シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年9月28日 
「つまずきの石、妨げの岩」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙9章30−33節



 神によって選ばれ、召されたイスラエル民族は、時に過ちを犯しましたが、その神の慈しみと恵みとを覚え、それに熱心に応えて生きて参りました。しかし、その結果はどうであったでしょうか。

 神の義を熱心に追い求めて来たイスラエルが怒りの器となり、滅びへと進み、神の義を追い求めなかった異邦人、ユダヤ人以外の人たちが憐れみの器として、救いへと招き入れられたというのです。

 なぜそのようなことになったのでしょうか。そのことが神の御旨だとしますならば、私共キリスト者にとっても大問題であるはずです。信仰を熱心に追い求めている私共が救われず、それを求めてもいない人々が救われる、そんなはずはないと私共は思います。当時のユダヤ人もまた、同じように考えていたわけです。

 そこで32節でパウロは申します。「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らは躓きの石に躓いたのです。」なぜイスラエルの人々はそうなってしまったのか。それは誰のせいでもない、信仰によってではなく、行いによって義とされようとしたからだと、パウロはここで、はっきり言うのです。



 私共はキリスト者になった時から、ファリサイ派の信仰に陥る危険と向き合わねばならなくなるのです。私共がキリスト者になるということは、キリスト者としてふさわしく生きようと決意することを意味します。

 神様の御心に適った生き方、神様に喜ばれる生き方、クリスチャンとして恥ずかしくない生き方をしようということを願いながら生きるということです。そしてそれはいつのまにか、行いによって義とされようとする生き方と容易に結びついてしまうのです。

 ここが信仰の難しい所なのです。私共キリスト者も知らず知らずの内にファリサイ派の信仰に陥る危険があるのです。

 私共は神の前にあって徹底的に罪人として存在しているのです。キリストの十字架こそが私共人間が神に背き、罪ある存在であることを表している徴(しるし)であります。十字架によって私共は悔い改めへと導かれるのです。

 自分で自分を義とする生き方を捨て、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる、そこにこそ私共の拠って立つべき信仰があるのです。



 注解書によれば、初代教会において旧約聖書からキリストを証言する証言句集のようなものがあったというのです。

 たとえばペトロの手紙1の2章6節以下に、「聖書にこう書いてあるからです。『(1)
見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、(2)シオンに(3)置く。(4)これを信じる者は、決して(5)失望することはない。』従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、『(6)つまずきの石、妨げの岩』なのです」、とあります。

 イザヤ書8.14、28.16、さらには詩編118.22,23が結合されてキリスト証言句集となったものです。石、岩はキリストを示していると見たのです。イエス・キリストこそ、すべての人間、すべての民の救いにとって、「選ばれた尊いかなめ石」なのだということです。

 パウロも、キリスト証言句集を引用し、33節で「『(1)
見よ、わたしは(2)シオンに、(6)つまずきの石、妨げの岩(3)(を)置く。(4)これを信じる者は、決して(5)失望すること(が)ない。』と書いてあるとおりです」、と記しております。



 私共にとりまして主イエス・キリストの死と復活が喜びであり、感謝であるのは、どのようにしても神の義に生きられない、罪の内に死ななければならない私共のために、神が愛する独り子を、この世に送り給うて、私共の罪の身代わりとなって十字架に死んでくださった、それによって、私共の罪が赦され、とこしえの命に生きる望みを確かなものとされたからです。

 私共は行いによってではなく、神が御子イエス・キリストにおいて成し遂げてくださった救いの業を信じる、それだけで私共が救われる、そのことを信じるが故に、その救いの道を開いてくださった十字架の主を見上げながら、私共自身の罪を深く覚えつつも、主のご復活に私共もあずかれることを信じて、とこしえの命を待ち望んでいるのです。

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 2008年9月21日 
「憐れみの器」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙9章19−29節



 ユダヤ人がキリストを受け入れない。これが神の計画の内にあったのだとすれば、いったいどうしてユダヤ人を責めることができようか。これはパウロにとってもまことに切実な問いでした。

 9章2節では「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と申しております。それは愛する自分の同胞ユダヤ民族が未だキリストの福音を拒否しているからです。

 それがあなたの御心だ、あなたの計画の内にあることだ、と言うならば、それはいったいどういうことか。そういう深刻な問いを、痛みを彼自身が持ちつつ9章から11章にかけて記しているのです。



 20節に、「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか」と申しております。

 ここでパウロは「神様に口答えするとは、何様のつもりか」と高飛車に非難しているのではなくて、自分も含めて、神と言い争わずにおれない。神様のなさりようと言うものがどうしても分からない。分からないままに、なぜ、と問わずにおれないのです。

 この世は人間の知恵では分からない、理解できないことだらけだと言ってもよいことが起きます。突然の事故に遭う。予期しないような病気に見舞われる。不条理と思えることがいろんな形をとって私共の人生に襲いかかってきます。

 誰でもそんな出来事に本当に出会ったら、神の側に不正があるのではないか、神は不公平なお方ではないか、と神に対して不満、いや怒りをさえ感じてしまうのではないでしょうか。



 22節に「怒りの器」とあります。私共を器に例えれば、その器の中に何が入っているか、怒りの心でいっぱいだと言えます。怒りがいっぱい詰まっていて、ちょっとしたことで、すぐにむかつき、キレる、それが私共であります。

 しかしここでパウロが怒りの器といっているのは神の怒りのことです。私共が怒りをもって周囲に当たり、神に不平不満をぶつける。そして神の恵みの業を受け入れないということは、神の怒りを自分自身に積み重ねているということです。

 そういう私共が滅びないで済んでいるのは神が寛大な心で耐え忍んでいてくださるからではないか、とパウロはここで言っているのです。

 さらにパウロは23節、24節で「怒りの器」として滅んで当然の私共に、神は「御自分の豊かな栄光をお示しになるために」、神の憐れみを私共の器に盛られて、私共を「憐れみの器」に変えてくださったというのです。

 この24節で注意したいのは「わたしたち」という言い方です。当時、「怒りの器」という言葉はユダヤ人にとって、異邦人にこそ当てはまる、異邦人こそが神の怒りの器であって、我々は憐れみの器であるとユダヤ人は考えていたのです。

 それに対してパウロは私共人間はすべて「怒りの器」である、いやイスラエルの民こそ神の怒りを受けるに値する器なのだ、しかしその「怒りの器」である自分が、今「憐れみの器」に変えられているのだというのです。



 パウロはここで神様に責任があるかないかということについての問いに直接答えておりません。なぜか、8章において、キリストの十字架に示された神の愛、キリストの恵み、憐れみについて語っている内に、怒りの心、責める心が消えてしまったのです。

 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(8.32)とありますように、キリストの憐れみの中で共に十字架の恵みを仰ぐこと以外に私共のなすべきことがない、パウロはそこに立ち続け、そのことを私共に語っているのです。

 私共もまた、「憐れみの器」として既に生かされている、その事実をしっかりと心にとどめて、神の憐れみがいっぱい盛られた器、あふれるばかり盛られた器として、信仰者としての生活を整え、キリストの憐れみと命の中に立ち続けたいと思います。

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 2008年9月7日 
「神の憐れみによって」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙9章14−18節



 今日は一日修養会ということで、聖餐についてご一緒に考え、学びたく思います。先程、司会者によって読まれました箇所の23節から26節にかけては聖餐式の時に必ず読まれる箇所です。

 ここでパウロは、コリント教会の人々に、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と語り、初代教会の礼拝において様式化された格調高い聖餐式の言葉を代々の教会が正しく受け継ぐべきことを教えております。

 主イエスが、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と語られた聖餐式において教会員に配られるパンは主イエスが十字架で裂かれた肉体を、葡萄酒は主イエスが流された贖いの血を意味しております。

 このことから聖餐は、先ず第一に「主の体のことをわきまえ」るということが求められているのです。主イエスが私共全ての者の罪を贖うために十字架上で死なれたことを私共は聖餐に与かる時に心に深く覚えたいと思うのです。



 この10月に行われる教団総会で紛糾することが確実視されているのが、洗礼を受けていなくてもパンと葡萄酒を取って構わないとして、これを実行している牧師に対する退任勧告問題です。洗礼を受けていなくても聖餐にあずかれるという考えの背景にあるのは、この罪の問題があると思います。

 今日の箇所の少し先、15章3節で、「キリストの十字架上で裂かれた肉、流された血、それはわたしたちの罪の救いのためであった」、とあります。これはパウロが最も大切なこととして受けたことです。これを欠落してキリストの体であるパンをいただき、キリストの血である葡萄酒にあずかっても何の意味もないのです。



 第二に「主の体」とはイエス・キリストの体のことでありまして、教会を意味します。キリストの十字架の贖いによって罪赦された者が、主にあって一つ交わりに生きる共同体として聖餐にあずかるべきことを教えられるのです。

 第三に、今も主イエス・キリストがご臨在されることを信じて、喜びと感謝をもって聖餐にあずかるのです。聖餐にあずかる時、私共は十字架につけられた主イエス・キリストを記念すると共に、復活された主が今も尚、この聖餐式の中に生きて働き給うことを信じて聖餐に与かるのです。その意味からも、洗礼を受けた者でなければ聖餐に与かる意味がないのです。

 そして第四に、26節「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」とありますように、聖餐式は主イエス・キリストが再び来られて、その救いを完成するその日を待ち望みつつ、主の救いを世に証ししながらなされるものです。



 このように私共は主の聖餐にあずかる時、主が私共に罪の赦しを得させるために、十字架において苦しみを受けられたことを深く思い、自らの罪を深く悔い改めて聖餐にあずかると共に、罪の赦しを与え、救いへ招き入れてくださった主が今も、生きて共にいてくださる恵みを感謝し、それを一人でも多くの方に宣べ伝える務めをキリストの教会が託されていることを自覚する、そういう思いをもって聖餐にあずかりたいと思います。

 そしてやがて再び来られて救いを完成される主イエス・キリストを待ち望みつつ、皆が一つ心となってなされる喜びと感謝の儀式、それが聖餐式だということです。

 ですから、聖餐が本当に私共にとって恵みの式となるかどうかは、偏に私共が真実に主にある交わりにふさわしい教会を形造り、罪赦されて救いにあずかっている恵みを喜びと感謝をもって主が再び来たり給うのを切実に待ち望みつつ主の日ごとに礼拝をし、そしてこの世に主の救いと恵みを証ししているかどうかが、厳しく問われているのだということを厳粛に受けとめたいと思うのです。

 言い方を代えて申しますならば、聖餐式を通して、私共が一回限りの洗礼によって主の体なる教会に属し、罪赦された者として信仰共同体を形成しているのだということを聖餐式の度に改めて確認する場でもあるのです。

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 2008年9月14日 
「わたしの記念として」船水牧夫牧師
コリントの信徒への手紙一11章23−29節



 私共キリスト者は、神が天地を造り、万物を支配し、そしてご自身のご計画に従って、世界の歴史を導かれるお方であることを信じております。そして私共一人一人の生活も又、神のご計画の内にあることを信じております。

 しかし、不当、不条理と思えるような災難、艱難、苦難に遭った時、人生に行き詰まり、躓くような時に、尚、そこで神の御支配というものを信じ抜くことは決して容易なことではありません。

 旧約聖書に現れたイスラエルの民の歴史は、まさにそういう歴史でした。神に愛されているヤコブの子孫の筈なのに、「神の言葉は効力を失ったのか」という問いが、イスラエルの民に生じたのです。

 今日の聖書の箇所、14節では更に進んで「神に不義があるのか」と問うております。なぜ、そう問うたのか。神のなさり方が気に入らなかったからです。「あなたの私共への愛は、私共が期待しているものではない。あなたは一体、私共をどんなふうに愛しているのか」。

 イスラエルの歴史、それは列強に囲まれ、その中で奴隷のような生活を強いられて来た、そういう歴史だったからです。どこに神の祝福が現れているというのか、むしろ逆ではないか。



 パウロにしてみれば、もっと深刻です。愛する同胞イスラエルの民が、神の計画されたイエス・キリストによる救いの御業を拒否して、あろうことかイスラエルの民が待ち望んでいた神の独り子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまったからです。

 どうしてこうなってしまったのか。神の祝福、約束は反故にされてしまったのか。神の言葉は効力を失ってしまったのか。神に不義があるのか。神は気まぐれな神なのか。ですから、パウロにしても、いったいイスラエルはどうなるのかという深刻な問いの前に立たされたのです。

 しかし、パウロは、いや決してそんなことはない。その何よりの証拠、確かな徴は、ユダヤ民族の一人として主イエスがお生まれになったこと、そして主イエスは、神がイスラエルを通して全人類に約束し給う、神の祝福、神の恵みを成就してくださったお方ではないかと、確信に満ちて語っているのです。



 イスラエルの民のみならず、私共も又、人生の中で様々な悩み、苦しみに出会い、神の御心が、ご計画が見えなくなるということがあるわけです。しかし、8章の31節以下でパウロが高らかに歌い挙げているように、現実の生活の中で、どんなことが起ころうとも、主イエス・キリストによって示された神の愛によって、最終的には私共は輝かしい勝利を収めているのです。

 私共は主イエス・キリストの十字架と死と復活に示された神の恵みと憐れみを信じる時、耐え難い苦しみ、死を望むような悩み、呻くほかない辛さの中にあっても尚、そこで生きる勇気と力を与えられているのです。

 私共は今朝、神の側に不義があるのではないか。神は不当な、気まぐれな方ではないか、そういう問いを持って学んで参りました。そしてパウロを通して、神はそういうお方ではないということを、逆に神は憐れみ、慈しみをもって、私共がどんな時にも共にいてくださり、愛し、恵みをもって導いてくださるお方だということを知らされたのです。



 本当に不義、不正なのは、不当なのは神の愛と言うべきではないでしょうか。神の私共に対する正当な怒り、裁きの代わりに、神の不当な愛だけがあるのではないでしょうか。私共が神からどのようにあしらわれても、そこには何の不当さもないのではないでしょうか。

 にも拘わらず、神は私共に恵みと憐れみ、慈しみを示し、愛を注いでくださっているのです。神の怒り、神に見捨てられても何の不正も、不当さもない。不当だとするならば、それは神の憐れみと慈しみではないでしょうか。

 この憎まれ、棄てられるべき者が、神に憐れまれる者とされ、慈しまれる者とされ、神の愛の中に置かれるとの恵みの約束を、聖書に聞くのです。溢れるばかりの恵みと憐れみを私共は主イエス・キリストの十字架と復活の出来事の中に見るのです。

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