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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2009年1月25日 
「クリスチャンの品格」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙13章11−14節



 なぜキリスト者は、この世で、キリストの福音にふさわしい生活をし、愛をもって励むべきなのか。その理由をパウロは、神の定めた救いの完成の時、終末の時がやがて来る。

 そのことを自覚しているキリスト者は、ただその救いの完成を座して待つのではなく、目を覚まして福音にふさわしい品位をもって生活すべきであると勧めているのです。

 「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく止どまる例なし」(「方丈記」鴨長明)という言葉は、今でも多くの人の共感を呼ぶのではないでしょうか。

 時間というものは、始めも終りもなく永遠に続いて行く、その滔々と流れる河のような時の流れに身を任せ、淀みに浮かんでは消える「うたかた(泡)」のようなはかない一生、それが人生だ、というのです。



 しかしキリスト教はそうは考えません。この世界は神の創造によって始まり、やがて必ず終わりがやって来る、という終末信仰に生きております。そしてその終末は世界の破滅、破局ではなく、神による創造の完成、救いの完成としての終末なのです。

 私共は主イエス・キリストの十字架と復活によって、死が死で終わるのではなく、死に勝利することを信じる信仰に生きているのです。華厳の滝に身を投じた藤村操のように、「曰く、人生、不可解」と言って、空しさの中で死を迎えるのではなく、救いの完成という確かな希望を持って、そこを目指して私共は生きているのです。

 復活され、天にあげられた主イエスが再び来られる、その「再臨」の時に備えて「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(12章1節)て生きる。それがキリスト者のこの世での生き方です。

 私共は罪と死から解き放たれて、キリストにある赦しの恵みの光の中で品位のある歩み方ができるようにされたのだから、品位を持って歩もうではないか。光の武具で身を装い、「新しい人」として、「主イエス・キリストを身にまとい」、この世の闇、不義、不正、差別、抑圧、争いと戦って生きようではないか。そうパウロは私共に勧め、励ましているのです。



 キリストを自分の「主」として身にまとい、そのまとったものに従って生きる時、欲望に振り回される生き方から訣別し、昼の光の中で、品位を持って歩む生き方、眠りから覚めた生き方ができる、とパウロはいうのです。

 そのことをパウロはコロサイの信徒への手紙では次のように述べています。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身につけ、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(3章9節後半−10節)。

 12節に「光の武具を身につけましょう」、とあります。「光の武具」とはキリストのことです。キリストを武具として身にまとい、武装せよ。それによってのみ敵、罪の力と戦うことができる、ということです。

 テサロニケの信徒への手紙一では、「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(5章8節)、とあります。

 キリストの武具に身を固めて生きる、それは信仰と愛と救いの望みを持って生きること。それが主キリストをまとったキリスト者の生き方であり、それが品位ある生き方だ、ということです。



 私共はキリストをまとう者にふさわしいとは思っておりません。しかし、私共はそのことを赦され、又、促されている。キリストをまとうことにおいて主イエスに従う者、光の武具をまとって自らの罪と戦う、この世の悪と戦う者へと変えられて行くのだと思います。

 キリストを身にまとっていることの自覚と誇りを持って品位ある者として歩もう。そう力強くパウロはここで私共に語りかけ、励ましているのです。

 品位を持って生きる者へと変えてくださった主イエス・キリストの恵みを感謝しつつ、新しく始まる一週間を共に、主イエス・キリストを身にまとい、品位を持って歩み、クリスチャンとしての品格を磨いて参りたいと思います。

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 2009年1月18日 
「愛の負債を担って」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙13章8−10節



 私共キリスト者が、一市民として政治に関わり、税金を納めるのは当然の義務である、謂わばそれは借金のようなものだ、とパウロは前節で述べています。

 天下国家のことだけではなく、私共は日常生活の中で、有形無形の貸し借りの中で暮らしていると言えます。そこでパウロは、「だれに対しても借りがあってはなりません」、借りがあるならば、それはきちんと返しなさい、というのです。

 パウロは「だれに対しても借りがあってはなりません」、に付け加えて、「互いに愛し合うことのほかは」という条件を付けております。国民は国家に対して一定の法的義務(例えば納税)を負っております。しかし、それを満たせば義務はなくなります。

 しかし、人を愛するということは法的義務ではなく宗教的、倫理的義務です。借金であれば、それは利息を付けて返せばそれでおしまいですけれども、愛というのは、例えば自分が誰かを愛する場合、ここまで愛せば十分だというような限界がないのです。

 しかも人は愛なくして生きられない存在です。お互いが愛の負債を負い合って、その愛の負債を果たし合う中で、人間社会は成り立っていると言っても良いと思います。



 律法の専門家がイエスに、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいか、と尋ねました。イエスは律法に何とあるか、と問うと「神を愛し、隣人を愛せよ」とあると律法の専門家は答えます。

 そこでイエスが「実行しなさい」と言うと、律法の専門家は「隣人とだれか」と、愛する対象を尋ねます。しかし、イエスは「善きサマリア人」の譬えを語り、「だれが隣人になったか」と問いかけます(ルカ10章25−37節)。

 愛する対象として隣人を探し求めるのではなく、自ら主体的に隣人となるべきことをイエスは求めているのです。そのようにして、イエスは愛する対象を限定せずに、国籍や民族、宗教を超えて全ての人を愛すべきことを教えたのです。

 苦しんでいる人、泣いている人と共に苦しみ、泣きなさい、その傍らに寄り添いなさい。グッドサマリタンになりなさいということをイエスは私共に教えているのです。



 当時のイスラエル社会にあっては律法を守ることが信仰の全てでした。しかし、パウロは9節で、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という4つの戒めを挙げ、これらの律法は愛によって基礎付けられ、愛によって全うされるべきものであると述べております。

 主イエスも又、愛なき律法主義の偽善、欺瞞を鋭く指摘しました。イエスと、律法の専門家やファリサイ派の人々との衝突の原因はそこにありました。

 パウロも又、律法というものは、結局は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されるというのです。そして「人を愛する者は、律法を全うしている」、完成しているというのです。



 律法は、それが法である限りにおいて神と人間の関係は非人格的なものです。法は形式的にでも、とにかくそれを守り、それから逸脱しなければよいという面をもっています。そこに法の重大な問題点があります。そこでは最低限度の秩序は保たれるかも知れませんが、それ以上のものではありません。

 それに反して愛は神と人間の関係においても、人間同士の関係においても人格的な関係です。神と人、人と人との関係を真に人格的なものにするのが愛です。愛は律法に規定されている関係を補完し、完成させるものです。

 ですからパウロは、「借りたものは返せ、しかし愛は別だ」というのです。愛の負債はいつまでたっても返し切れないものとして残る、そういう性格のものだ、ということです。



 主イエスやパウロは律法をただ機械的に否定したのではありません。しかし、律法の限界をよく知っておりました。そして律法の代わりに愛を強調したのです。律法に基づく生活ではなく、愛に基づく生活こそ大切だとしたのです。

 主イエス・キリストがその生活の全て、受難と死と復活を通して真の愛を私共に示してくださったのです。キリストの愛が律法を完成し、私共をキリストの愛の中に立たせてくださったのです。

 私共が主から命じられていることは、このキリストの恵みにお応えして、キリストが私共に身をもって示してくださった愛、その愛をもって、お互いに愛の負債を担い合って生きる生き方ではないでしょうか。

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 2009年1月11日 
「神に由来する権威」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙13章1−7節



 1節でパウロは、そもそも国家権力は神によって定められ、神の秩序として立てられている故に、全ての人はこの世の権威である国家に従わねばならないとパウロは言います。そして2節では、現在の国家権力に反抗するということは、神ご自身に対する反逆と同じであって神の裁きを免れることはできないというのです。

 更に3節では、国家権力が恐ろしいと思うのは悪事をする者のみであって、正しいことを行う人にとってはちっとも恐れる必要はないというのです。4節では、国家権力は神によって立てられたものであるから、当然それは国民にとって益をもたらすであろうといいます。

 そして国家は「剣を帯びている」、言いかえれば死刑をも含む裁判権を持ち、それを実行することによって神の怒りを執行する役割を国家が担っているというのです。

 そして5節、だからこそ国家権力に服従するのはキリスト者の良心に従っても、当然のことなのだというのです。6、7節では、神によって立てられ、その任務を遂行している国家の尊厳の故に、国家が税を徴収するのは当然だ、そして役人に対しても心からの尊敬をもって接するべきだというのです。



 これほどまでに徹底した、国家への服従の義務と、その根拠を示したパウロのこの言葉は、いつの時代にもつまずきの種となり批判の的となって参りました。実際、世の権力者たちが如何ばかりの悪逆非道によって歴史の流れを血に染めて来たかをつぶさに知っている私共に取りましては、この箇所は到底理解し難い箇所です。あまりに一面的で、楽観的な国家観だと思わざるを得ません。

 しかしパウロは国家権力無謬説や国家権力を神聖視し、国家への絶対服従を強いているわけではないと思います。むしろ「神に由来しない権威はな」い、この確信に立つからこそ、信仰の故に、良心の故に、「この世と妥協してはならない」という姿勢も生まれて来ると思うのです。



 私共はここで国家の二面性を知らなければならないと思います。一方ではパウロが言うように、国家という制度は神によって立てられたものであり、支配者は神の僕として国家に仕えている故に、私共国民は従順であるべきです。

 しかし他方において、国家権力は悪魔化することがあるということです。その場合には悪魔化した国家権力に仕えてはならないのは当然です。

 神学者カール・バルトは第二次世界大戦の時、このような悪魔化した国家をナチス・ドイツに見ました。それ故にナチズムとの闘争に身を挺したのです。ボンヘッファーはヒットラー暗殺計画に参画したという罪で死刑に処せられました。



 国家は法律を作り、それを守らせることによって国民が安心して生活できるために作られた制度です。神の正義、愛と平和がこの世で実践されるための装置として立法、行政、司法が制度として国家に備わっているということです。税金も国民全体の生活向上、教育、医療、福祉、安全のために徴収されます。

 とは言え、無条件、無批判に国民が国家に従順でなければならないということはありません。なぜなら、神の正義、愛と平和を国家がいつも体現しているとは限らないからです。国家は人間が作り、動かしている制度です。

 そこには当然誤りもあり、悪魔的な力を行使することがあるのです。戦前戦中の日本もまた、天皇を現人神として悪魔化した国家権力であったといえます。

 私共キリスト者は自分の属する国家が「神に由来しない権威」によって、悪魔化していないかどうか、そのための「見張り役」を神から託されていると思います。私共一人一人が信仰的な決断を持って一市民として、その責任を全うしたいと思います。

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 2009年1月4日 
「愛には偽りがあってはならない」
ローマの信徒への手紙12章9−21節



 先程、お読みした箇所には、「キリスト教的生活の規範」という見出しがついております。しかし、ここに記されていることを、文字通りキリスト者はこのように生きなくてはならないとするならば、私共は皆、「キリスト者失格」ということになります。

 私共はただ、神の憐れみと恵みによって、主にある望みを持って、この世に生き得る者とされている、そう思います。そのことを踏まえながら9節以下を学びたく思います。



 今日の箇所の冒頭に「愛には偽りがあってはなりません」とあります。私共キリスト者は一人一人が既に、キリスト・イエスに示された神の愛の内にしっかりと捕らえられている、その愛に生かされて、「自分の体を聖なる生けるいけにえとして献げ」る生き方に徹するならば、愛は真実なものとなる、従って私共の愛にはもう偽善の愛などはあり得ないということを先ず語っているのです。

 そのことを踏まえて、だからこう生きようではないか、具体的に記しているのが10節以下です。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」

 この10節から13節は、ギリシア語の原文では前後の文章とは独立した韻を踏んだ詩のような箇所であって、神の愛に捕らえられたキリスト者の具体的な愛の現われについての教えがあると注解書は記しております。



 初めに、「兄弟愛をもって互いに愛し」とありますが、これは「キリストに結ばれた一つの体」(5節)なのだから、互いに愛し合おう、教会において主にある交わりを建前で終わらせないようにしよう、ということです。

 そして「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。パウロは9章の後半で私共は本来、神の怒りの器でしかないにもかかわらず、神は私共を憐れみの器として召してくださり、神のご栄光を豊かに盛る器とされたと述べています。神が憐れみをもって私共を顧みてくださることを信じるからこそ、お互いに尊敬し合う関係が作られるのです。

 そして、「怠らず励み、霊に燃え」、互いに愛し合い、尊敬し合う関係を作って行くために、神の恵みの力である霊の中で、自分の火がいつも燃えているようにしていただこう。その熱い思いが「主に仕える」思いだというのです。

 「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25.40)と主イエスが語られたごとく兄弟に仕える時、私共は主に仕えているのです。



 そして「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び」、現実の苦しみ、辛さの中で尚も望みに生きることができるのは、神が必ずこれらに勝利し給うという望みを持ち、そこに喜びを見い出し、その中に生きられるからです。

 次に「たゆまず祈りなさい」とあります。私共が生きている間、どんな時にも祈りに生きる姿勢を持ちなさい、というのです。

 さらに「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」とあります。主の恵みを共に分かち合う者は同時に兄弟の貧しさ、困ったことを自分のことのように思い、それを分かち合いなさいというのです。

 そのことができるならば、その人をどれだけ励まし、生きる勇気、力を与えることかと思うのです。そして困っている者、悩む者の思いを「自分のもの」として助ける、それが当時の教会において最も具体的に現れたのが宿る所もない旅人のために宿を提供し、食べ物を提供するということでした。



 ここでパウロが語っておりますことは、単純なことです。キリストの恵みの中に生き続ける、その恵みを共に分かち合う、そういう生き方です。

 自分はクリスチャンなんだからと身構えて生きる、そんな生き方はすぐに偽善に陥ってしまいます。

 キリストの恵みの中に自分を明け渡して生きるべく、たゆまず祈り続ける生き方、そのことをパウロはここで私共に求め、勧めているように思います。

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