シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年10月26日 
「信仰は聞くことから始まる」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙10章14−21節



 15節に「良い知らせを伝える者の足は何と美しいことか」(イザヤ書52章7節からの引用)、とあります。

 今はインターネットなどで地球的な規模でニュースが瞬時に伝わるようになりましたが、昔はそんなものはないわけで、伝令がその足で走って伝えたのです。イザヤは、使者が神の民に救いを知らせるために走って来る、その姿は光輝くように美しいと表現しております。

 イザヤ書ではこの喜びの知らせを、伝令に「あなたの神は王となられた」からだと叫ばせております。パウロは、この神の王としての現れを9節の「神がイエスを死者の中から復活させられた」という事実の中に見て、甦り給うた主イエスこそ「王の王」だというのです。



 「良い知らせを伝える足」とは、ここでは主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるべく神によって召され、人々に遣わされた者のことを指しております。それは伝道者に限らず、全てのキリスト者が、主の恵みと平安を分かち合う美しい伝令として、主イエスより遣わされているということです。

 パウロはキリスト教の伝道者、すなわち「良い知らせを伝える者の足」として各地を伝道して回ったのですが、彼の最大の悲しみ、心の痛みは同胞の民イスラエルが「キリストの福音」を受け入れないことでした。

 そこで18節です。「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」これは詩編19編からの引用です。

 キリストの言葉、福音は世界の果てまで響き渡っている。それなのにユダヤ人は聞こうとしない。なぜなのか。



 イザヤ書52章13節から53章の終りにかけて、「苦難の僕」と呼ばれる有名な箇所があります。この箇所をキリスト教では、キリストの苦難と死を預言したものと解釈しております。

 そこで「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」(ローマ10章16節)というイザヤの預言を主イエスの苦難と死になぞらえたのです。

 まさに、イスラエルの民は、この世に全き人としてお生まれになられ、苦しみを受け、十字架につけられ死んで葬られた、そして甦られた、あのイエスが主なるキリストであるとは認めませんでした。イスラエルのみならず全ての人にとって、このキリストの苦難と死に、私共の救いの根拠があるということ、そこに神の勝利、神の義、神の真実を見ることは真に困難なことです。

 しかし、神はそういう人々の不信仰をそしり、なじるお方ではありません。「わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った」(イザヤ書65章1節)。主の名を呼び求めることをしない民に、いや、むしろ不従順で反抗する民に、神の側から、手を差し伸べてくださって、いつも絶え間なく呼びかけてくださっている、というのです。



 イスラエルの歴史がそうでありましたように、私共一人一人の人生の歩みにも、神の恵みの御手が絶えず豊かに添えられていたことを喜び、感謝し、又、これからも神の恵みの御手があることを信じて進んで参りたい、そう願う者です。

 そのためにも、何よりも聖書に聞く、そして主の御名を呼び求める者でありたいと思います。

 同時に私共は、私共が神の福音の伝令、キリストの福音の証人として「良い知らせを伝える足」として召され、この世へと遣わされているのだということを覚えて、共に励みたいと思います。

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 2008年10月19日 
「信じる者はだれでも救われる」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙10章5−13節



 ローマの信徒への手紙は旧約聖書の引用が実に多いのです。なぜ旧約聖書からの引用が多いのか。それはパウロが「この書物(旧約聖書のことですが)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができ」(テモテへの手紙U、3章15節)る、と記しておりますように、旧約聖書は、その根本においてキリストを指し示し、キリストを証しする書物であることをパウロは確信していたからです。

 当時、イスラエルの民は、この聖書の根本を洞察し得ず、正しい認識を欠いていたために、キリストの救いを拒否してしまったのです。イスラエルの民が神の救いから洩れたのは、イスラエル自身が負うべき責任であるとパウロは9章から11章にかけて述べております。



 4節でパウロは「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」と記しております。キリストは律法を完成してくださったのです。

 ですから、「イエスは主なり」と信じる、それだけでだれもが救われる、そのことの聖書からの証明として、パウロは6節から8節にかけて申命記30章を引用しているのです。

 パウロは、申命記の言葉を引用しながら、救いを求めるのに何も天まで上る必要はない。地の底まで行く必要もない。人が信仰によって救いに導かれる道は、既に神がキリスト・イエスをこの地上にお遣わしになられたことによって、一切の準備をして下さったのだから、今から自分の手で、自分の力で、救いを得ようとするのは無益であるばかりか、誤っているというのです。



 キリストは罪人の救いのために完全に死んでくださって、死のどん底まで行かれて、私共の罪の贖いとなられて、私共を義とし、救いを完成してくださったのです。キリストが私共の身代わりとなられて、神の律法を完成してくださった、それを信じるだけで私共は救われるのです。これが福音なのです。

 ユダヤ人は救いの完成者、律法の完成者であるキリストを否定し、律法による義に固執し、キリストを否定し、信仰による義を否定したとパウロは言うのです。

 パウロはただ、口で信仰を告白し、心でキリストの復活を信じるならば、それで十分なのだと申しております。それが9節、10節です。

 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」



 この「イエスを主と信じる」信仰は、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」信仰と切り離して考えることはできません。「イエスは主である」と、「神がイエスを死者の中から復活させられた」こととは一つの信仰を言い表しているのです。

 信仰者にとって大切なことは、この信仰によって自分が生きているかどうかということです。

 律法を守り、行うことによって義とされようとする努力、それは結局は、自分の力に頼ろうとする自己中心的、自己本位な生き方です。パウロがローマの信徒への手紙全体を通して私共に明らかにしようとする信仰によって義とされる道、それは神が私共に与えてくださった恵みを無条件に受け、イエスを主と信じ、従うことです。



 11節に「聖書にも『主を信じる者は、だれでも失望することがない』と書いてあります。」私共は自分の信仰に責任を持って生きるよう召されておりながら、自分に失望する毎日の繰り返しです。

 しかし聖書は、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と約束しております。自分に愛想がつき、絶望することがあっても、尚も望みをもって生きることができる者とされているのです。

 「イエスは主である」との告白を大胆に為し、主は私共の救い主であるとの賛美の歌をもって、失望に終わることのない主の恵みに生かされて日々過ごしたく願う者です。

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 2008年10月5日 
「自分の義ではなく、神の義を」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙10章1−4節



 今朝の箇所の2節で、パウロは「彼らが熱心に神に仕えている」、その点については証言できると言います。実際、彼らの生活、文化、すべてが神への信仰と切り離し難く結びつき、モーセの律法はイスラエルの民の中心に置かれ、信仰と生活の規範となっておりました。

 しかし、彼らの熱心さは、「正しい認識」に基づく熱心さではないというのです。「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(3節)。

 パウロがイスラエルの人々に深い悲しみと痛みをもって指摘したのは彼らが「神の義を知らず、自分の義を求め」、「神の義に従わない」事実でした。



 パウロは、十字架の恵みの光に照らされて初めて律法による自分の義を追い求めていた自分の誤りに気付いたのです。神の義を自分は求めていたかも知れない、しかしそれが神を神として崇めるためではなくて、自分が自分の力を誇るため、自分で自分を義とすること、それのみに熱心であったことに気付いたのです。

 人間の義がキリストの十字架によって徹底的に滅ぼされ、そこに神の義が立てられた、信仰の中心問題がここにあります。人はキリストの十字架を知る前までは、自分の義によって神の救いにあずかろうとし、ひたすら自分を義なる者とするために努力しておりました。

 しかしキリストの十字架によって、私共は、神の前に愚かな自己主張、自己義認をする必要もなく、否、むしろそういう営みこそが人間の罪深さの現われなのだということをキリストの十字架によって知らされたのです。

 キリストを信じる者は最早、自分の義を立てようとする愚かな業を捨て、神によって義とされる、すなわちイエスを主であると告白し、キリストの十字架が私共の罪のためであったことを告白する時、私共は本当に深い知識、「正しい認識」を持つことができ、また、神に服従する者へと変えられて行くのです。



 この手紙の3章25、26節に「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあります。パウロが、この手紙において明らかにしようとしたことは、まさにこのことに尽きると思います。

 イスラエルの人々は自らを義としようとするあまり、神自らが義となり給うたことに全く気付きませんでした。「キリストは律法の目標」であると、4節に記されております。

 人間の義が終わりを告げ、神の義が打ち立てられたということです。キリストが律法を完成してくださったということです。

 人間は神の前で愚かな自己主張、あれをしなければ、これをしなければ救われないと律法に振り回される必要が全く無くなったのです。なぜならキリストが十字架上で人間の罪を徹底的に滅ぼし尽くされ、神の前にあってすべての人間が義とされたからです。

 人間が神の前で義とされるのは、救われるのは、ただキリストが十字架上で死なれた贖いの故であって、そこには何の条件もないのです。

 主イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子らが、(人間がという意味です)犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(マルコ3章28節)。

 この主イエスの無条件の赦し、それを私共が感謝して受け入れる。それが信仰ということなのです。「信仰義認」ということなのです。



 4節に「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」、とあります。

 「信じる者すべてに義をもたらすために」とありますように、罪の内を歩むほかない私共を、そのあるがままの姿のままで無償で私共を赦し、義と認めて、救ってくださる、その徴がキリストの十字架による贖いなのです。

 キリストを信じる者すべてが、自分の義を立てる努力を捨てて、神によって義とされる、神の恵みによって生きられる者となった、それを知ることが「正しい認識」ということであり、それがキリスト教信仰なのです。

 人の義ではなくて、十字架に示された神の義を、無償の赦しを信じ、それに応えて生きる者でありたいと思います。

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