるにも、罪と死の縄目から私共を解放してくださった主イエス・キリストが共にいてくださる。私共には何も恐れるものはない。

 そこに救われた者の喜びがあり、そのような神を私共は心から喜び、感謝し、それを誇りとして生きることを許され、また、そのように生きることへと私共は召されているのです。



 洗礼とは元々は水に浸すという意味で、これは罪を水で清めるということを意味しておりますが、それだけではないのです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6.4)。

 洗礼はキリストと共に死に、そしてキリストと共に甦り、永遠の命の約束に与かる者とされたことの徴なのです。

 私共キリスト者は、それを喜び、感謝し、それを誇りとし、その恵みに応えて生きる者となるべく召された者です。17節後半に「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」とありますが、その共同体が教会という所なのです。



 私共の疑いや不安、納得できないさまざまな思いを超えて、主イエス・キリストは私共人類の罪と死に勝利し給うお方として、十字架上で自らの肉と血をもって私共の罪を執り成してくださり、神との和解を成し遂げてくださったのです。

 教会に生きる私共キリスト者は、皆、そこに立ち続けることのできる者とされたのです。

 聖餐式はその恵みを覚えるために、記念として守るよう主イエスから命じられているのです。私共だけではなく、すべての人々が洗礼を通して主イエス・キリストの恵みと救いにあずかることが許され、招かれているのです。



 私共はやがていつかは肉体の死、生物学的、医学上の死を迎えなければなりません。しかし、それで終わりではないのです。私共は洗礼においてキリストと共に死に、キリストと共に新しい命へと移されたのです。

 生くるにも、死ぬるにも私共の主イエス・キリストが伴ってくださる、そのことを信じ、心の平安をもって、自分の地上での生涯を神に感謝しつつ、主イエス・キリストの御手に、この体をお委ねいたしたく思うのです。

 死に打ち勝つ信仰をもって、お互いに励まし合い、助け合い、祈り合い、慰め合い、愛し合い、永遠の命に生きる望みの内に生涯を全うしたいものです。

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