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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2009年2月22日 
「希望の源である神」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙15章7−13節



 教会はキリストの福音に与かり、キリストの十字架によって罪赦された者たちが生ける神を礼拝し、兄弟姉妹としての交わりに生き、福音宣教の業を進める信仰共同体としてこの世に存在しています。

 共にキリストによって救われ、受け入れられた恵みを感謝し、互いに相手を受け入れ合って、キリストに従って生きる群れ、それが教会です。それなのに教会の中で対立や裁き合いがなされているとすれば、これは重大な問題です。ローマ教会の中で対立や裁き合いが行われていることを知ったパウロは14章以下で、心を込めて勧めをしております。今日の箇所でも7節で、「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と、神の栄光を現わすために相手を受け入れ合うべきことを勧めております。

 パウロはこの箇所の少し前、14章15節では、「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」と記しております。私共一人一人がキリストの十字架の貴い贖いによって罪赦されて教会の仲間に加えられたのです。それゆえに私共が「互いに相手を受け入れ合う」のは当然のことなのです。それなのにどうして教会の中でお互いに軽んじ合ったり、裁き合いをするのか。共に神を礼拝し、神に栄光を帰すべきではないか、そうパウロは言うのです。



 今日、教会は特に、この世との具体的な関わりの中で、例えば政治や社会問題への関わりなどで、教会の中がずたずたになるという例が決して少なくないというのが実情です。ここ40年近くにわたる日本基督教団の混迷も又、その点にあったと言えると思います。特に昨年は聖餐に関する問題が顕在化し、昨年の教団総会はまさに分裂の危機の中で行われたことでした。何とか分裂の危機は回避されましたが、ただ問題が先送りされただけのことで、分裂の危機は続いております。

 パウロ自身も、初代教会が抱えていたさまざまな問題の渦中にあって、人間関係においても大変厳しいものがあったと想像されるのです。その中で頭を抱え込むような思いがあったと思うのです。そうした悩み、苦しみを覚えながらパウロは、キリストにある者としてふさわしく生きよう、互いにいがみ合い、憎しみ合って神の御心を汚さぬようにしようと、自らを励ましながら勧めている、そう思うのです。

 そして5節、6節の祈りに続いて、最後には再び神に祈らざるを得なくなるのです。それが13節です。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」教会の中にも存在する人間関係のもつれから私共が解き放たれて信仰から来るあらゆる喜びと平和に私共が満たされて生きる、そういう希望を叶えてくださるように、聖霊の力を私共にあふれさせてください、とパウロはここでうめきにも似た祈りをしているのです。



 教会はさまざまな問題を抱え込みながら、聖霊の助けをいただいて、この2千年、「希望の源である神」に祈り続けて歴史を刻んで来たといえます。そして神の忍耐と憐れみの故に、教会はこの世に存在し続け、キリストを証しし、神の御栄光を現わして来れたということを思うのです。この恵みを感謝すると共に、聖霊の助けによって、あの人、この人をも、神は信頼して用いて居給う、ということを信じる者へと変えられ、共に主にあって一つという信仰と希望、愛に生きることができる場所、それが教会なのだと思います。

 私共一人一人がこの救いのご計画に入れられて、今こうして、教会に集まっているのだということを信じ、希望にあふれて主にある交わりをなして参りたいと思います。私共がお互いにキリストによって受け入れられた者である、そこに希望の根拠を置いて、信頼し合いながら、神の御栄光をこの世に現わして参りたいと思います。

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 2009年2月15日 
「忍耐と慰めの源である神」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙15章1−6節



 1節に「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とあります。ここでパウロが言う「強い」、「強くない」の基準は、一言で言えば神様への信頼の問題です。神様に全てをお任せして生きることができるか、できないか、ということです。

 自分は弱く、無力であるけれども神様が自分といつも一緒にいてくださる、だから安心だ、怖いものはない、全ての恐れから解放されている、全てのものから自由である、そういう信仰に生きている人、そのような人が強い人だということです。神の子イエス・キリストの十字架と死と復活に現わされた神の忍耐と慰め、赦しの恵みを、喜びと感謝をもって受け入れて、全てを神様にお任せして生きることができる人、それが強い人ということになるのです。

 「もう決して罪を犯さないように」と言われる主の言葉を聞きつつ、なおも、同じ過ちを繰り返してしまう、そういう私共の弱さを、忍耐と慰めをもって担ってくださるお方にこそ、自分の全てをお委ねすることができるのではないでしょうか。

 そのお方、すなわち「忍耐と慰めの源である神」に全てをお委ねして生きる信仰、それこそがパウロのいう「強い者」ということになるのではないでしょうか。それに反し、神様の恵みに任せ切ることができず、自分の知恵や力、この世の力を頼る人は、弱い人だということになります。



 本来ならば、神の子として父なる神の栄光の中にいることができるはずのキリストが己を空しくして、人々のそしり、あざけりに耐えて、十字架上で私共の罪を担って救ってくださったのです。このキリストに倣って、私共も又、無力な者、助けを必要とする者、弱い者たちの弱さと惨めさを共に担うべきではないかと、パウロは勧めるのです。

 ですから、強い人は、「自分の満足を求める」ような自己中心的な生き方を止めて、「善を行なって隣人を喜ばせ」る生き方をすること、「互いの向上」に役立つように関わりなさい、とパウロは勧めているのです。

 人生の様々な重荷や苦しみ、悲しみを背負わずしては生きられない私共に取りまして、ただひたすら「忍耐と慰めの源である神」に祈り求め続ける中でしか本当の解決がないことをパウロは誰よりも痛切に、身に染みて知っていたと思います。

 ですから5節、6節にあるように最後には祈りとならざるを得なかったと思うのです。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」。



 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり」(フィリピ2章6、7節a)、私共を罪よりあがない出してくださったのですから、私共も又、自己本位な生き方を捨て、自分を喜ばせることを第一とせず、教会の枝としての成長を、お互いに図りつつ、仕え合い、祈り合うべきことを、ここから教えられるのです。

 「キリストに倣って互いに同じ思いを抱き、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をほめたたえ」る者の群れ、それが教会という場所です。

 私共が神をほめたたえることにおいて、そして神への祈りにおいて一つとなる時、そこに聖霊が力強く働いて私共をキリストの証し人として立たせ、主にある交わりを確かなものとされることを信じます。悔い砕けた心をもって、「忍耐と慰めの源である神」に心から依り頼む時、聖霊は私共の思いと心を清めて主にあって一つとされ、主にある交わりの喜びへと導いてくださると信じます。

 聖霊の宮として建てられたこのシロアム教会がいよいよ主の体にふさわしい教会として前進して行けますように共に励み、祈って参りたいと思います。

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 2009年2月8日 
「神の国は義と平和と喜び」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙14章13−23節



 ユダヤ人は律法に従って、どういうものを食べて良いか、いけないかということを厳格に守って来ました。ローマの教会の中にも、飲み食いの問題をきっかけとして、どちらが信仰的に正しいか、優れているかという対立にまで発展し、教会の仲間を裁き、軽蔑し合うようになってしまったのです。

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7章1節)、との主イエスの言葉を受けるかのようにしてパウロは、「もう互いに裁き合わないようにしよう」(13節)、と勧めております。

 それを踏まえた上で、互いに裁き合うことの原因となった飲み食いについて、「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14節)、とパウロの立場を明らかにしております。

 そしてパウロは、単にそれは自分の考えではない、主イエスが「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか」(マルコ7章18節)と言われておられるのだ、と食べ物にこだわる人に教えているのです。



 食べ物にしても、飲み物にしても、それ自体汚れているものは何もないのだから、食べ物にこだわらないようにしよう。しかし、だからと言って自分の判断の正しさをもって、相手を裁いて、つまずかせることはするまい。そして、「キリストはその兄弟のために死んでくださったの」(15節)だから、お互いに愛をもって共に歩もうではないか、というのです。

 自分が今、信仰を持って生きているのは、キリストが自分の罪のために十字架にお掛かりになって、死んでくださったからだ。そして自分と考えを異にするこの人も又、キリストの恵みにあずかり、キリストの尊い血によって、自分と同じように罪赦されて教会に属する者とされたのだ。

 だから、「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」(20節)と言うのです。ささいなことにこだわって教会の交わり、教会の一致を破壊するなどという愚かなことは絶対するな、兄弟をつまずかせるな、そうパウロはくどい程に呼びかけているのです。



 少し戻って、17節を見ますと、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」とあります。神がこの世界を支配しておられることが見えるのは、「義と平和と喜び」に満たされて生きているかどうか、そのことに掛かっているのだ、とパウロは言うのです。

 義は神のご支配に自分を委ねて生きる時に神によって与えられるものです。ですから、飲み食いによって義とされるのではない。飲み食いの是非で、自分を誇ったり、人を裁いたりすることは、キリストの十字架を無にしてしまうことになるのです。

 私共はただ、キリストの十字架によって、罪赦されて義とされたのです。とすればそのことを神に感謝し、謙遜な思いをもって、キリストに仕え、又、主が愛し給う全ての人に仕え、「平和や互いの向上に役立つことを追い求める」(19節)ことこそ、私共キリスト者の生き方であるはずです。



 二番目にパウロは、「神の国は平和」だと言います。これも又、十字架によってもたらされた和解による神と人間の交わりの回復、そしてそれに基づく人間同士の平和のことです。自分を誇り、他を裁く時、そこに争いと憎しみが生じるのです。

 ローマの教会の危機はそこにあったのです。教会内で起きた問題の解決を相手を裁くことによってではなく、私共の和解の主となり給うた主イエス・キリストに委ねることによって解決を図って行く者でありたいと思います。

 最後に、神の国は、喜びであると記されております。神の国は肉を喜ばせる喜びではなく、聖霊を通して与えられる喜びだということです。聖霊の働きに促されて、その力によって私共は義と平和と喜びの内にキリストに仕えるのです。

 このようにしてキリストに仕える時、18節にありますように神に喜ばれ、又、この世における証し人として、人々に受け入れられ、信頼される者となれるのではないでしょうか。

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 2009年2月1日 
「誰のために生きるのか」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙14章1−12節



 ローマ教会で起きている問題は、何を食べてもよいと信じる人々が、野菜しか食べない者を弱い人々と軽んじ、軽蔑し、逆に野菜しか食べない人々は何を食べてもよいと信じる人々を不真面目な、不敬虔な人々として裁いていた点にありました。そしてこの対立は単なる意見の相違に止まらず本当の信者であるか、否かという相手を裁き、排除する危険を孕んでいました。

 食べ物に関するパウロの立場は明確でした。イエスご自身、「すべて外から人の中に入って来るものは人を汚しえない」として、どんな食べ物でも清いとされました。しかし、パウロは肉食を避ける人々をたしなめ、その過ちを明らかにして意見の一致を計ろうとはしませんでした。むしろ、意見の相違は一応そのままに置いて、両者が共に神の救いの中にあることを確認することによって信仰的一致を守ろうとしたのです。



 こういう姿勢は団体、若しくは何かの運動をして行く場合の原則だと言えます。意見の不一致を強調していたのでは一緒にやって行けません。そうではなく一致できる点を見つけ、そこを基盤にして団体活動をする、運動して行く、これが大切なわけです。

 特にキリストの教会にあっては、教会の主人はキリストです。そしてキリストは私をも、意見を異にする彼をも受け入れてくださっています。単に主が受け入れてくださっているという理由からだけではなく、そういう人たちがどうしてそうするのか、その立場、動機についてもパウロは問題にします。

 それが6節から8節にかけての言葉です。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして神に感謝しているのです。」

 信仰の弱い者も強い者も共に主の恵みと憐れみによって救われ、キリストを頭とする教会の群れに加えられた者同士ではないか、そして皆、主のためにそうしている。それなのに、なぜ互いに裁くようなことをするのか。むしろ互いの意見の不一致より、主にあって一つとせられていることを覚えて、主に仕えるように他に仕えるべきではないか、とパウロは言うのです。



 そして私共の本当の裁き主は、主イエス・キリストのみ、その主に裁きをお委ねして生きるべきであって、私共には人を裁く資格はない。そのことを徹底的にわきまえ知るべきだと、パウロは言うのです。

 私共が主イエス・キリストの憐れみと恵みによって救いに入れられたことを感謝し、真に悔い砕けた心を持って共に礼拝をしている時に、どうして同じく主の憐れみと恵みによって教会の交わりに加えられた仲間を裁くということができるだろうか。できる筈がないではないか、イザヤ書を引用しながらパウロは説いております。

 私共は主にあって一つなのです。その地点に立って、互いに励まし合い、助け合って、共に信仰に生きる喜びを分かち合う者でありたいと願う者です。共に主にある兄弟姉妹として受け入れ、互いの弱さを担い合い、助け合って、福音の前進のために働く、そのことを私共は真剣に求めて参りたいと思います。



 私共の生きている今日の世界は多様な価値観と世界観が交錯し、激しく揺れ動いております。そのような時代の中で、大事なことは私共がどのような意見を持ち、どのような立場に立つにしても私共一人一人が主の赦しと憐れみ、恵みによって教会の群れに加えられ、そして生きるにも死ぬにも主のために生き、仕えている者だということを、お互いが認め合うことだと思います。

 お互いに相手を尊重し、愛し、徳を高め合う交わりの中で、そういう自由さの中で教会を形造って行きたいと思うのです。教会の現実が、たとえ欠け多くても、誤り多くても、御言葉を中心とした交わり、礼拝を中心とした交わりが真になされる所には、主にある一致も、伝道への情熱も生まれて来ること信じます。「我らは主にあって一つ」、この一点に全て全てを集中して教会生活を送りたいと思います。

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