シロアム教会 礼拝説教要旨集
2008年12月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2008年12月28日 
「与えられた恵みによって」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙12章3−8節



 パウロは今朝の箇所の冒頭で、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」(3節)と記しております。自分は神から恵みを与えられ、あなたがたに神の福音を告げ知らせる使徒として立てられているのですから、私の語る言葉を「神の言葉」として聞いてほしい、そういう願いというものが、この「言います」という一語に込められているのです。

 このパウロの願いは、今日、教会に仕え、説教を語る者の共通した願いでもあります。

 しかし、自分の考え、思想・神学を語るのではなく、「神の言葉」を語る、これは実に困難な課題です。それを避けるために、「自分を過大に評価してはなりません」というパウロの忠告は、特に説教を語る者が、常に自戒の言葉として聞かなければならないと思います。

 パウロはそれに続けて、「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と語ります。



 ギリシア哲学にとって「慎み深い」こと、節度ある自制心というのは、大変重んじられた徳目でした。ギリシア哲学では、それは訓練によって達成されると考え、その努力が勧められました。しかしパウロは、「神が各自に分け与えてくださった」賜物に目を向けなさい、というのです。

 もし仮に自分の持っている才能、能力が自然に与えられたもの、あるいは自分の努力によって勝ち取られたものだと、自分で思っているならば、節度のある思いを持ち、謙遜になるということは非常に困難なことだと思います。

 しかしながら、自分の才能、能力が、ただ、神の憐れみと恵みによってのみ得られたものであるということを本当に深く知ることができますならば、そこにおいて神に対する感謝こそ湧き溢れることはあっても、傲慢な思いに陥ることはあり得ないと思うのです。

 私共一人一人が神から与えられた賜物を頂いているのですから、思い上がることもなく、卑屈になることもなく、ただ、神の憐れみと恵みによって生かされていることを喜び、感謝をもって仕えて生きなさい。そこにキリストを信じる者の生くべき道が開かれているということをパウロはここで私共に告げているのです。



 パウロは、「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」(5−6節)、その賜物に応じて預言をしなさい、奉仕をしなさい、と勧めております。

 私共は自分に与えられた賜物を他の人と比較して傲慢になったり、卑屈になったりせずに、何よりもそれらを与えてくださった神の恵みを覚え、その賜物を、ここでは特にキリストの教会に属する一人一人ということが言われているわけですから、教会共同体に属する一つ体の部分として、器官として、神から各々が与えられた恵みの賜物を惜しむことなく、熱心に、そして快く差し出し、互いに補い合い、助け合って、一つ体なる教会を形造って行く、その中で個人個人の信仰も又、成長して行くと思うのです。



 皆さんが神から与えられている恵みの賜物をさらに用いてキリストの体なる教会に仕えて頂きたい、又、そのために私自身もなおいっそう励まなければ、新しい年を前に、その思いを深くしております。

 このシロアム教会も又、恵みに生きている者の集団として、それぞれが分に応じた働きに、さらに励み、共々に前進させられて参りたい、そう願う者です。

 新しい年を迎えるに当たって、思いを新たにして、それぞれの賜物を活かし合って教会に仕え、心を一つにしてキリストの体なる教会を共に担い、共々に成長させられ、又、教会の前進と成長を見ることのできる一年でありたいと願う者です。そこに聖霊の働きが豊かにあることを信じるものです。

目次に戻るページトップ
 2008年12月21日 
「希望にあふれて」船水牧夫牧師
マタイによる福音書2章1−12節



 主イエス・キリストのご降誕の喜びから最も遠い所にいると思われていた異邦の民、それも「占星術の学者たち」が星を頼りにはるばる訪ねて来て、飼い葉桶に寝かせられている生まれたばかりの主イエスの、最初の礼拝者となったことをマタイ福音書は記しております。

 2節を見ますと「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」とあります。彼らはユダヤの地に王となる方が生まれるという星を発見した、それを確かめに千数百キロの旅をして来たというのです。

 占星術の学者たちは主イエスの下に、星に導かれて訪れましたが、私共もそれぞれの置かれた場でベツレヘムの星を見いだし、救い主の下へと導かれたと言えるのではないでしょうか。



 イエスが誕生したころ、ローマの属国となっていたユダヤは、異邦人であるイドマヤ人ヘロデがローマ皇帝アウグストゥスに取り入って王となっていました。ヘロデ王はローマ皇帝の権威を笠に着て、過酷な政策をユダヤに強いたために、ユダヤは塗炭の苦しみにあえいでおりました。又、この王は非常に猜疑心の強い王でしたから、誰彼容赦なく、自分の地位を脅かす者を殺しました。妻も子供二人もその犠牲となりました。

 ですから占星術の学者たちがエルサレムでヘロデ王に、ユダヤの王が誕生したことを告げた時、ヘロデは何としてもその子を殺そうとしました。そして実際、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節後半)のです。

 まさに地獄絵図のような大虐殺の中で最初のクリスマスがあったのです。こうした暗闇のような時代状況の中で、クリスマスの星は輝き、人類の救い主が誕生したのです。



 本来ならば、メシア、救い主を待ち望んでいたユダヤ人こそが、この星を見るべきでした。しかし、この星は救いから最も遠いと思われていた異邦人、しかも占星術の学者という偶像礼拝者で運命論者の上に輝いたのです。

 人間の眼からは神の救いから最も遠いと思われている者も、神の救いから洩れることはない、そこにクリスマスの本当の喜びがあることを覚えたいと思います。

 この学者たちはさまざまな困難、傷を負いながら星に導かれての旅であったと思います。しかし歩み通すことにおいて、まことの救いに到達したのです。

 私共の信仰生活も又、信じさせまいとするあらゆる誘惑と戦い、この世の生活へと巧妙に引き戻そうとするサタンの誘いを振り払って、信仰の生涯を歩み通す時、その途上で受けた傷口が深い慰めへと変えられていることに気付かされるのではないでしょうか。

 主イエス・キリストの十字架の傷と一つにせられたことの尊さ、栄光を味わうことが許されるのではないでしょうか。



 学者たちは救い主を示す星と出会い、その星に導かれて歩き続け、ついにベツレヘムにおいて救い主イエス・キリストをひれ伏して拝んだのです。そしてヘロデ王の所に寄らず、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)のです。まことの王の王、救い主と出会った彼らは、この世の権威に従うより、まことの権威である神に従うべきことを悟ったからなのです。

 彼らを導いた星が「まことの希望の星」であることを知った彼らは喜びに溢れて、今までの自分たちの生き方とは全く別の新しい道を見いだし、自分たちの国へ希望に満たされて帰って行ったのです。



 私共、自分自身の人生の中でいろんな問題にぶつかり、さまざまな挫折を体験し、絶望的な思いに捕らわれることがあります。しかしクリスマスのこの日、今一度、クリスマスの星を仰ぎ、そこに示された救いの御業を心に深く留め、私共の救い主イエス・キリストに従う決意を新たにしたいと思います。

 私共の前にはさまざまな困難や苦しみ、誘惑があります。人間関係を乱すサタンの働きがあります。そうした力に抵抗して、新しい道を通ってそれぞれの生活の場、家庭へ、職場へ、学校へ、地域へ、主にある希望を持って力強く、歩み出して行きたい、そういう決意を、このクリスマスにお互いしたいと思うのです。

目次に戻るページトップ
 2008年12月14日 
「心を新たにして」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙12章2節



 2節に「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」とあります。私共人間は罪に捕らえられ、死の滅びへと向かう者として、この世に生きております。

 パウロが「この世に倣うな」というのは、その罪と死に括られた古い世に属する人生ではなく、神の恵みと祝福に、神の愛に支配されて生きる生き方が既に主イエスキリストによって新しく開かれたのだから、そこに生きなさい、ということなのです。

 私共は主イエス・キリストの十字架と復活によって、全く新しく造り変えられた生き方というものを知らされ、そのように生きるべく召されているのです。

 コリントの信徒への手紙二の5章17節でパウロはこう申しております。「だからキリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 パウロは、私共が主イエス・キリストの十字架と復活によって、全く新しく造り変えられたのであるから、古い世にとどまるな、この世に同化し、この世に順応した生き方ではなく、キリストによって新しくされた世に、新たに造り変えられた者にふさわしい生き方をしなさい、と勧めているのです。



 ヨハネの手紙一の2章17節にありますように、「世も世にある欲も、過ぎ去って行」くのでありますから、そういうものに引きずられていては自分の体を聖なる供え物として献げる生活をすることはできません。

 神の憐れみと神の恵みによって捉えられている者にふさわしく、自分の全てを神に献げて生きることが私共キリスト者に求められているのです。

 私共はこの世の論理や生き方との対決、自分自身との戦いをしなければならないのです。そこに妥協の余地はないということです。そしてそれが私共の「なすべき礼拝」なのです。



 どのようにして私共は「何が神の御心であるか,何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにな」るのでしょうか。

 先ず第一に、自分がこの世と妥協し、この世に倣う者であることを神の前で率直に認め、悔い改めることです。第二に、聖書をよく読み、神の御心が何であるのかを聖書から聞くことに努めることです。

 第三に、そのために祈ることです。「絶えず祈りなさい」(テサロニケの信徒への手紙5章17節)とパウロが申しておりますように、祈る生活、日々の生活の中で神の御心が何であるのかを尋ね求め、そして神の御心がなりますようにと祈ること、何よりも自らを新しく造り変えていただくようにと祈ること、それが大切だと思います。

 最後に、第四番目ですが、パウロはここで「あなたがた」と、教会に生きる者に呼びかけ、勧めております。一人では到底、神の御心が何であるかをわきまえ、神の御旨に叶った生き方はできないと思います。

 教会から離れ、信仰を失ってしまうことのないように、互いに祈り合う、支え合うことの大切さを思います。



 私共が毎週、ここで礼拝を献げているのは、私共の日常生活が神の祝福、恵みの下にあることを喜び、感謝し、神に自分を献げて生きるべく召された者であることをお互いに確認するためです。

 そして一週間の間に犯した罪を懺悔し、神の赦しと恵みを受け、心を新たにして、新しい一週への旅へと旅立つ場、それが日曜日ごとの礼拝なのです。

 私共は、この世と妥協するな、この世に倣うな、と神から求められております。しかしそれが本当に難しいことであることに絶望して、信仰を捨ててしまうのではなく、そういう私共のためにこそ、主イエス・キリストがこの世に来られ、死んで甦り給うた、そしてそれによって主イエスに従って生きる新しい道が開かれたということを、心の底から喜び、感謝したいと思います。

 そして、「神の憐れみ、神の慰め」が私共に豊かに注がれ、イエス・キリストが私共の傍らに立って励ましてくださる、助けてくださる、そのことを信じ、この世と安易に妥協することなく信仰生活を全うして参りたく願う者です。 

目次に戻るページトップ
 2008年12月7日 
「応答としての礼拝」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙12章1節



 私共がローマの信徒への手紙の11章までを学んで参りまして教えられましたことは、私共はただ、神の憐れみによって、キリスト・イエスを信じる信仰によって救われたのであって、あれやこれやの行いによって救われたのではない、救われるために何もする必要がないということです。キリストは私共の救いのために必要なことは全部なさってくださったのです。

 しかし、キリストを救い主と信じる信仰によって救われたその喜びと感謝は、当然、その生き方をも変えてしまうことも私共信仰者が経験している、一方の事実であることは確かなことです。

 今までは自分が世界の中心だと考えて生きてきた者が、キリストを信じるようになってからは、キリストを中心に生きる生き方をするようになるということは自然なことだと思います。

 キリストを救い主と信じる信仰によって救われた者は、何よりも礼拝を中心にした生活へと変わって行く、これも確かなことだと思います。



 パウロは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」、と申します。

 イエス・キリストは私共を罪から救うために御自分の身を、いけにえとして献げられた、そのことによって私共は救われた、そのことを信じる信仰に生きるが故に、救われた私共は、感謝の徴として自分の全存在、全生活を神に献げるように、と勧められているのです。

 神に献げて生きるということは「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」としてでなければならないのは当然です。そうでなければ献げることはできませんし、受けていただくわけには行かないと思うのです。けれども「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として自分を献げることのできる者は一人もいない筈です。

 しかし、私共はキリストの十字架上で裂かれた肉と流された血によって清められて、神に喜ばれる聖なる生きた供え物にされたのです。それ故、毎日の生活において私共の体を神様にお献げし、神様のお役に立つように用いていただく生活、それが私共キリスト者の「なすべき礼拝」だというのです。

 主イエス・キリストが自らをいけにえとして献げてくださったことによって、私共も「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として自らを献げて生きることを許され、また、そのように生きることを神から求められているのです。



 「聖なる」とは、清く正しくというモラル、道徳について言われているのではないのです。私共は確かに罪ある者、神の前にあって汚れた者です。しかし、罪ある汚れた者が、神の憐れみによって、罪から解き放たれ、「聖なる」者とされたのです。そこに私共の喜びがあり、感謝があるのです。

 そのようにして神のものとされた者が、神に全てをお委ねして生きて行く、それが「礼拝の生活」となるのは自然なことだと思うのです。

 パウロは、私共が「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」としての礼拝をなし得るのは、「神の憐れみ」によってだ、というのです。パウロがローマの信徒への手紙で、繰り返し語って来たことは、まさにこの「神の憐れみ」のことであったと思うのです。

 罪にまみれた者を「義」とし、「聖なる」者としてくださる神の憐れみと恵み。そういう神の憐れみ、恵みの中で、私共は神のものとされて、神の前に自らを献げて生きることを許され、促されているのです。



 ですから、イエス・キリストが死に勝利して復活された日曜日ごとに私共は、神を礼拝するために、ここに集まっているのです。そして聖日ごとの礼拝に押し出されて、私共の毎日の生活が生きた供え物、「生きたいけにえ」として神への奉仕(サービス)の生活、礼拝(サービス)の生活となって行くのです。

 欠点だらけの過ち多い、罪に染まった私共ですが、それでも神の憐れみと恵みのゆえに神のものとされた者として、精一杯、自分の生活を神様にお献げして生きるならば、神様は両手を広げて、本当に喜んで受け止めてくださる、と信じます。

 そういう神様の手の中に自分の生活を置き続けて行く生活をする、それが私共キリスト者の生活というものではないでしょうか。

目次に戻るページトップ