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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2009年5月 3日 10日 17日 24日 31日 目次に戻る
 2009年5月31日 
「権威ある新しい教え」船水牧夫牧師
マルコによる福音書1章21−28節



 ここにはガリラヤのカファルナウムで主イエスが安息日に会堂で人々に教え、そして汚れた霊に取りつかれた人を癒されたという記事が記されております。

 主イエスは1章15節で「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われ」ました。あなたがたは神から離れた生き方を悔い改めて神の御支配の下で生きなさい。神との生きた交わりの中に生きなさい。その時が来たと主イエスは宣言なさったのです。カファルナウムの人々が驚いたのは、主イエスによって、神の支配が始まったということがよく分かるような言葉を聞かされたからなのです。

 汚れた霊に取りつかれた男は、神との関わりを拒否する者を圧倒する神の支配の力に出会い、思わず叫びました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。」神との交わりを拒否し、自分の内に荒れ狂う罪の力のとりこになっている者が、神が今この礼拝を支配しておられることをまざまざと知らされ、神を否定しようとする思いが打ち砕かれて正気とされたのです。

 礼拝において、神の言葉が汚れた霊に勝利し、神の支配が、神の権威と力が目に見える形で人々の前に現わされたのです。まさに主イエスが宣言されたように、「時は満ち、神の国は近づいた」のです。主イエスがこの地上に登場したことによって汚れた霊の力は覆され、汚れた霊は滅ぼされたのです。その象徴的出来事が霊に取りつかれた男の救いに示されたのです。



 今日は教会の暦では聖霊降臨日です。この日、聖霊の力をいただいて、弟子たちは力強く証しする者とされ、キリストの教会がこの地上に誕生しました。その教会を通して働く聖霊の力によって、私共も神との交わりの中に置かれ、汚れた霊から解き放たれて、神の教会に属する者とされたのです。

 この汚れた霊に取りつかれた男のように、私共は神の支配から逃れて罪の内に生きる自分を見るのです。職場で、あるいは家庭で、小さなトラブルが起こる度に私共は自分がどんなにか汚れた霊に振り回されているかを認めざるを得ないのです。

 会堂にいた人々は、イエスに出会ってその権威と力に驚き、噂し、論じ合っただけでした。しかし、この男はイエスとの出会いを通して、自らの弱さと罪に気づかされて、うめき声を上げ、悔い改めて神の御支配の下に置かれることを願いました。この教会の礼拝がそういう神の御支配を真に求める礼拝となっているか、そのことが問われているように思います。今、この礼拝において神の支配が完全に働いて、汚れた霊、ストレスから解き放たれて神の支配に生きる恵みと喜び、祝福に与かりたいものです。

 主イエスが権威と力とを持ってこの世に来られた故に、神の支配が打ち立てられたという福音に私共も与かっているのです。自分の力に頼り、それ故に、ストレスの塊となって、あたかも汚れた霊に取りつかれたような私共、神ならぬものの権威に振り回されてオロオロしている私共に、本当の権威と力とを教えてくださった主イエスを見上げながら従って行く者でありたいと願う者です。



 人を傷つけ、人に傷つけられ、自分の罪や弱さ醜さに押しひしがれて希望を失っていた私共が、主イエスに出会い、罪人をも赦す神の愛に触れ、悪霊の支配から、神の支配へ、闇から光へと移され、教会の交わりに加えられ、新しい愛と力を与えられた、そして主イエスと共に歩むことが許され、主に生かされて歩む喜びを知った、それが私共キリスト者です。

 今尚、私共の生きている社会は悪魔的な力に支配された罪の世界です。その下でどれだけ多くの人々が苦しんでいることかと思います。私共もそういう一人です。しかし悪に対する神様の支配は主イエスがこの地上に来られた時より既に始まっているのです。そして必ずそれは最後には勝利するのです。この主イエスの権威に信頼し、悪魔的なものに対する戦いを、聖霊の助けをいただいて共に戦って参りたいと願う者です。聖霊の力を受けて、大胆に神に祈り求めて、神の御支配の下で生きる喜びを味わいながら、この世の悪魔的な力に抗して生きて参りたいと思います。

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 2009年5月24日 
「主の召しに応えて」船水牧夫牧師
マルコによる福音書1章16−20節



 「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」、シモンとその兄弟アンデレが「湖で網を打っているのを御覧にな」りました。「イエスは『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われ」ました。「二人はすぐに網を捨てて従」いました。又、舟の中で網をつくろっていたゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも主イエスに招かれて従いました。

 この二組の召命には共通点があります。それは彼らが自分たちの作業を中断させられて、「網を捨て」、「父親と雇い人を残して」、「舟を残して」イエスに従わねばならなかったことです。人間の都合を敢えて排除して、神は「神の必然性」を実現して行く、ということを示していると思います。アブラハムの場合もそうでした。私共の場合も「神の側の必然性」によって、キリスト者とされたと言えるのではないでしょうか。私共も又、自分のあれやこれやの理由を打ち払って、神の側の必然性、同時にそれは主の恵みの招きでありますが、その主の召しにお応えしたいと思います。



 「わたしについて来なさい」、そして次に主イエスが言われたことは、「人間をとる漁師にしよう」でした。魚は網でとれますが、人間は網ではとれません。心と心が通い合うことによってしか、人間はとれないのです。人間をとるためには、人の心が分かり、心と心が通い合い、共に喜び、共に泣き、共に希望を語り、共に夢を抱き、共に苦しむ、それによってしか「人間をとる漁師」にはなれないのです。ですから「人間をとる漁師にしよう」という主イエスの約束は、祝福の約束ではありますが、「人の重荷を担う、十字架を背負う」生き方でもありますから、同時にそれは主イエスが歩まれた苦難の道を担って生きることへの予告でもあるのです。

 当時の社会にあって人々は宗教家というと、すぐに律法学者やファリサイ派の人々を思い浮かべたことと思います。しかし、主イエス御自身は、律法学者やファリサイ派の人々のように、ただ律法という形だけを重んじて、その底にある神と人との交わり、人間同士の愛や赦しを忘れた彼らの硬直した信仰、偽善的信仰を痛烈に批判しました。そして社会から卑しい人々と見られていた徴税人や病人、罪人の友となられたのでした。そしてそれは、いわゆる宗教の専門家から憎まれる所となり、苦難と十字架の道へと続いて行ったのです。

 主イエスに招かれ、12弟子の中核を担うことになった彼らは、さまざまな失敗や過ちを繰り返しながら、主イエスの背を見つめて従い、ペンテコステ以後はそれぞれが教会の指導者となって、殉教の死を遂げるまで、主イエスと教会に仕えたのです。



 更に、弟子たちを招かれながら、主イエスがその後、どのように歩まれ、何をなさったのでしょうか。それが、始めの3章までに記されております。汚れた霊に取りつかれた男の癒し、大勢の病人の癒し、手の萎えた人の癒し、などを致しました。病気であること、障碍を持つこと、貧しさ、差別、それによって社会から隔絶され、関係を断ち切られた所で生きる外なくされた人々、主イエスはこういう人々の所に入って行かれました。手を差し出し、触れ、まなざしを注ぎ、声をかけられました。又、社会から差別され、排除されていた徴税人や律法で罪人とされた人たちと食事をなさいました。そこのところで交わりの回復、関わりの回復をされたのでした。

 人間は顔と顔を向け合い、言葉を交わし合うという交わりの中で生きるべく造られております。人間をとる漁師とは、つながり、関わり、愛と赦しを持って共に生きて行く者となるということです。主から召され、主から遣わされて私共は、それぞれの置かれた場所に出て行き、そこでつながり、関わり、共に生きて行くのです。それが伝道であり、証しだと思うのです。お互いがそれぞれの十字架を担い合い、重荷を担って共に交わり、共に生きて行く、そのような歩みへと私共は主によって召され、そのような社会を造るための献身者として働くべく、仕えるべく世に遣わされるのです。

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 2009年5月17日 
「時は満ちて」船水牧夫牧師
マルコによる福音書1章14−15節



 14節、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え」ました。ヨハネは正義と道義を求めて、時の権力者に激しく詰め寄りました。そのことの故にヨハネは、ヘロデ王の怒りと憎しみを買い、牢獄に繋がれてしまいました。そしてヨハネは首を切り取られた遺体となって弟子たちに引き渡されたのでした(マルコ6章)。イエスが宣教を開始されたのは、おそらくヨハネが殺された後のことであろうと多くの注解書は記しております。

 ヨハネは権力に妥協することなく、厳しく、激しく不義不正を糾弾し、人々の良心に訴え、悔い改めを迫りました。イスラエルの人々は自らの良心がえぐられるような思いを持ってヨハネから悔い改めのバプテスマを受けました。そして彼に希望を託し、イスラエルの再興を願ったのでした。しかし、無惨にもヨハネは殺され、民衆の希望は儚くも潰え去り、人々は再び虚無と絶望に閉ざされてしまいました。

 まさにそのような暗く厳しい状況下で、主イエスは、イスラエルの中にあって、辺境の地であり、「異邦人のガリラヤ」(イザヤ書8章23節)とさげすまれていた地で宣教の第一歩を踏み出したのです。このことの中に、既に主イエスの喜びの音ずれが何であるのか、福音がどういう響きを奏でているかを明らかに示している、そう思うのです。



 イスラエルの人々には、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」(イザヤ書8章22節)、そのような現実の中で、神の国、神の支配する世界を未来に望む終末の待望が起こって来たのです。そして主イエスの時代において、この世の終わり、そしてメシヤ救い主の出現が間近いという気分が、イスラエルの至る所にみなぎっていたのです。神は世の終わりにおいて悪を徹底的に滅ぼし、正義をこの地上にもたらし、神の支配を完成させ、神の国が打ち建てられる、こうした思想は、ローマ帝国の下で苛酷な生活を強いられていたイスラエルの人々の心を動かし、ヨハネの下へと人々を引き寄せたのです。

 ヨハネは人々に「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3章7−8節)、と悔い改めを激しく迫りました。それは神の怒りから免れるためだ、と。しかし、ヨハネが殺され、民衆は再び虚無と絶望に閉ざされました。

 まさにその時、主イエスが登場し、「時は満ち、神の国は近づいた」と、神の国、神の御支配の到来を宣言されたのです。パウロは、「今や、恵みの時、いまこそ救いの日」(Uコリント6章2節)と記しておりますが、これは主イエスが宣言された「時は満ち」たことの内容を見事に言い表しております。



 ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と述べました。そうしないと罰を受ける、裁きに遭うとヨハネは主張しました。しかし、主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。罰から逃れるために、罪を悔い改めて良い行いをするということではなく、自分本位な生き方から方向転換をして神の方に向きを変えることを主イエスは求めたのです。方向転換をして、神から伝えられる喜びの音ずれ、良い音ずれを聞き、それを信じなさい、そうすれば、そうするだけであなたは救われるという、神の全く新しい支配の在り方が、救いの道が主イエスによって明らかにされたのです。

 私共が救われる唯一の条件、それは新しい神の約束としての福音、イエス・キリストを救い主と信じ、受け入れる、これだけが救われる資格、条件なのです。ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と律法の行いによる救いを語りましたが、イエスは「悔い改めて、福音を信じなさい」と信仰による救いを語ったのです。

 自分勝手な生き方をして、神に背き続け、その罪の結果として、死ぬ外ない「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(イザヤ書9章1節)のです。これが福音なのです。その福音を信じ、その福音を受け入れるだけで私共全ての者が誰一人例外なく、救われるのです。

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 2009年5月10日 
「荒れ野に耐えて」船水牧夫牧師
マルコによる福音書1章12−13節



 主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられてからすぐ、40日間荒れ野でサタンの誘惑を受けられました。

 主イエスがヨハネから洗礼を受けたということは、悔い改めの必要な私共と同じ仲間の一人となってくださったということです。神の子であるとの天からの証言を聞いた主イエスが強いられて荒れ野に行かれた、ということの中に、これから始まる主イエスの地上での歩みが、苦難と十字架への道であることが暗示されているように思います。

 創世記に記されている人類の始祖アダムとエバが神の戒めを破り、神によってエデンの園から追放されたように、主イエスも又、父なる神によって荒れ野へと追いやられたのです。荒れ野は人々から捨てられ、顧みられない人々の住む所という意味もあるのですが、それは特定の人々のことではなく、私共全ての者が、エデンの園の外にあって、この世で味わう悲惨さ、苦しみ、痛み、悲しみを負って荒れ野に生きているといえます。その荒れ野に主イエスがおいでくださったのです。



 イザヤ書53章3節以下に、こういう言葉があります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり 打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」主イエスはまさにそういうお方として地上に来られ、荒れ野に生き抜かれたお方でありました。人間が作る荒れ野に自らを晒し、そこに生きる苦しみと悲しみ、痛みをつぶさに味わわれたお方でした。

 このような絶望と虚無の世界、神の御支配が見えなくなっている世界、サタンの誘惑に満ち満ちた荒れ野で、主イエスはアダムとエバのようにサタンの誘惑に負けることなく、サタンと闘われて勝利され、罪と死を滅ぼされ復活された、これがマルコ福音書が私共に伝えようとしたことなのです。

 その主イエスが、私共に「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と祈るようにと教えておられます。そのような祈りをせざるを得ない弱い私共ですが、マルコは、サタンの誘惑に打ち勝たれた主イエスを指し示し、その主イエスを仰ぎ見ながら、サタンの誘惑に負けることなく、どんな荒れ野にも耐えて花を咲かせなさい(参照 イザヤ書35章)と、世々のキリスト者を慰め、励まし続けている、そう思うのです。



 憲法9条の国際紛争を武力によって解決することの放棄、戦争放棄。25条の平和的生存権の確立。核兵器廃絶。これらを理想だ、非現実的だというのではなく、これこそが聖書の示す世界だと思います。この荒れ野に花を咲かすために主イエスはお出でになられたのです。私共もそれに続く者でありたいと思います。

 イザヤ書51章3節に「主はシオンを慰め そのすべての廃墟を慰め 荒れ野をエデンの園とし 荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」とあります。自分の経験や知識、理性からはどう導き出しても、荒れ野は荒れ野であり、絶望することが多いのです。荒れ地を耕そうと鍬を入れても、結局は落胆し希望を失ってしまうことが多い、それが私共の人生です。

 しかし、主は「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる」と約束しておられるのです。私共は幾度この御言葉に励まされ、慰められ、希望を捨てずに守られて来たことだろうかと思うのです。サタンの誘惑に屈することなく、主の約束を堅く信じて、希望を持って生きて参りたいと思います。

 主イエスは私共が作り出した荒れ野を、サタンの働きに勝利されることによって荒れ野を再び、愛と平和に満ちたエデンの園としてくださった、その「喜びと楽しみ、感謝の歌声」を、世界に響かせて生きる者でありたいと思います。

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 2009年5月3日 
「天からの証言」船水牧夫牧師
マルコによる福音書1章9−11節



 旧約聖書には、人間の罪と悲惨な現実、暗黒の夜に、曙の光が訪れることが預言されております。マルコは、それを待ち望んでいた民に、その救いがイエス・キリストにおいて成就したことを告げ知らせるために、この書物を著しました。

 その冒頭においてヨハネが、神の子イエス・キリストの先触れとして歴史の舞台に登場し、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたことが記されております。そのヨハネから主イエスが洗礼をお受けになったことが記されているのが今朝の記事です。

 10節、主イエスが「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。多くの注解書は、バビロン捕囚から帰還後の過酷な時代、第三イザヤの言葉とされているイザヤ書63章19節後半にある、「どうか天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」、という言葉が、まさに主イエスの受洗において成就したというのです。黒雲に閉ざされていた空の裂け目から青空が開けて、太陽が地上をさーっと輝かすように天が裂けるのを主イエスが御覧になったのです。

 又、多くの注解者は、「天が裂けて」という言葉を、15章37節以下の、「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と関連付けています。主イエスが地上での生涯を公にされたその出発時に天が裂け、その生涯の終りにおいて神殿の幕が裂けたのです。



 私共が生きている世界は、私共の罪の故に、暗く、不条理と矛盾に満ちた世界で、その結末は死と滅びです。この絶望的な人間世界に神は愛をもって介入し、独り子を、私共人間と同じ姿で、この世にお遣わしになられた、主イエスは、私共と同じ罪の赦しを受ける洗礼を受けられた、そして十字架と死によって私共の罪を贖ってくださった、それによって私共の罪は赦され、罪の故に閉ざされていた天は裂け、神と人間との間にあった断絶は打ち破られ、神との交わりが回復し、神との和解がもたらされたのです。

 主イエスが洗礼をお受けになった時、「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と記されております。この天からの証言に応じるように、地からの証言として、異邦人の百人隊長の、「本当に、この人は神の子だった」との証言がなされました。

 どの注解書も、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」を詩編2編7節とイザヤ書42章からのものであると指摘しております。詩編2編は王の即位の詩編だと言われております。メシア待望、救い主待望に生きたユダヤの人々はこの詩編を、救い主なる王メシアが即位した時の歌だと理解しました。主イエスはヨハネから洗礼を受けられた時、御自分が父なる神から、メシア、救い主の使命を与えられたことを自覚されたことと思います。



 又、イザヤ書42章から始まる四つの「主の僕の歌」には、神の救いを実現する王なるメシアの道は、罪人の一人に数えられて苦しみの中で死ぬ、そのようなお方として描かれております。主イエスは、罪を犯されなかったにも拘わらず、自らを罪人の一人として、悔い改めを必要とする人々と同じ立場にまでへりくだられて、洗礼を受けられ、私共の罪を担って十字架への道を歩み通され、私共を罪と死から解き放ってくださったのです。

 10節後半に、「”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった」とあります。神は主イエスを人類を救う王として、又、仕える僕としてお立てになり、その主イエスを励まし、力付けるために霊を注いでくださったのです。

 ガラテヤの信徒への手紙3章26節、27節でパウロは次のように記しております。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」主イエスが洗礼を受けられた、その洗礼に私共も与かり、聖霊を注がれて、罪の赦しの洗礼を受けて、新しい神の民として教会に連なる者とされているのです。

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