シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年6月22日 
「死から命へ」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙6章15−23節



 人生、その行き着く先が死であることは誰もが認めることです。しかし、聖書は人生の終わりは死ではない、私共のゴール、行き着く先、それは主イエス・キリストの甦りの命の中にあると教えております。

 神が主イエス・キリストを通して用意して下さっている永遠の命に入ること、それが私共キリスト者にとってのゴールなのです。私共はこの永遠の命に向かって自分の地上での生活を整えて生きるべく神によって召されているのです。

 キリストの甦りの中に人生途上におけるあらゆる困難、悲しみ、苦しみに対する解決が用意されている、そしてそれが与えられるのは私共の側の精進や努力によってではなく、全くの神の恵みとして、私共に備えられているのだ、それがキリスト教が宣べ伝えているところの福音なのです。



 23節でパウロは私共が「死から命へ」移されているのだということを明らかにしております。このことは他の聖書の箇所でも、はっきりと記されております。「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」(テモテへの手紙二、1章10節後半)。

 又、イエスご自身の言葉として、「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネによる福音書5章24節)。

 更には、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています」(ヨハネの手紙一、3章14節)とあります。



 神は罪の内に死ななければならない人間の悲惨さ苦しみを根底から救う為に、神の愛する独り子をこの世に送り給うて下さったのです。主イエスは人類を罪から救い、解放して下さるために、苦しまれ十字架につけられ、死なれ、葬られました。

 主イエスは私共一人一人の人生を、ご自身の身に引き受けられ、罪の報酬である「死」を私共の代わりに受け取られ、十字架上で死に、墓に葬られたのです。この神の子イエス・キリストの犠牲の死によって、神は人類の罪を裁き、私共の罪を赦して、私共を「死から命へと移し」、義として下さったのです。ここに人類に対する神の愛が明らかに示されているのです。

 このようにして私共は罪の結果としての死より解放されたのです。私共に為されたその神の恵みに感謝し、その恵みに応えて生きる道、それがキリスト者の歩むべき道なのです。罪の支配から解放された私共が以前の生活に戻るようなことはあっては決してならないのです。



 私共は罪の報酬としての死から免れているばかりでなく、神から永遠の命に至る確かな約束の希望に生きているのです。この永遠の命を神から頂けるのは、神がイエス・キリストを通して示して下さった神の側からの全く自由な、恵みの賜物に外ならないのです。

 イエスはヨハネによる福音書11章25節で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」、と言われました。私共にとって最高の喜び、感謝はイエス・キリストが甦り給うたことによって、私共も又、死から命へと移された、ということです。



 永遠の命、それは哲学や思想でもありません。ヨハネによる福音書17章3節で、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」、とあります。

 礼拝生活の中に、永遠の命にあずかる生活が始まっているのです。神への礼拝を捧げ、神への賛美と感謝に生きている、そこで既に永遠の命は始まっているのです。礼拝生活そのものが永遠の命を生き始めているということなのです。

 私共はただ、復活のキリストを見上げ、そこにおいて死から命へ移され、永遠の命に生きる望みを与えられて、この地上で礼拝生活をしていることの幸いを覚えて、神に心からなる感謝と賛美の礼拝を捧げて参りたく願う者です。

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 2008年6月15日 
「新しい命に生きるため」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙章1−14節



 今朝の箇所の4節に、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」、とあります。

 イエス・キリストは、ただ一度、人類の罪をすべて引き受けて、十字架上で死なれました。パウロはそのことを「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができ」(コリント二5章21節)たのです、と記しております。

 そのイエス・キリストを神は甦らせ給うことによって、罪と、その報いとしての死を完全に滅ぼし尽くされたことを目に見える形で示して下さったのです。それがキリストの復活という出来事なのです。

 キリストがただ一度神に対して死なれて、そして復活の命を生きているように私共の受ける洗礼も、又、人生の中でただ一度だけなされるのです。



 洗礼の式において牧師が受洗者の頭に水を垂らすということを致しますが、それは水で清めるという意味もありますが、何よりも一度古い自分が完全に死ぬということを象徴しているのです。キリストの十字架の死にあずかって古い自分が完全に死んで、洗礼においてキリストと一つにされる、キリストのものとなるということを意味します。

 それだけではありません。キリストがそこから復活されたように、私共もキリストの命にあずかって新しい命に生きるということを意味します。

 パウロは、洗礼を受けてキリスト者となった者は罪から自由にされ、古い自分と罪の体が死んだのだから、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」(12節)、と勧めます。

 更に、「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として献げ、又、五体を義のための道具として神に献げなさい」(13節後半)、と勧めております。 洗礼を受けた私共は罪に死に、罪から自由にされ、解放され、神に生きる者とされた、そのような者とされたのだから、罪の内に生きる生き方を止め、神に栄光を現わすために生きなさい、とパウロは勧めているのです。



 パウロの勧めは、単に消極的に「するな」と言うだけではありません。むしろ積極的に「しなさい」と言うのです。罪から解放され、新しい命を与えられた私共は、自分の欲望のままに生きる生き方を捨て、神の恵みの下で、真に自由な人間として、神に服従して生きることを私共は神から期待されているのだということをパウロは私共に告げ、神への服従を強く求めているのです。

 パウロは、そのことをエフェソの信徒への手紙6章10節、11節で、「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と記しております。



 洗礼は、キリストの十字架による罪の贖いによって古い自分が死に、罪と死という滅びの支配から免れて、復活のキリストに結ばれて救われ、新しい命に生きる者とされたということの目に見えるしるしなのです。洗礼を受け、キリストに結ばれて新しい命に生かされている、ここに私共の心の底からの喜びがあり、感謝の生活が始まるのです。

 洗礼を受けたからといってバラ色の人生が開かれているわけではありません。生きている限り労苦はあるのです。

 しかし、「キリストに結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことをあなたがたは知っているはずです」(コリント一15章58節)、とありますように、キリストに従って生きる苦労は、決して無駄にならないことを神は私共に約束して下さっているのです。

 神が私共にキリストを通して約束して下さった恵みの下で新しい命に生きる者として、神に従って生きることの素晴らしさを共に味わいたいと願う者です。

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 2008年6月1日 
「恵みの賜物を豊かに受けて」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙5章12−21節



 パウロは今日の箇所では、罪について語るよりも、死について語ることに重きを置いております。なぜでしょうか。それは「死に打ち勝つ力」を神によって、イエス・キリストを通して与えられた、そのことをすぐ前の10節、11節で語ることができたからです。

 パウロはその喜びの中で、自分たちがいかに神に敵対し、罪と死というかっこにくくられた絶望的な、悲惨な人生を歩んでいるかをはっきり知らされました。しかし、死に勝利されたキリストのゆえに、死と向かい合う勇気を与えられ、死について語り始めるのです。

 そこで、12節「このようなわけで、ひとりの人によって罪が世に入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」と、パウロは、キリストの復活の意味をアダムと対比させながら明らかにします。

 アダムは罪を犯したために死ぬ者となり、それによって全人類は死ぬべき者となった、これがキリスト教における原罪の教理の聖書的根拠とされる箇所です。しかし、ここは最初の人アダムの犯した罪のDNAが全人類に及んでいると解釈するのではなく、罪の普遍性という意味で理解したいと思います。



 この先の6章23節で「罪が支払う報酬は死」とありますように、人間の死は人間が神に対して罪を犯したことによってもたらされたものだというのが聖書の教えです。

 アダムが神に対する罪を犯し、神に敵対し、神への不従順のゆえに、死ぬべき者となったのに対して、キリストは神に対する全き従順をもって、死の支配に対する勝利を得られたのです。

 このことによって人類は罪と死の支配から解放されて、義とされ、命を得る者となったとパウロは言うのです。

 誰もが、やがては死を迎えます。しかし、死ぬるにも生きるにも、罪と死の縄目から私共を解放してくださった主イエス・キリストが共にいてくださる。私共には何も恐れるものはない。

 そこに救われた者の喜びがあり、そのような神を私共は心から喜び、感謝し、それを誇りとして生きることを許され、また、そのように生きることへと私共は召されているのです。



 洗礼とは元々は水に浸すという意味で、これは罪を水で清めるということを意味しておりますが、それだけではないのです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6.4)。

 洗礼はキリストと共に死に、そしてキリストと共に甦り、永遠の命の約束に与かる者とされたことの徴なのです。

 私共キリスト者は、それを喜び、感謝し、それを誇りとし、その恵みに応えて生きる者となるべく召された者です。17節後半に「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」とありますが、その共同体が教会という所なのです。



 私共の疑いや不安、納得できないさまざまな思いを超えて、主イエス・キリストは私共人類の罪と死に勝利し給うお方として、十字架上で自らの肉と血をもって私共の罪を執り成してくださり、神との和解を成し遂げてくださったのです。

 教会に生きる私共キリスト者は、皆、そこに立ち続けることのできる者とされたのです。

 聖餐式はその恵みを覚えるために、記念として守るよう主イエスから命じられているのです。私共だけではなく、すべての人々が洗礼を通して主イエス・キリストの恵みと救いにあずかることが許され、招かれているのです。



 私共はやがていつかは肉体の死、生物学的、医学上の死を迎えなければなりません。しかし、それで終わりではないのです。私共は洗礼においてキリストと共に死に、キリストと共に新しい命へと移されたのです。

 生くるにも、死ぬるにも私共の主イエス・キリストが伴ってくださる、そのことを信じ、心の平安をもって、自分の地上での生涯を神に感謝しつつ、主イエス・キリストの御手に、この体をお委ねいたしたく思うのです。

 死に打ち勝つ信仰をもって、お互いに励まし合い、助け合い、祈り合い、慰め合い、愛し合い、永遠の命に生きる望みの内に生涯を全うしたいものです。

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