シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2008年11月30日 
「神の救済計画」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙11章33−36節



 パウロは自分の愛する同胞ユダヤ人が神の救いの恵み、「秘められた計画」を見失って神の福音を拒否し、神に反逆する民となっていることへの深い嘆き、心の痛みをもって9章から書き綴って来ました。

 しかし、たとえ神の民イスラエルが、神への不信、背信に生き続けたとしても、神は尚も憐れみと恵みをもってイスラエルを救おうとされておられることを知って、33節で「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか」と記し、ユダヤ人問題を論じつつ、ユダヤ人を含めた全人類に対する神の救いの業に讃美の告白をもって結論としているのです。



 ここでの「神の富」とは、神の恵みの豊かさ、憐れみの深さを意味します。私共がどのように神に逆らい、神の御心を悲しませても、そのような私共を憐れみ、恵みをもって救って下さる、その豊かさ、深さをパウロは賛美します。そして救いを全うし給う「神の知恵」の深さ、神の「秘められた計画」を賛美します。

 さらに「神の知識」の深さ、これは神が何でもご存じであられるという以上に、神が私共の苦しみ、悲しみ、絶望を知っておられ、そのような私共一人一人を心にかけ、愛し、それぞれにふさわしい道を備えていて下さっていることを賛美します。

 パウロは、「神の富と知恵と知識」の深さは到底人間の及ぶところではない。だから思い上がってはいけない。神は私共を愛し、憐れみ、恵みを豊かにくださって、私共を救いへと導き給うお方なのだ。私共の罪、背信にもかかわらず、神は救いの計画を全うされるお方なのだ。そうパウロは私共に告げているのです。

 私共はただ、神の愛、憐れみに感謝と賛美をもって応えるほかない。それがパウロが、そしてそれは同時に、聖書全体が私共に告げている結論だと思います。



 34節に「だれが主の相談相手であっただろうか」とあります。私共は神の相談相手になれる筈もないことは言うまでもないことです。しかし、キリストを通して私共は神との交わりを許され、あるがままの私を神は受容してくださっているのです。

 神との出会いを通して自分の存在を、そのまままるごと神に受け入れられたという経験を、自分の人生において持つということは、複雑な人間関係の中で生きている現代社会の中にあって、何と幸いなことかと思うのです。

 神がこのような罪深い私を愛し、受け入れてくださったことを知っている者は、他者の言葉を心を込めて聴き、他者を理解しようとする真摯な姿勢を持ち得ると信じます。なぜなら、他者を真実に受容できるのは、だれかに自らを受容された経験があって初めて可能となるからです。



 35節に「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」、とあります。私共が神から与えられる恵み、祝福、それは人間の側からまず神に何かを差し上げたから、その報いとして戴いたというようなものではないのです。全く一方的な神の側からの恵み、祝福なのです。

 私共人間は神の前に全く無力な者、それどころか自分勝手な生き方をして、神の御心を悲しませることしかできないような者です。そのような者であるにもかかわらず、神は御子をこの世にお遣わしになり給う程に私共を愛してくださり、いつも共にいてくださるインマヌエルの神であるという驚くべき福音を聞かされているのです。



 36節に、「全てのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」とあります。これは神が一切を支配し、神によって全てのものが生き、存在しているということです。神こそは全ての全てであり、神によって初めて、あらゆるものが意味を持つようになるという信仰です。

 ユダヤ人の救いの問題を論じながらパウロは全人類に対する神の救いの奥義に目を開かされて、ただ神を賛美、礼拝するほかありませんでした。私共もまた、パウロのように自分の全存在を持って、「神の富と知恵と知識」を賛美し、自分の弱さと戦いながらも、神に栄光を帰すべく仕えて参りたいと思います。

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 2008年11月23日 
「神の賜物と招き」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙11章25−32節



 パウロは冒頭で、ローマ教会の中の異邦人キリスト者に、「兄弟たち」と呼びかけて、あなたたちに「ぜひ知ってもらいたい」のは「秘められた計画」だ、というのです。

 この「秘められた」(ミュステリオン)という言葉はミュオーという口や耳を閉じるという意味の言葉から来ていて、そこから秘密にする、奥義という意味になったようです。

 パウロはしかし、ここで見てはいけないとか、語ってはならないというのではなくて、むしろ反対にその「秘められた計画」は「ぜひ知ってもらいたい」、大いに明らかにし、語らなければならないというのです。なぜなら、「秘められた計画」とはキリストによる救いのことだからです。



 全ての人にこのキリストの救いについて知ってほしい、それがパウロの心からの願いでした。神の秘められた救いの計画、救いの奥義を前にして人間は自らの知恵や知識に頼らず、ただ沈黙して、神の奥義に耳を傾けなさい。信じてこれを受け入れなさい。そうパウロはここで勧めているのです。

 パウロはローマの教会の人たちに、あなたたちはイエスを十字架につけて殺してしまったようなユダヤ人は神の救いから洩れ、代わりに自分たち異邦人が神の救いの奥義に与かっているのだ、そう考えているかも知れないが、決してそういうことではない。

 
「神の賜物と招きとは取り消されない」(29節)とあるように、ユダヤ人が神の救いの選びから洩れたわけではない。イスラエルの不信、背信にもかかわらず、神はユダヤの民を尚も愛しておられるのだ。神の恵みと祝福は変わらずに注がれている。そのことをパウロは確信をもって断言するのです。

 私共も又、神の憐れみと愛に確信を持ち続けたいと思います。神の恵みと選びが、私共人間の目には失われ、見放されたと思える時があったとしても、神は私共を決してお見捨てになってはおられない。たとえ私共が神を見捨て、教会から離れたつもりになっていても、神はそのような私共をも決して見捨てることなく捉えていてくださっているということです。



 32節前半に「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められました」とあります。神によって創造され、神に従って生きるべく造られた人間が、あたかも神が存在していないかのように考え、生きること、それが不従順ということの意味です。それを聖書では罪というのです。

 神に対する不従順、その罪の結果としての死を私共誰一人免れることはできない。そこに私共は閉じ込められているのです。

 このように私共全ての者が神の怒りの下にあり、全く神の憐れみに値しないにもかかわらず、神は私共人類を愛し、御子イエス・キリストをこの世に遣わされて、その御子を十字架におつけになって私共の罪を赦し、永遠の命に与れる者としてくださった。これが「秘められた神のご計画」であったのです。



 神が私共にキリストを通して示してくださった十字架の救いによる神の憐れみを信じるということ。私共が神に対する不従順、すなわち罪の中に閉じ込められて生きている者であることを認め、そこから救い出してくださった神の恵みの業、すなわち神が御子イエス・キリストを、この世にお遣わしになられ、私共の罪の贖いのために十字架につけて、罪と死に閉じ込められていた私共を救ってくださったという神の福音を感謝をもって受け入れる。

 そこに神への不従順さ、罪の中に生きる私共が救われる道があるのです。

 主イエス・キリストの死よりの復活を通して明らかにされた罪の赦しの福音に全てをお委ねして生きる者でありたいと思います。そこに信仰に生きる者の喜びがあるのです。

 まもなくその主のご降誕を喜び祝うクリスマスがやって参ります。良い備えをもってクリスマスを待ち望みたいと思います。

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 2008年11月16日 
「神の慈愛と峻厳」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙11章11−24節



 パウロは11節でユダヤ人がキリストの福音を拒否したことで、福音は異邦人に伝えられ、その結果、異邦人が救われることになった。そのようにしてキリストの福音は全世界へと広がって行くこととなった、そこに神様の深いご計画があったのだというのです。

 そして、私パウロは異邦人に福音を伝えるための使徒となったが、福音が異邦人に広まることによってユダヤ人が妬んで、結果として彼らがキリストの福音を受け入れ、救われることを願っているというのです。

 パウロが今、手紙を書き綴っているローマの教会にもユダヤ人はいたでありましょう。ユダヤ人がキリストの福音を拒否し、異邦人が救われている、そのことの故にユダヤ人が差別され、軽んじられることのないようパウロは、ここで注意を促しております。

 ローマの人たち、即ち異邦人を指して「野生のオリーブであるあなた」(17節)と敢えて記し、大切に手入れがなされている栽培されたオリーブではなく、何処かの痩せこけた地で自生しているオリーブの木が異邦人だと言い切っているのです。



 神はユダヤ民族を特に選ばれてこれを養って来られた。しかしローマの人であるあなたは違う。野生のものであったのだ。それが神の救いのご計画によって神の民イスラエルという木に接がれたのだ。

 神の民イスラエルの不信仰にも拘わらず、脈々と流れていた神の恵み、救いの恵み、その養分にあなたがた異邦人も与かり、そこに生きているのだ、イスラエルという神の民に接がれて、あなたがたも救われるとするならば、あなたがた異邦人はユダヤ人に対して差別や優越感を持つことは決して出来ない筈だ、そうパウロはここで異邦人であるローマ人キリスト者に接ぎ木の例えを用いて戒めているのです。

 20節で「その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています」、とあります。ユダヤ人は信仰が無かったから、神の救いから切り離されてしまったが、あなたがた異邦人は信仰にしっかり立っているから接がれたのだ。

 アブラハムが「神を信じ、その信仰によって義と認められた」、その根にあなたも接がれ、信仰という養分に与かっているのだ、とすればそれはただ神の憐れみ、恵み、慈しみによって救いに入れられたということであるから、何も誇ることはない。高ぶってはならない。むしろ恐れ畏むべきではないか、というのです。



 私共が教会に繋がり、キリスト者とされているのは神の全き慈しみ、恵みによるのでありまして、私共に何らかの資格や値打ちがあるからではないのです。

 私共キリスト者がもし、自分たちが教会に属し、新しいイスラエル、神の民とされているのは私共の宗教心や熱心さ、真面目さ、敬虔さの故だと思うならば、それはイスラエルと同じ運命、折り取られて捨てられてしまうということになってしまうのです。

 キリスト者にとってその信仰の唯一の土台、それは神がイエス・キリストに於いて示して下さった私共への愛を信じるということです。イエス・キリストの十字架に明らかに示された私共の罪を悔い改めて、神の前に額ずく、そしてその神の憐れみと恵みに応えて生きる、そこに信仰者の歩むべき道があるのです。

 「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(20節後半)。神に対する敬虔な恐れをもって、自分の信仰が、ただ神の恵みによってのみ立っているということを弁える、そこにキリスト者の立つべき、生きるべき道があると思うのです。

 神が神であるということを真実なものとし、畏れ敬うということです。神の「慈しみと厳しさ」(22節)を真実に受け止め、畏れを持って礼拝に与かる。真剣に神の前に出る。聖書の言葉に謙遜に耳を傾ける。そういう真実の礼拝のなされる所に新しいイスラエルとしての神の教会が存在すると思うのです。

 私共も又、新しいイスラエルとしての神の教会に属する者にふさわしく「神の慈愛と峻厳」を心にしっかり留めながら、日々の歩みを重ねて参りたいと思います。

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 2008年11月9日 
「恵みによって選ばれた者」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙11章1−10節



 パウロは今日の箇所の冒頭で、イスラエルの民に与えられた救いの約束は、その民の不従順と反抗にもかかわらず変わることがない。神は決して我が同胞をお見捨てにはならない。

 その何よりの証拠は、私パウロもイスラエルの民であって、しかもこの私は、かつてキリスト者への迫害の先頭に立っていたのに、神の憐れみによって救われている。どうして神がイスラエルをお見捨てになるということがあるだろうか。パウロは我が身をもって証ししているのです。

 私共はどうでしょうか。神はこの愛する祖国日本を決してお見捨てにはならない。この私が救われている。それが神がこの国をお見捨てにならない証拠だと信じているだろうか。そのことがここで問われている思いがするのです。



 パウロは2節以下で、預言者エリヤは王妃イゼベルの追跡を逃れて一人ホレブの山に登り、そこで神の声を聞いたという列王記上19章を引用します。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」そう神に問われた時、エリヤは「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そしてわたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています」(3節)。

 それに対する神の答えはエリヤにとって全く予想外の答えでした。「しかし、神は彼に何と告げているか。『わたしは、バアルにひざまずかなかった7千人を自分のために残しておいた』と告げておられます」(4節)。

 神は7千人を神の民として残しておいたというのです。神はイスラエルを決してお見捨てにはなってはおられない。これはエリヤにとって何よりの励ましとなっただけではなく、自分一人だけで戦っているかのようにして肩を怒らせ、気負っていた彼の思い上がりを粉砕する言葉でもありました。

 エリヤは神の恵みと憐れみを信頼していなかった自らの不信仰を恥じたのです。エリヤの想像も及ばない神の恵みの御業が豊かに、確かに働いている。これはエリヤにとりまして驚くべき事実であったばかりではなく、パウロ自身もこの言葉に深く感じる所があったと思います。



 殆ど全ての同胞がキリストを拒否しつつある悲痛な現実を直視しながらも、キリストの御許にイスラエルの中から召し出された者が、決して自分一人ではないことを堅く信じることが出来たのです。

 かつてエリヤが完全に孤独であると信じていた時ですら、神は7千人もの信仰の勇者を残しておいたではないか。ましておや、キリストの福音がこのように多くの人々の魂を捕らえつつある今、神の救いの御業からイスラエルが脱落するなどということは到底あり得ない。神は決してイスラエルを見捨て給う筈がない。それがパウロの思いでした。



 そのことは今日の信仰者にとっても同じことがいえると思います。私共はこの世にあっては少数者でしかありません。しかし、私共の信仰生活は孤独ではない、孤立してはいません。神によって残された者の集まりであるキリストの教会に属しているからです。

 5節、「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」まさに、これは私共の教会のことです。吹けば飛ぶような小さな教会です。私共には何の力もありません。皆弱く小さな一人一人です。何も誇ることはありません。しかし、私共は神の恵みによって選ばれて残された一人一人なのです。

 そして私共は私共の力、行いによってではなく、ただ神の恵みによって選ばれ救われた者であることを知っております。私共の信仰そのものが神の恵みによってのみ支えられているのです。

 自分には何ら誇るものはない。誇り得るものがあるとすれば、それはただ、キリストの十字架だけです。誇るものはただ、キリストの恵みのみ、頼りにするものは神の憐れみと赦しのみです。



 パウロは自らの過ぎ越し方を振り返り、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリント一15章10節)と告白しております。

 今ここで私をこうして生かしているのは、神様の恵み以外の何物でもないというのです。私共も又、そのことの証人として立てられているのです。

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 2008年11月2日 
「永遠を思い 今を生きる」西原明牧師
コへレトの言葉3章1−8節 テサロニケの信徒への手紙一4章13−14節



 コヘレトは「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と前置きをして、「生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時………」と、人生という時の流れをみつめています。そして「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」と語ります。

 「神はすべてを時宜にかなうように造り」という言葉は、口語訳聖書では「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」と訳されていました。皆さんもこの表現に馴染みをお持ちでしょう。そうです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と言う聖書の言葉が、この礼拝に集められた皆さんの顔に、皆さんの歩みに現されているのです。

 皆さんのこれまでの生涯は必ずしも、嬉しい楽しいときばかりではありません。「破壊するとき、泣くとき、嘆くとき、失うとき、憎むとき、戦いのとき」がありました。いや、今もその時の中に置かれている方もおられます。コヘレトの言うとおり、或る意味で私たち人間の業は全て空しいのです。しかしその空しいちっぽけな私たちに、神さまは「永遠を思う心」を与えられるとコヘレトは言います。



 永遠を思う心とは、その小さい空しい自己が大きい神の世界に結びついて生かされているという事に気づく心のことです。それはまた、過去から将来へと続く時の流れのどの一瞬も神の恵みのまなざしのもとに在るのだ、と言うことに気づかされる心のことです。

 「永遠を思う心」で世界や自分を見るとき、世界の喜びも悲しさも、明るさも暗さも、全部がありのままに本当の姿を現してきます。そして人間の眼には破壊的で絶望と見えることの中でも、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」という信仰に導かれます。もう一度言います。あなたがたもいまここで、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」と言う信仰を告白して生き抜いているのです。



 この美しさが本当に分かってきたコヘレトは、「わたしは知った、人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ、人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。」と人生の秘訣を語ります。2:24以下にもよく似た言葉があります。「最も良いのは、飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ」。

 しかし皆さん、飲み食いが最も良いといわれると、一寸戸惑いませんか? 私はこの言葉を受け入れるのに随分年月が必要でした。

 受け入れるきっかけは、7年前の手術の時、前後15日ほど食事を一切口にできなかったそのあと、おもゆを初めて口にして、ああおいしいと、生かされていることを感謝したときでした。私より少し早くおもゆを食べることができた隣の患者さんは、こんなもの食えるか!と言ってました。「しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。」私は永遠を思う心を与えられれている事を感謝しました。飲み食いは生きる事、生かされていることの具体的なしるしです。



 イエス様は「飲み食い」を大切にされた方ですね。「日用の糧を今日も与え給え」と祈り、罪人扱いをされて社会から冷たい目で観られている人々と一緒に食事をし、4000人、5000人の人々と共にパンと魚を食べ、最後に、弟子たちとパンをさきぶどうの汁を飲まれました。そして、イエス様は食事を共にしながら、復活と永遠の命につながる本当の食べ物について教えてくださいました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:54)。私たちも、日常の食事を通して、命のパン、主イエスにつながる永遠の命を思う事を許されます。



 今日の永眠者記念礼拝を、今ここで生きている私たち自身の生涯の上に注がれる神の恵みを思い感謝することで進めてきました。最初に私は、「ここに集められた皆さんの生涯が、『神のなされることは皆その時にかなって美しい』と語っている」と申しました。先だって天に召された先輩信徒がた、ご家族の生涯もまた、同じように、その人生の一駒一駒を通して『神のなされることは皆その時にかなって美しい』と語り、現しているのです。

 皆さん方の中には、ご両親、ご家族がイエス・キリストに出会うチャンスがないまま亡くなられた方々がおられます。いや、日本では、祖父母、曾祖父母と少しさかのぼれば皆そういうことになります。神さまはそういう人々を用いて私たちをキリストの救いへと導く準備をしてくださったのです。私たちはそういう人々から、神仏を敬う心と、他人への親切な心、勤勉な国民性などを教えられ育てられました。あなたのご両親の影響があってこそ、あなたが今ここで、シロアム教会の礼拝に参加し神さまを讃美しているのだと、いえないでしょうか。

 同じ問題を持っていたテサロニケの信徒たちにパウロは申します。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(テサロニケT、4:13−14)



 私がベルギーで観たお祭りのパレードでは、キリストに会って洗礼を受ける機会がなかった旧約聖書時代の人々が陰府の力を撃ち砕いたキリストに解放され、アダム・エバを先頭に、アブラハム、ダビデ、等々、最後はバプテスマのヨハネが、救われた者たちの行進に参加し、そして、その後ろの車の上に最後の晩餐の光景が再現されます。これらの一人一人が、それぞれの人生を通して、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」と語っているのです。

 天に召された家族や先輩信徒たちが天の食卓に招かれていることを想いながら、このあとの聖餐式にあずかりましょう。

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