シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年7月27日 
「被造物のうめき」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙8章18−25節



 パウロは、「被造物がすべて今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わっているということを、わたしたちは知っています」(22節)と述べています。自然は人間が罪に陥り、うめき苦しんでいるのに連帯して、一緒にうめき苦しんでいるのだと、パウロは申しております。

 創世記の冒頭に、神によって天地創造がなされたこと、そして「神はご自分にかたどって人を創造された」(1章27節)と、記されておりますように、キリスト教は、この世に存在するすべての物のものが神のご意志によって創造されたと信じています。

 創造の業を全て終えた時、「神はお造りになったもの全てのものをご覧になった、見よ、それは極めて、良かった」(1章31節)とあります。



 ところがパウロは20節で、「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるもの」だというのです。

 自然を管理すべく任せられた人間が、その傲慢さのゆえに神に従うことを拒否し、神に背いて堕落したために、神は人間の犯した罪に、全被造物にも連帯責任を負わせたのです。それ故、被造物が虚無に服しているのだと言うのです。

 創世記3章にそのことが記されています。人類最初の人間アダムの犯した罪、神への反逆によって、「お前(アダム)のゆえに、土は呪われるものとなった」(3.17)。

 人間の堕罪によって、自然もそれに連帯して、被害をこうむるのです。愚かで罪深い人間の貪欲によって、自然を人間にとって都合のよいものに変えたり、利益追求のために自然を征服しようとして来た。とりわけ近代以降、科学技術の発展はとどまることのない有り様です。

 それに比例して、自然環境は破壊され、地上の動植物、海の生物も、その種類がどんどん絶滅していって、万物に深い悲しみと苦痛をもたらしていることは、皆さん、御承知の通りです。



 人間の堕罪と共に、神は自然をも人間に連帯させた。それゆえ被造物全体がうめいているというのです。パウロは、しかし、キリストの再臨、終末の時には人間も自然も栄光を受ける希望に与かっているというのです。

 それが21節に示されています。「つまり、被造物もいつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」

 被造物が栄光に輝く自由を得ることができるのは、「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら、待ち望んでい」(23節)るからなのです。

 仏教や神道では、人間もまた自然の一部、全てのものの中に仏性を宿している、神が宿っていると考えます。しかし、キリスト教では徹底的に人間から自然というものを見ます。人間の救いなくして自然の回復もない、と。そこから全てのことを見ます。

 ですからパウロは、被造物がうめき、苦しみ、滅びに瀕しているのは、人間の故であって、人間が滅びから救われる、回復されることによって、自然も又、回復される、栄光に輝く自由を得ることができるという希望を、確信を持って、ここで語っているのです。



 私共キリスト者は、霊の助けをいただきながら、神がキリストを通して約束し給う栄光を待ち望んでいるのです。

 パウロは、この神の栄光が表わされるのを望んでいるのは、キリスト者だけではない。被造物も又、うめきつつ、待っている、というのです。そして全てのものはこのうめきが、憐れみに富み給う神によって必ず聞き届けられるという確信を持って待っているというのです。

 そのことをパウロは28節でこう告げております。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

 私共キリスト者は、罪と死の法則から解き放たれ、栄光に輝く自由にあずかれる希望を持って、教会がこの世界で託されている使命、全被造物の救いのために、聖霊の助けを仰ぎながら、励んで参りたいと思います。

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 2008年7月20日 
「霊の思いは命と平和」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙8章1−11節



 聖書は、人間を支配する力は罪と死であって、人間は皆、罪を犯し続け、その報酬である死の恐怖に脅えての生涯を送る、それが人間の定めなのだ、と告げております。しかし、8章1節でパウロは、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」、と神から義を宣告されたという勝利の確信を述べております。

 そして、罪と死の法則、支配から、免れる道をパウロは2節で明らかにします。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」

 この言葉に示された神の愛、神の恵み、神の赦しに心から「アーメン」その通りです、と告白することの幸い、喜びを知ること、それを人々に証しし、その恵みを共に分かち合う群れ、それが教会という所なのです。



 そのことをもっと正確に語っているのが3節です。「肉の弱さのために律法が為し得なかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において、罪を罪として処断されたのです」。

 なぜ、私共は罪に定められないのか、私共の罪が既に罰せられたからです。どこで罰せられたのか。主イエス・キリストにおいてです。神の子イエス・キリストが私共人間と同じ、「罪深い肉と同じ姿で」私共の罪のための贖いの供え物となってくださったからです。

 罪と死に括られた、惨めな私共でありますが、主イエス・キリストは、そういう私共のために、私共の身代わりとして、十字架上で贖いの供え物となられて、私共が「罪に定められることがない」ようにしてくださったのです。

 私共に、罪と死に打ち勝つ力を与えてくださったのは、全く神の側からの一方的な恵み、愛の故であって、私共の功徳や業によってではないのです。その恵みを感謝して受け入れるだけで「罪に定められることがない」、「死の滅び」から救われるというのです。



 6節でパウロは、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和」と述べておりますように、二つの道があることを示唆します。一つは神に敵対し、肉の思いを持って罪の内を歩み、その裁きとしての死を免れない道です。

 もう一つの道、それは神の聖霊に捕らえられて、罪と死から解放され、キリストの甦りの命と平和に与かる道です。そして、私共はこのキリストの甦りの命に与かり、平和への道を進んでいるのだ、というのです。

 キリストを死者の中から復活させた方、父なる神はあなたがたの内に宿っているその霊によって、つまり聖霊によってあなたがたを生かす、あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださる、とパウロは語ります。聖霊は復活の力なのです。

 その霊を私共は宿している、だから私共は死人からの復活の希望を確信して生きることができるのです。私共の「死ぬはずの体をも生かしてくださる」(11節)、その希望をキリスト・イエスにあって確かなものとされているのです。

 ある神学者は11節の言葉は、「私たちの墓の上に、この言葉は書き記されている」というのです。私共の墓に「主イエス・キリストを甦らせた方が、ここに葬られている者を甦らせられる」という墓碑銘が刻まれる、書けるというのです。

 「あのイエスを死人の中から甦らせた方の霊が、今ここに眠る者の肉体にも宿る、この死ぬべき体を生かしてくださる」、そう墓に記すことが許されている、そういう言葉だというのです。

 私共は、そのことを信じるが故に「身体の甦り、とこしえの命を信ず」と毎週の礼拝で使徒信条を唱えているのです。



 私共から全てが奪い去られても、たとえ死んだとしても、私共はキリストの復活の体に与かり、死より命へと移される、その希望を持って、私共はこの世のさまざまな思い悩み、不安、恐れの中にありながらも究極のところで、キリストの恵みに、救いに入れられている、その確かさの中で、なおも希望を持って生きることが許されている、そのことを神に感謝したいと思います。

 そしてそのことを一人でも多くの方々に証しして行く者となりたいと思います。

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 2008年7月13日 
「深き淵より」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙7章7−25節



 ここで、パウロはファリサイ派に属する人間として生きていた青年時代を振り返ります。自分は律法を守っている正しい人間だと自らを誇っていたが、結果的に神に対して自己を主張する、「むさぼり」の罪を犯し、隣人をもむさぼっていた、と言うのです。

 そして、律法それ自体は神の御心を現しているものであったにせよ、律法によっては罪は決して無くならない。むしろ、罪を誘い、助長する働きをするものが律法だということを、キリストとの出会いによってはっきりと知らされたことを明らかにしております。



 パウロは、復活のキリストに出会ったことによって、ファリサイ派として厳格に律法を守り通して生きていた時には、全く想像することも出来なかった自分の罪深さ、そしてそれをどのようにしても、自分の力で克服出来ないことを知ったのです。

 律法は人間の罪を暴露するだけであって、それをどんなに忠実に行なったとしても、それは自分で自分を義とする「むさぼり」の行為であって、神の喜ばれることではないということを知らされたのです。

 私を「罪と死の法則から解放」(8章2節)し、滅びから救って下さるお方こそ、主イエス・キリストであることを知って、パウロは「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。」と叫んでいるのです。



 しかし、私共が生きている限り「肉」は尚、私共の内で望まないことをするわけで、私共の信仰生活はそういう意味では罪との戦いの連続であると言えます。そのことが7章25節後半で言われております。「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」

 パウロはこの言葉を平静さを持って、静かに語っています。何故なら、キリストの福音の光の下に立っているからです。キリストによって既に捉えられているという信仰から生まれる平安の中で、罪と戦うことが出来ているからです。

 深い淵の底にいたとしても自分は決して負けることはない、何故なら自分は神の救いの中に既に入れられているから。それがキリストの福音の中に生きる私共キリスト者の信仰生活というものです。



 パウロはローマの信徒に「私は惨めな人間だ」と告白しました。私はそこに真にキリストの十字架の福音信仰に生きた者の姿を見る思いが致します。そういう信仰者の群れ、それが教会なのです。

 教会という所は聖人君子の集まりでは絶対ない。自分の惨めさに涙し、罪深さにおののく者の集まりです。お互い弱い、醜い者の集まりです。傷つけることなしに交わることが出来ないと言っても言い過ぎではないでしょう。

 罪ある者の集団として、悔い改めることにおいて、赦し合うことにおいて、そして主イエス・キリストに対する信頼においてのみ交わりが成り立つ教会、このシロアム教会は、そういう教会であり、教会に集う者の群れなのです。

 だからこそ、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」というパウロの言葉を、私共も深い感謝をもって叫ぶことが出来るのです。



 私共キリスト者は、パウロが体験し、又、述べて参りましたように、神はイエス・キリストの十字架の贖いと甦りの勝利によって私共罪の内に死すべき者を、罪と死から完全に解放して下さった、その恵みの内に置いて下さったという喜ばしい音づれを耳にし、信じる者とされたのです。

 そこにおいてパウロが24節、25節で告げていることが、私共の告白ともなるのです。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝致します。」

 深い淵の中から叫ばざるを得ない、惨めなこの私を、私共を、解放し、救って下さる唯一のお方、イエス・キリストを信じ、このキリストによって指し示された道、永遠の命の希望に生きる道を、共々に感謝をもって歩んで参りたいと思います。

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 2008年7月6日 
「文字ではなく霊に従う」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙7章1−6節



 パウロは、ローマの信徒への手紙において様々な変奏を奏でながら、「神の子イエス・キリストの救い」についての喜ばしい訪れ、福音を明らかにしようとしているのです。

 この7章も又、そうした変奏曲の一つであると言えます。この変奏曲の一つの主旋律ともいうべきものが「実を結ぶ」(4節)という言葉になるかと思います。



 かつてパウロは、神が人間に与えた掟、律法をすべて守ることを誇りとして生きておりました。自分は他の人々より一段と高い場所にいると、傲慢な気持ちを持って他の人々を軽蔑して生きておりました。

 しかし、甦り給うたキリストに出会って、一段と高い所にいたと思っていた自分が、実は本当に惨めな低い所にいたのだということ、自分の人生は実を結び続けると思っていたのに、実はどんなにか空しい滅びを生む生活であったかということを、復活のキリストに出会って、初めて気付かされたのです。

 「罪の奴隷」となって「今では恥ずかしいと思う」(6章21節)実を結んで死に果てる生き方であった、「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいた」(5節)ことに気付かされたのです。

 そして、キリストを救い主と信じるようになって、初めて真実に「聖なる実を結ぶ」生き方を知ったのです。キリストと共にある時、自分の人生は空しくなることはない、どんな生き方をしていても、実を結ぶのだと言える、とパウロはここで告げております。



 主イエス・キリストの救いに与かって救われる私共は尚も、繰り返し罪を犯し続けて生きている、そのことを誰もが認めざるを得ないと思います。なぜそのことを罪として認めることができるのか、キリストを知っているからです。

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章32節)、と言われたキリストの憐れみ、恵みに、愛の中に捉えられていることを知っているからです。そこで悔い改めへと導かれるのです。悔い改めるということは神の下に立ち帰る、神の支配下に身を委ねるということです。

 パウロは、私共が十字架のキリストの体に結ばれて律法から解放され、律法に対して死んで、全く自由な者とされた、そして自由になった私共は他の方のものとなった、誰のものか、死んで甦り給うた主イエス・キリストのものとなった、そう告げています。それが信仰であり、洗礼を受けるということなのです。



 この恵みに与かって生きることを赦されている、そのことを心から喜び、感謝し、それを互いに分かち合いながら、「神に対して実を結ぶようになる」(4節)人生、それが「新しい生き方」なのです。そういう生き方を私共ができるようになるために主イエス・キリストはこの世においでになられたのです。

 そのことをパウロは6節で、「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっている」と述べています。私共は文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方をもって、復活された主イエス・キリストに仕える者とされたのです。

 文字に従う古い生き方、それは律法に縛られて生きていたということです。律法は神の定めた掟ですから、当然、霊的な性質を持っているわけです。それを人間は律法を神の霊から切り離して、文字だけに変えてしまったのです。そして、霊から切り離され、文字に縛られてしまった。

 主イエスがファリサイ派の人々、律法学者を徹底的に批判したのは、そこにあったわけです。かつてのパウロの生き方もまさにそうであったのです。

 私共キリスト者は、聖書の御言葉を単に古い文字としてではなく、聖霊の働きによって、新しい生きた言葉として現実のものとして行く、自分の中で現実化して行く、そういう信仰に生きたい、又、そういう礼拝共同体を作って参りたいと思います。

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