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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2009年3月22日 
「善に聡く、悪に疎く」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙16章17−27節



 今日の箇所には、ローマ教会の人々への挨拶とコリント教会の人々からの挨拶に挟まれて、ローマ教会の人々に対して厳しい勧めがなされております。

 17節、「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」教会に不和やつまずきが生じるのは、「学んだ教えに反して」、すなわちキリストの福音に背くことによる、というのです。逆から言えば、教会が自らの使命をはっきりと自覚して、キリストを頭とする一致の下にキリストの福音に堅く立ち続ける限り、教会は揺らぐことがないということです。



 18節で、パウロは神の力よりは自分の力の方が頼みとなる、神よりは自分のことの方が大切だ、教会よりも自分の生活の方が大切だと考える人は、主イエス・キリストに仕えないで自分の腹に仕える者であって、そういう人がいる時に、教会の平和、一致が乱れるというのです。

 この世の力に引き戻されて、信仰から離れてしまう人について語る時、自分は涙を流して語らざるを得ない、とパウロはフィリピの信徒への手紙の中で申しております。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(3章18−19節)。

 パウロは今日の箇所でも、キリストに仕えることを止め、自分の腹を神とする人々、そういう人々に欺かれないように、と涙ながらに警告しているのです。キリストの十字架の方に顔を向けて生きることではなく、この世的な生き方の方が大切だ、と言って自分の方に信徒を引きずり込もうとする人々を警戒しなさい、そういう人々から遠ざかりなさい、と言うのです。

 彼らは「うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いている」(17節b)。「甘言と美辞」(口語訳)で純朴な人々を欺き、一つ心で神を賛美することを妨げ、イエス・キリストの十字架による罪の贖いの恵みに依り頼んで生きることを止めさせ、滅びへと向かわせる声、それはサタンの声だとパウロは言うのです。



 さらにパウロは「なおその上、善にはさとく、悪には疎くあることを望みます」(19節b)と述べております。この「疎く」という言葉をフィリピの信徒への手紙では「清い」と訳しています。2章15節以下です。「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」

 今日の世界も又、「よこしまな曲がった時代」です。政、官、財界の癒着腐敗は後を断ちませんし、悲惨な事故、陰湿な事件が次々と起こっています。さらに不況が一層深刻化し、派遣切り、リストラ、賃下げ、倒産、又、福祉切り捨て、年金問題でも、人々の間に不安や閉塞感が広がっております。



 よこしまな曲がった時代の中で「星のように輝き、命の言葉をしっかり保」ちなさい、とパウロは私共に勧めております。そのために私共に必要なのは、うまい言葉とへつらいの言葉を身につけることではなく、又、そうした言葉に惑わされることがないよう、何が信仰的に正しいことなのか、それを洞察する鋭い目を持つこと、それが「善にさとく」あるということでしょう。

 巷ではこうした閉塞状況の中で、安っぽい幸せを振り撒く人生論や、怪しげな新興宗教が跋扈しております。又、自分さえ良ければといった利己主義や、金が全てといった時代風潮があります。こういう時代だからこそ十字架の福音に堅く立って、この世にあって星のように輝く者でありたい、と思うのです。

 信仰によってのみ救われるという確信、神の栄光のために生きる、この二つがキリスト教信仰の基本です。うまい言葉とへつらいの言葉に欺かれることのないよう、お互いに「善にさとく、悪に疎く」ありたいと願い、祈る者です。

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 2009年3月15日 
「互いに挨拶を交わしなさい」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙16章1−16節



 手紙の終わりに挨拶が記されております。ここには26人の名前、更に誰々の家の人々という言葉もありますから、恐らくパウロがローマの教会で知っている限りの人の名前を挙げているのでしょう。

 パウロは最初にフェベという女性を紹介しております。パウロはコリントでこの手紙を書いているわけですが、自分はローマに行きたい、更にそこを拠点にしてイスパニアまで伝道したい、そういう願いを持ちつつも、今はエルサレムに行かなければならない、それでまず手紙だけでもと思って、ついでのことがあったかどうか、とにかくこのフェベに手紙を託したのでしょう。

 そして3節にはプリスカとアキラの名前を挙げております。パウロを命懸けで守ってくれた夫妻が今、ローマ教会の重要な担い手として伝道に励んでいる、そのことを思ってどんなにかパウロの心は熱く燃えたことかと思います。恐らく5節以下に挙げられている一人一人についてもパウロはキリストに結ばれていることの熱い思いを持って挨拶を送っていると思うのです。



 私共も又、かつて同じ教会で礼拝を守り、信仰生活を共にし、今は天に召された多くの兄弟姉妹、又、引っ越しをされて行った多くの信仰の仲間のことを思い起こします。先週の火曜日にIさんがお母様と一緒に教会を訪ねて下さいました。かつて同じ教会にあって、親しく主にある交わりをなし、教会と信仰の仲間に仕えて下さった姉妹が今も私共を覚えて、心にかけ、祈っていて下さり、こうして遠路訪ねて下さる、本当に嬉しいことです。

 主にある交わりの中でどんなにか私共、教会の仲間に助けられたことか、祈られていることか、そのことを思いまして、心が熱くなります。私共、遠くにあっても同じキリストを主と仰ぐ者として、心を熱くし、互いに挨拶を交わし合いたい、祈り合いたい、そう思う者です。



 パウロは挨拶を送る中で、繰り返し繰り返し、「主に結ばれて」「キリストに結ばれて」と記しておりますように、キリストの愛によって、お互いが包まれ、結ばれていることへの感謝を込めて一人一人を思い起こして祝福の挨拶をしているのです。キリストのために共に戦っている同志としての熱い連帯感がこの挨拶に溢れていることを思うのです。

 私共も「主にある交わり」を形式的なもの、社交辞令ではなく、キリストによって救いへと導き入れられた仲間として、共に励まし合い、祈り合いながら、信仰の戦いを戦い抜き、神がイエス・キリストに於いて約束して下さっている永遠の命に共々に与かりたいと願う者です。



 この挨拶のリストから更に、私共が教えられることがあります。パウロが他の手紙の中で、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、……ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたはキリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3.27−28)、と述べておりますように、ユダヤ人もローマ人、ギリシア人も、自由人も、奴隷も、男も女も皆が等しく、「聖なる口づけ」を交わし、同じテーブルについて食事を共にし、主の恵みに与かっていたことが分かります。

 しかも挨拶のリストには驚くべきことに誰一人としてこの世での身分、職業など一切記されておりません。ただこの人たちとキリストとの関係、教会での働きが記されているだけです。教会の中では、民族、身分の高い低い、男女の関係なく主に結ばれた兄弟姉妹の真実の交わりが、当時からなされていたことが、よく分かるのです。



 「キリスト・イエスに結ばれて」、ただそれだけが私共キリスト者の交わりの唯一の根拠であり、それ故に私共は主キリスト・イエスにあって一つだと言えるのです。ですから教会は、あくまでもキリストを土台とし、中心とし、目的とする集団であって、単なる人間的な社交の場、交わりの場ではないということを今一度確認しておきたいと思います。

 互いに「よろしく」と挨拶を交わし、神の恵みと平安を祈り、交わりを深め、熱い連帯の輪を広げて行く、そのようにしてこの世で、キリストの光を輝かせ、救いの喜びを伝えて行くという伝道の使命を主から託されている、そのことを覚えたいと思うのです。

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 2009年3月8日 
「キリストの祝福を携えて」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙15章22−29節



 パウロは今日の箇所で、時満ちて長年、待望していたイスパニアへの伝道、そしてその前のローマ訪問がついに実現する時を迎えた、しかし今は、ローマとは反対方向のエルサレムに行かなければならない、というのです。

 マケドニア州とアカイア州の人々がエルサレム教会の貧しい人々を援助することに喜んで同意してくれて、もうその献金が相当な額に達したので、パウロ自らがそれを持ってエルサレムに届けに行かなければならないからだ、というのです。

 しかし、パウロのエルサレム行きは決して楽観できるものではありませんでした。それを承知していたパウロは30節で、「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」とローマの人々に願っています。

 パウロが一緒に祈ってほしいと願っていることの内容が31、32節に記されております。第一の願いは、「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ」るように、ということです。先ずエルサレムでのユダヤ人によるパウロへの迫害から守られるよう、祈ってほしいというのです。

 実際、エルサレムにいるユダヤ人のパウロに対する憎しみ、敵意は尋常ならざるものがあったからです。彼の命を狙うユダヤ人がエルサレムには大勢いたのです。まさに敵陣のただ中にパウロは行こうとしているのですから並大抵の覚悟ではないことが分かります。



 第二の願いは「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」、ということです。パウロの呼びかけに応えて、異邦人教会が相当な金額をエルサレム教会のために集めたのです。パウロはエルサレム教会がこれを喜んで受け入れてもらえるようにあなたがたに一緒に祈ってほしい、と願ったのです。

 というのはエルサレム教会への献金が、エルサレム教会から拒絶される、そういう事態も予想されたからです。パウロはエルサレム教会の人々がこの献金を受け入れ、教会の一致が保たれるように、そのことを切に祈り、又、一緒に祈ってほしいとローマ教会の人々に願っているのです。

 もしエルサレム教会が、この献金を拒否するならばパウロの努力が無になるだけではなく、ユダヤ人教会と異邦人教会の分裂は決定的なものとなってしまうからです。

 エルサレム行きに際しての、このような危険と課題についてパウロはローマの教会に一緒にこの苦しみを担ってほしい、課題を共に祈ってほしいと切に願ったのです。パウロはローマの教会の人々には自分の苦しみ、切なる願いというものがきっとわかってもらえる、そういう期待と確信をもって一緒に祈ってほしい、祈りの戦いに共に加わってほしい、とローマの教会の人々に呼びかけているのです。

 このような祈りによる交わりこそが、キリストの体なる教会に繋がって生きている私共キリスト者の恵みの特権であることを覚える者です。



 パウロの最後の願い、それが32節に記されております。「こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。」

 私共が本当に安らうことができるのは、くつろぐことができるのは、救い主イエス・キリストの御名によって教会に召し集められ、主にある交わりを通して、一緒に祈り合えることであることを、パウロは誰よりも身に滲みて知っていたと思います。

 パウロのこれら3つの願いの内、最後の願いはパウロの願った通りにはなりませんでした。エルサレムへの献金は受け入れられ、エルサレム教会と異邦人教会との主にある交わりは回復しました。しかし、パウロはエルサレムで捕らえられ、ローマに囚人として護送されたからです。

 パウロが心から祈り、願っていたイスパニア伝道は果たされませんでした。しかし、教会はこの2千年の間、パウロの願いを、すなわち福音伝道の前進、教会の一致、そして教会が主にある交わりに生きる喜び、憩いの場所となること、この3つを共に祈り続け、努めて参りました。

 シロアム教会に連なる私共も又、共に福音の前進、教会の一致を祈り、そして共に主イエス・キリストによって与えられる憩いの恵みに与かり、その恵みを証しする者でありたいと思うのです。

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 2009年3月1日 
「神の福音のために」船水牧夫牧師
ローマの信徒への手紙15章14−21節



 パウロはここまで書き進めて参りまして、随分と思い切ったことを書いたなあ、というふうに考えたのでしょう。それが15節の「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました」、という言葉に現われていると思います。

 パウロがまだ一度も会ったことのないローマの教会の人々に対して思い切ったことを書くことができたのは、14節に「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています」とありますように、ローマの教会の信徒を信頼していたからでありましょう。

 14章以下で、ローマの教会の中で信仰の強い者、弱い者の対立、争いがあることを知り、そのことを厳しく批判し、「互いに戒め合う」ことを求めたのも、ローマの教会の信徒同士が真実の交わりを回復し得ることを信じているからだというのです。

 なぜそういうことがパウロに言えたのか、それはパウロが相手を信頼していたからだ、と申しました。しかし、15節には、もっと根本的な理由が示されています。「それは、わたしが神から恵みをいただいて」いるから、このように思い切って書くことができたのだ、というのです。そして思い切って書いたのは何度でも、自分たちが神の恵みによって生かされていることを思い起こしてほしいからだというのです。



 パウロはさらに17節で、「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」、と語っております。

 神が恵みを与えてくださっている、だから自分は思い切って語れるのだし、神のために働くことを誇りをもって語ることができる、そういう確信をもって生きているパウロの信仰の強さというものを思うのです。

 私共はお互いが神の恵みに生かされていることを信じ、善意と知識、賢明さに満ちていることを信じ、神への奉仕に私共が生きることを許してくださっている、そのことを喜び、キリストの体なる教会に仕えて参りたい、と思います。

 シロアム教会は、現在、確かにこの世的には決して希望を持ち得ない状況にあります。しかし、教会の業は私共がするのではない、主が私共に働きかけて、主の御心がなされる、そのことに確信を持ちたいと思うのです。

 人間的には見通しが立てられないと思えても、主がそのことを望まれるならば、私共の思いをはるかに越えた業がなされることを信じます。主の御心を尋ね求めながら、大胆に主の業をなして行く勇気を持ちたいと思うのです。自分たちの小さな信仰で神様のご計画を無にしてしまわないようにしたいと思います。



 パウロは今日の箇所の18節、19節で、このように申しております。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」

 神が私を用いて働かせてくださる力、それ以外は皆打ち捨てて、つまり自分の判断、知恵、世間体は捨て去って、ただ神の恵みに生かされて生きる勇気を持って、思い切って語り、大胆に行動する、それがキリストによって新しくされた者の生き方なのだ、ということを改めて確認したい、と思うのです。そのような思いでこれからのシロアム教会、61年目の歩みというものを展望して行きたいと思います。

 神は私共に何を命じておられるのか、分かっているわけではありません。しかし神は正確に聞き取れるようにと、私共に聖霊をくださったのです。御霊の注ぎをいただきながらキリスト・イエスに従って参りたいと思います。

 不可能を可能とする神の恵みを大胆に信じて生きる、それがキリスト者の生き方であるはずです。私共、主イエス・キリストの十字架と死、復活、そこに示された神の愛と恵みに招き入れられたことを誇りとし、神よりの励ましと慰めをいただいて、主に用いられ、教会に仕えて参りたい、そう切に願う者です。
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