シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年8月31日 
「自由な選びによる神の計画」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙9章6−13節



 神からの全き自由な選びによって、アブラハムとその子孫であるイスラエル民族は神からの召しを受け、特別に神に選ばれた民、神の民としての光栄と祝福の約束を与えられました。

 しかし、神の民とされながらイスラエルは神への不信と背信の歴史を重ね、ついには神が全人類を救うために、この世にお遣わしになったメシア、神の独り子イエス・キリストを拒否し、十字架につけて殺してしまいました。

 なぜ神の民イスラエルは救い主メシアを待望していながら、本当に人類の歴史に現われてくださった救い主イエス・キリストに躓いてしまったのでしょうか。



 イスラエルの民は、2千年前、地上に現れた救い主メシアを、ユダヤ人が持っていた神の民としての誇りや、聖なる伝統と権威、律法、割礼を軽視する真に危険な人物として、彼を呪いの十字架につけて殺してしまったのです。

 このことによって神の、イスラエルに対する特別な選びの民としての約束の言葉は無効になったのか、神の約束はイスラエルの背信によって反故とされたのか。ユダヤ民族の一員であるパウロにとって、この問題は重大な問いでした。

 パウロの結論は、神の救いのご計画、恵みの選びのご計画は、人間の側に不誠実、偽りがあったとしても無にはされない。神は真実を貫かれるお方だということです。ですから今日の聖書の箇所、6節で「神の言葉は決して効力を失ったわけでは」ない、というのです。



 パウロは、そのことを旧約聖書に述べられているいくつかの事実をもって明らかにするのです。そして最初に取り上げたのはアブラハムの物語です。

 年老いたアブラハムには、未だ神が約束した子どもが与えられていませんでした。しかし、神の使いが現れて、必ず約束の子どもが与えられることを告げましたが、彼の妻サラはそれを聞いて笑ってしまったのです。

 しかし、サラが笑ったにもかかわらず、神の約束された通りに生まれた子ども、それがイサクでした。人間の側の不信仰にもかかわらず、神の言葉は無効になることはない、そのことをパウロはアブラハムの子イサクの誕生の出来事において見たのです。



 神は私共の不信仰にもかかわらず、否、不信仰だからこそ、神は愛する独り子イエス・キリストを私共の罪の贖いとさせ給うことによって、私共を救ってくださったのです。神がアブラハムに約束し給う祝福は、今や民族の枠を越えて全ての人を救う祝福の約束として、イエス・キリストにおいて成就したのです。

 どんなに罪深い者であっても私共は誰一人、神の救いのご計画から洩れてはいないのです。主イエスを十字架につけて殺してしまったユダヤ民族とても同じです。

 神の言葉は、私共の在り方如何にかかわらず、無効になることはないのです。「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)と聖書にありますように、神の選びのご計画が、恵みとして全ての人に与えられているのです。

 この福音によって、私共は神の恵みと祝福との約束が、私共の状況如何で、無効になったりすることはないことを信じる者とされているのです。従ってどのような時にも神は共にいてくださる、という信仰に支えられて、あらゆる困難、苦しみ、悲しみに打ち勝つことができるのです。



 たとえどんな状況にあっても神が共にいてくださり、助け、祝福してくださる、そのことを信じることにおいてのみ、そしてそのように生きることにおいて、イスラエルが神によって選ばれた民であることには変わりがないのです。

 神の憐れみと祝福によって、そしてそれは全く自由な神の恵みのご計画によってなのですが、それによって私共は救いに招かれているのです。神がインマヌエルの神、どんな時にも私共と共にいて救ってくださる神である、そのしるしがイエス・キリストの十字架と死と復活に示されたのです。

 どのような時にも共にさる神を賛美し、心からなる感謝と喜びをもって毎日歩んで参りたく願う者です。

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 2008年8月24日 
「真理はあなたたちを自由にする」西原明牧師
ヨハネによる福音書8章31−47節



 国会図書館の初代館長羽仁五郎さんがこの言葉を国会図書館の玄関に掲げました。多分、戦争の暗黒時代を経て思想・良心の自由を謳う新憲法のもと、書物を読んで知識を蓄え真理を知ることが、人々に考える力、引いては精神的自由を与えるという意味でこの聖句が選ばれたのでしょう。

 ところで、この聖句をキリストの言葉として礼拝で聞くとき、私たちは、書物で知識を学び真理を知るということとは全く異なる大切なこと、すなわち、主イエスの弟子であるということはどういうことか、を知らされます。



 今日の箇所の初めに、主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と言われました。「言葉にとどまる」と私たちはあまり言いませんが、ヨハネによる福音書では「とどまる」という言葉は、「離れないでそこに居続け、生きる」という意味の大変味わい深い言葉です。

 他の箇所では、「つながる」叉「泊まる」とも翻訳されています。

 「つながる」は15章の「ブドウの木につながる枝は良い実を結ぶ」という主イエスのたとえ話に出てきます。ぶどうの枝が幹につながり栄養やエネルギーを吸収し続ければ実を結ぶように、主イエスの言葉から片時も離れず生きる力を頂く者こそ本当の弟子だということになりますが、神さまご自身のお働きで弱い私たちでも主イエスにつながらせて頂くのだと言うことを忘れてはなりません。



 次に、「泊まる」と翻訳されている第1章の出来事を味わいましょう。

 「1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。」(「神の子羊」とは「私たちの罪を背負って十字架にかかり死なれる救い主」のことです)。

 「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが『どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。」

 イエスが「罪を贖う救い主だ」と先生のヨハネから聞いて、この二人は直ちにイエスの後に「従って行った」。すると主イエスは「何を求めているのか」と声をかけてくださる。弟子の答は「真理を求めています」でも、「救いを求めています」でもない。なんとなんと、「先生、どこに泊まっておられるのですか」です。どういうことでしょう。



 ヨハネの弟子として、この二人は旧約聖書に記されている「真理や救い」に関する教えは充分に学び、荒野で修行も積んでいました。しかし、先生のヨハネから、このイエスこそが「神の子羊だ」と指し示された今この時、この二人は教えや知識を超えた主イエスの生きた力に引き込まれるように、主イエスのすぐそばで一緒に生活したくなったのではないかと、私は思うのです。

 さて、「どこに泊まっておられるのですか」に対して主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」とだけ答えられます。

 まっすぐ行って二番目の角を右に曲がり、なんて説明ではなく、主イエスがご自身で歩かれる道をただ一緒に歩み続ければ分かるよ、と先だって進んで行かれる。私は道であり、真理であり、命であるという主イエスの言葉を思い出しますね。

 二人は着いていき、「そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。」

 泊まって何があったのか、何も書いてありません。聖書はただ、「イエスのもとに泊まった」つまり、二人の弟子は主イエスのそば近くに身を寄せ、主イエスから離れずに主イエスの言葉の中にとどまり、主イエスと共に生き続けた、というのです。



 主イエスと二人の人物の間の微妙なやりとりに注目しましょう。二人は自発的決断で主イエスの後に従いました。しかし、主イエスの側でも、「何を求めているのか」と声をかけ、「どこにお泊まりですか」と問う二人を先だち導いてくださる、この合い呼応する生きた関係が、二人を主イエスと共に生きる弟子にしたのです。

 ヨハネ黙示録3:20に「 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とあります。

 私たちの生活の現場で、困難や苦しみに直面するとき、主イエスが私たちの戸口に立って声をかけてくださる、その声に答えて貴方が扉を開き主イエスを貴方の生活の中に迎えるならば、 あなたは主イエスと共に食事をして疲れた体一杯にキリストの命を満たされるのです。



 こうしてイエスの言葉にとどまり、イエスの弟子であるものは、真理を知り、真理はあなた方を自由にすると、主イエスは言われました。

 ヨハネ1:17が「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と語るように、「真理を知る」とは律法学者のように聖書の文字を学び知識を蓄えて真理を獲得することではなく、私たちの生活を神の御心に委ね明け渡して、主イエスの生き方に現される神の力、命、愛を信じ、受け入れることです。

 そうすれば、「真理はあなた方を自由にする」と主イエスが約束された通り、私たちは、人生のどんなに困難な場面でも、神の御心を疑う罪の力から解放され、不安におびやかされることもありません。私たちの魂と体の隅々まで、神の愛とキリストの平和に満たされて生きることを許されるのです。

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 2008年8月17日 
「同胞の救いのために」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙9章1−5節



 ここまで、キリストによって救われた者の喜びと感謝を述べたパウロでしたが、心の内にあったのは同胞のことでした。愛する祖国イスラエルがキリストにおける救いの恵みから落ちてしまう状況が、ありありと見えていたのです。イエスを十字架につけたこの民は、彼が復活し給う後にも、その救いの呼びかけを拒否し続けたからです。

 そこでパウロは9章から11章にかけて愛する祖国が神の救いから落ちていることへの深い悲しみと激しい痛みの中でユダヤ民族の救いを祈り、願いつつ、ユダヤ人問題について論じているのです。

 「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」(4節)。

 イスラエルは神に選ばれた民、真の神を信じることにおいて、一つとなって生きて来た民であり、「神の子」と自分たちを呼び得る信仰の民でした。そして神の子として生きるにふさわしい道を説く教え、律法がありました。

 イスラエルは神によって特別な賜物を与えられた民族として、神の祝福に包まれた歴史を刻んで来たのです。神を拝み、神に従うことを誇りとして生きて来たのです。

 しかし、ユダヤ民族は、全人類を救うために、この世に来たり給うた神の子、肉によれば同じユダヤ人イエス・キリストを救い主として受け入れるどころか、十字架につけて殺し、更にはイエス・キリストを主と告白するキリスト教徒、そして教会に対して激しい迫害を加えたのです。パウロも、かつてはその迫害の先頭に立って、キリスト教徒を迫害したのでした。



 なぜ迫害したのか。自分たちだけが神によって特別に選ばれた民であるとの誇りを根底から覆らされる恐れ、不安、憤りがあったからです。

 神の民として輝かしい栄光の歴史(言うまでもなく信仰の歴史においてですが)を刻みつけて来たイスラエルが、今まさに人類の歴史の中に、イエス・キリストを通して神の救いのご計画が明らかにされたというのに、それを頑なに拒否し、不信と背信の中にいる、そのことはパウロにとってどんなにか激しい悲しみであり、痛みであったことでしょうか。

 8章38節で、パウロはどんなものも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」との確信を語ります。

 キリストの愛の中に生きるからこそ、自分の同胞であるユダヤ民族が、どうしてこうも頑なにキリストの恵みを拒絶し、不信と背信の中にいて救われないのか。パウロは悲しみと絶えざる痛みが疼く中で、「神様、我が同胞イスラエルを救ってください」と、祈り続けたことと思います。



 ここに記されていることは、私共にとって決して無関係なこととは言えないのです。私共は幸いにして神の救いの内に入れられた。しかし、なぜ自分の家族は、友人は、同胞は、未だ救われないのか。そう問わずにおれないところから生まれて来る痛み、悲しみ、呻き、それはパウロの思いと同じです。

 パウロにとりまして現実の世界から離れた信仰、歴史から超越した個人の信仰というものは考えられなかったのです。世界と歴史への参与、関わりを抜きにして個人の救いはない、それがキリスト教の信仰です。

 換言すれば、徹底的に他者に仕える信仰、隣人の苦しみ、痛み、悲しみ、悩みに親身になって関わり、祈り、救いを求める中で、自らの信仰が深く養われて行くのです。

 キリスト教は交わりの宗教だと言われますが、そういう他者への愛に具体的に関わって生きていく、信仰を生活の中で証ししていく中でキリスト者として立てられて行くのだと思います。

 私共の信仰が、個人的、内向きな信仰から、あるいは御利益だけを求める信仰から、脱却して、日々の歩みの中で隣人に仕え、キリストの愛を証しし、神の御心を人々に明らかにしていくことが求められていると思うのです。

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 2008年8月10日 
「輝かしい勝利」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙8章31−39節



 今日の聖書の箇所には、「味方」「訴える」「義とする」「罪に定める」「執り成す」とありますように、裁判の用語が多く使われていることに気付かされます。そしてその法廷で裁かれるのは言うまでもなく私共です。

 私共は皆、神の前で義とされる存在か、否かが問われ、そして義とされた者は神から永遠の命に与かり、義とされなかった者は神の裁きとしての死を宣せられる、そういう厳しい判決が私共一人一人になされるわけです。



 私共は神の前に義しく生きたかどうかを詳しく調べられたら、どうでありましょうか。検事役を買って出たサタンは得意顔になって言うでしょう。「神様、見逃しては駄目ですよ。この人はあなたの目が届かない、と思いこんでいる所で、こんなことをしていますよ、こんなことを考えていますよ」。

 私共はそれらに反論することも、証人を立てることもできません。せいぜい、「私は一所懸命、信仰に生きた積もりです」、と言うのが関の山です。

 そのような私共に、裁く方である神ご自身が、私共の味方となって、「あなたの正しさを私が証言する」、と言ってくださる。パウロがここで確信を持って語っているのは、そのことなのです。

 神は私共が、罪が無いから、正しいから私共を弁護するわけではありません。私共が罪ある存在であるにも拘わらず、私共を弁護してくださる。そればかりではなく、ご自身の独り子を身代りに差し出してまで、私共の無罪を宣言してくださっているのです。

 神は私共の全てをご存じの上で、私共の味方となってくださったのですから、私共にとって恐れるものは何一つないのです。自分を訴えたり、罪ありと宣告し、刑罰を加える者は誰もいないのです。



 ヨハネによる福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、とありますように、神は私共一人一人を愛し、一人も滅びることのないように、全ての人を救われるために、神は御子イエス・キリストを私共の罪の贖いとして、十字架の死に渡されたのです。

 神が私共の味方となってくださった、その確かな証拠、事実がキリストの十字架と死と復活なのです。

 ですから、パウロは37節で、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めてい」る。私共は勝利者である。勝ち得て余りある「輝かしい勝利」者であると、パウロは確信に満ちて語っているのです。

 ここで注意したいのは、「わたしたちを愛してくださる方によって」、と言っていることです。自分の信仰によって、自分の力によって勝つのではなく、「わたしたちを愛してくださる方によって」、すなわち、キリストが輝かしい勝利を与えてくださるのです。

 私共が勝つのではなく、キリストが私共に代わって勝ってくださるのです。圧倒的な勝利はキリストによって、もたらされるのです。



 そして、38節、39節。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 私共は、ただ神の愛によって困難を免れ、危険を免れることの幸いを請い願うといった消極的な信仰者としてではなく、神が私共の味方であり、最後には輝かしい勝利が約束されているのですから、その確信に支えられて、勇気を持って、本当に守るべきものを守り、目指すべきものを目指す信仰に共々に生きて参りたい、と願う者です。

 それは自分自身との戦いであると共に、この世にある不義不正、差別や抑圧、恐怖や貧困との戦いでもあると思うのです。神の主権、御支配を否定するあらゆる勢力、悪魔的な力、そういうものと正面から向かって行く、戦って行く中で私共は本物のキリスト者とされて行くのだろうと思います。

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 2008年8月3日 
「万事を益とされる神」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙8章26−30節



 パウロは、28節で、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知ってい」ると述べております。

 私共が人生に行き詰まって、思うこと全てがうまく行かなくなる、或いは又、どうしてこんな辛いことが重なるのかという経験をする。しかし、そこで思わぬ所から道がスーッと開かれて来る経験をすることがあります。

 そうした時に、「全ての事、相働きて益となる」(文語訳)というのは、こういうことであったのか、と深い喜びと感謝をもって、この言葉を味わうことができるのです。私自身、そういう経験を幾つも持っております。



 しかし、「万事が益となる」ということを、神が万事を自分の思い通りに運んでくださる、好都合な結果になるようにしてくださる、と考えているとしたら、それはとんでもない間違いです。

 神は私共人間にとって、ドラえもんのポケットのようなものではないのです。神は、人間の思い通りになるように動かすことのできるものではありません。

 むしろ逆に、人間は神の御旨、御心に従って生きるべきだ、そこに人間の幸いな道があるということを教えているのが、キリスト教の信仰なのです。

 私共の些細な願い、欲望を越えて、それに優って万事を益としてくださる、善くしてくださる、そういうお方が神です。その神に全てを委ねて、お任せして生きる、そのことを神は私共に求めておられる、そして、その求めに応えて生きる時、全てが益となるということの深い意味が本当に分かって来ると思うのです。



 私共が信仰する神は、「全てのものをわたしたちに賜わる」(32節)神、「わたしたちのために執り成してくださる」(34節)神、そしてどんなものも「神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(39節)のです。

 ここに私共の信じる神がどういうお方であるか、実にはっきりと示されていると思うのです。

 こういう神が万事において、私共に益をもたらしてくださらない筈がありましょうか、という確信を、パウロはここで語っているのです。



 「万事が益となる」ということは、今まで述べて参りましたように、決して自分の思い通りになるということではないのです。このことは「祈り」にも当てはまると思います。

 熱心に祈れば必ず聞かれる、と信じる者が陥り易い誤りがここにもあると思うのです。祈りが聞かれると信じることが、祈る人の思い通り、計画通りに神が動くと信じることでありますならば、それは誤った祈りの姿勢だと思うのです。

 主イエスはゲツセマネの園で、苦しみ悶えながら、尚も「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22章42節)、と祈り願いました。これが私共のなすべき祈りの根本になくてはならないと思います。



 28節に「神を愛する者たち」とあります。神を信じる、神を愛するとは、神を信頼し、神に全てをお任せすることのできる心を持つことです。

 自分の思い通りになることよりも、神の知恵と計画に任せることが幸せだと考えること、それが神を信じ、神を愛するということではないでしょうか。



 人生途上で、不条理としか思えないような試練、苦難に遭っても、又、「どう祈るべきか知」らないほど心乱れることがあっても、神を愛する者を、聖霊が言葉にならないうめきを持って執り成してくださり、「万事が益となるように共に働」いてくださるという経験を、私共キリスト者は誰もが持っているのです。

 苦難を通して、神は私の人生全てに責任を持ってくださり、愛を持って配慮してくださっているお方であることを、ますます深く信じる者とさせられるのです。

 万事を益としてくださる神様のご計画を信じて、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」、と祈り、そこで示された道を歩み通す幸いに生きたいと思います。

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