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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2009年6月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2009年6月28日 
「罪人を招くイエス」船水牧夫牧師
マルコによる福音書2章13−17節



 レビは、徴税人という職業のために、ユダヤ人社会の交わりから排除され、罪人と同じに見られ、誰からもまともに相手にされていませんでした。ところが、その彼に、何の前触れもなしに、イエスの方から声をかけ、招いてくださったのです。彼の驚き、喜びは大変なものだったと思います。

 その後、レビはイエスを自分の家に招いて食事会を催しました。そこには多くの徴税人、罪人、そして弟子たちも同席していたと記されております。ファリサイ派の律法学者に代表されるようなユダヤ人社会の良識ある人々にとって、イエスが律法に違反しての、罪人、徴税人との共食は不可解であり、非難に値するものでした。

 しかし、主イエスは、わたしが来たのは、罪人として世の交わりから差別され、排除されている者を招くためだ、と宣言されました。主イエスは自分から罪人と食事を共にし、神の愛を期待することのできない立場の人々に、神の国での喜びに満ちた祝宴を先取りするかのようにして、神の恵みと赦しを約束してくださったのです。

 ファリサイ派の律法学者たちにとって、律法破りを日常的に行い、異邦人、罪人と平然と食事し、交わりながら、「神の国の到来」を説くイエスの教えは異端としか見えませんでした。イエスは彼らの怒り、憎しみを買い、十字架への道を歩むことになったのです。



 ファリサイ派の律法学者たちは、他を裁くことにおいて自分の正しさを確保しようとしたのです。私共が、他の人はともかく自分だけは清くありたい、自分だけはこの世の汚れに染まらないようにしようと考え、それに続けて「だから彼と付き合うのはやめよう」、「ああいう集団の仲間になるのはやめよう」と考えるのです。これはもう立派にファリサイ派の仲間です。私共は信仰すらも自分を義とする道具にしてしまう罪深い者であるという自覚を常に持っていたいと思うのです。

 主イエスはそのような差別と排除をもって自らの清さを決して保とうとはされませんでした。むしろ罪人と見做された人々の中に入って友となられ、「わたしに従いなさい」と親しく声をかけられました。

 ファリサイ派の人々の清さは自ら汚れに染まらないように、汚れた者との接触を恐れ、遠ざけ、差別し、排除し、交わりを拒否することによって清さを保とうとしました。

 しかし、主イエス・キリストは、自ら恥を負い、泥にまみれ、罪人を招いて、その仲間となって、その罪を赦し、義とし給うお方であります。だからこそ、この主イエスと出会い、主イエスの愛と慈しみに満ちたまなざしに触れた時、つらい人生を強いられ、重い人生を歩んで来た者にとって、主イエスが「神の国の到来」をその身をもって示し、罪の赦しを宣言し、人間の尊厳を回復してくださったことによって、生きる勇気を与えられ、そこに深い慰めと喜び、救いと希望を見い出す者とされたのです。



 主イエスは今日の箇所ではっきりと宣言されております。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」、と。この世にあって疎外感、喪失感を深く味わい、「人間失格」と自他共に認めている者に、神の側から手を差し伸べ、神との交わりを回復してくださり、人間の尊厳に気づかせ、互いに愛し合って生きることの素晴らしさを、身をもって示してくださったお方、それが主イエス・キリストなのです。

 主イエス・キリストは、神の独り子であるにも拘わらず人となり、私共の罪の贖いのために十字架にかかり給うて、私共の罪を赦し、神の国での祝宴に招いてくださっているのです。この世界の全ての者が、偏見や差別を捨てて、共に赦し合い、愛と平和、恵みに満ちた生きた交わりを実現する社会を作り出すために、「わたしに従いなさい」、と私共を招いてくださっている主イエスに真実を尽くして従う者でありたいと思います。

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 2009年6月21日 
「あなたの罪は赦される」船水牧夫牧師
マルコによる福音書2章1−12節



 主イエスが、伝道旅行からカファルナウムに戻られると、2節「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどに」なりました。そこへ4人の男が、中風を患い、体の自由が利かない人を、寝ている床ごと、運んで来たのです。しかし、人があふれ、主イエスの許に連れて行くことが出来ない。そこで彼らは、屋根に上って、「イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」のです。

 病の中にある者、困難な中にある人を自分の困難、痛みとして受け止め、担って、その人のために懸命になって尽くしている姿、共同している姿、そこに主イエスは信仰を見られたのです。その人たちの信仰と愛の交わりに担われて、主イエスの許に連れて来られた人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言され、中風の人を癒してくださいました。

 その時、律法学者は、「神おひとりのほかに、罪を赦すことはできない」、とつぶやきました。その通りです。しかし律法学者は賞罰応報の立場に立って、この人は神の罰を受けて病気に罹っているのだから、自分たちにはどうしようもないと、この人を見捨て、差別し、排除して当たり前と思い、この人に同情することも、痛みや苦しみを共有しようとも思わないで平然としているのです。そしてこの人に何もしない、関わらないことを正当化してしまうのです。



 しかし病気や障碍は、犯した罪に対する神の罰とは全く関係ありません。私共全ての者が、主イエスによって「罪の赦し」を受けなければならないのです。私共は主イエスの「罪の赦し」の宣言を聞いて、初めて自分が神の前に罪ある存在だということに気付かされるのです。

 天地を創り、万物を支配し給う神との人格的応答に生きるものとして造られた人間が、その神の御心に反して、罪の内を歩み続ける人間のために、神は御子イエス・キリストをこの地上にお遣わしになって、その十字架と死を通して、私共の罪の贖いとしてくださったのです。神の独り子を十字架につけ給うほどに私共の罪は重く、また、それほどまでに神は私共一人一人を愛してくださっているのです。



 私共の人生にとって最も大切なこと、それは私共が神から罪の赦しを受けていることに気づき、神の前に悔い改めて、神に従う者となることなのです。

 神の側から一方的に私共に対してなされた罪の赦しの宣言、その神の恵みに感謝して生きる、それが信仰ということなのです。

 私共は既にその罪の赦しの福音を信じ、教会に連なる者とされております。そして、この恵みの福音を告げ知らせ、この福音の下に一人でも多くの方を導こうとすること、それが伝道ということです。「あなたの罪は赦される」、この福音に共に与かろうとの願いをもって、祈り、主イエス・キリストの下にお連れする、一人でできなければ二人、三人と力を合わせて導く、中風の人を、そのようにして連れて来た彼らの信仰を、主イエスは見られて、運ばれて来た人を救われました。



 その信仰とは、どんなことがあっても決して諦めないということです。神から見放され、人からも見棄てられたと思い込んで、絶望の底にいる人が大勢います。自分の人生に絶望し、自分には生きている価値がない、そう思い込んでうずくまっている人に、主イエスは、決してそうではない、この世界には救いがある、神は決してあなたを見捨ててはいない、希望を持って、願い求める時、必ず道が開かれる、あの4人の人たちが必死の思いで友のために祈り、行動した時、救いの道が開かれたように、どんなに絶望に見えても必ず道が開かれる、闇の向こうに光が射していることを聖書は私共に告げているのです。

 私共の悲しみ、苦しみを担うために主イエス・キリストが十字架上で肉を裂かれ、血を流されたことを思い、共に重荷を担いながら、希望を持ち続けて信仰より信仰への道を歩み通したいものです。

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 2009年6月14日 
「御心ならば」船水牧夫牧師
マルコによる福音書1章40−45節



 今朝の箇所には「重い皮膚病」を患っている人を、主イエスが癒されたという出来事が記されております。かつて、この「重い皮膚病」は「らい病」(ハンセン病)と呼ばれ、どこの国においても呪われた病と恐れられ、偏見と差別は今日では考えられないほど、ひどいものでした。主イエスのおられた当時のユダヤでは、この病に罹った者に対する厳しい掟がありました。人里離れた所での生活を強いられ、誰かと出会ったら、遠くにいる間に「私は汚れた者です」と叫び続け、敢えて自分の病を人に晒すという屈辱に耐えて生きなければならなかったのです。しかし、この病は医学の進歩によって、伝染性の非常に弱い菌によってかかる感染症であることが明らかとなりました。



 41節に「イエスが深く憐れんで」とあります。「深く憐れむ」とは、原文は「内臓に痛みを覚える」という意味です。有力な写本の中には「深く憐れんで」を「激しく憤られて」としているものがあります。しかし、この二つの読み方、「憐れみ」と「憤り」はコインの裏表のようなものだと思うのです。病人に対する深い憐れみは、他方から言えば、病気に対する激しい憤りであるからです。

 主イエスは、この男が病ゆえに置かれている悲惨な状況に深い憐れみを覚えると共に、「重い皮膚病」そのものに激しい憤りを覚えたのです。また、同時に、この男に対して真実の同情をもって共に生きることのできない人々、それどころか、このような病を身に負っている者への差別と偏見をもって共同体から排除している社会に対する激しい憤りでもあったと思うのです。

 主イエスは、口を開く前に「手を差し伸べて、その人に触れ」ました。「重い皮膚病」に罹っている者は、人との接触を厳しく禁じられ、そばによることさえ許されていなかったのです。触れると、その人も汚れた者と見做され、共同体から排除されることを覚悟しなければならなかったのです。しかし、主イエスは彼に手を差し伸べ、触れたのです。病を抱えた人の全存在を御自分の身に引き受け、病気ゆえに一切のこの世での交わりを断たれた彼に、主イエスの側から手を差し伸べてくださったのです。それによって、彼は癒され、救われ、社会との絆を回復し、神の国に生きる喜びを確かなものとされたのです。



 この人は、自分の願いを言い表すことが許されるならば、癒されたい、救われたい、という意味を込めて、「御心ならば」と主に願い出ました。ここに私共の祈るべき姿勢が示されていると思います。

 私共、人生においてどうしてみようもない状況に追い込まれ、それに悩み、苦しみ、何とか解放されたいと願っても、ますます苦境に陥るということがしばしばです。そういう時、人間の心は自暴自棄的な思いにさせられます。その思いにじっと耐えて、「御心ならば」と、神が備えてくださっている解決の道を待つ、その時、闇の中に必ず光が見えて来るのです。それは私の思いとは違って、全く思い掛けない形で、解決が見えて来る場合もあるのです。愛と慈しみに満ちた神が共におられることを信じ、祈って待つ信仰に生きたいものです。

 キェルケゴールは「絶望は罪である」と「死に至る病」という本の中で記しております。希望を捨てること、それは最大の罪なのです。十字架の果てに復活のあることを私共は信じる者です。「御心ならば」、そこに神への限りない信頼を込めて、望みをもって祈り続ける者でありたいと思います。



 主イエスが、この世にお出でくださったのは私共をその根本から救ってくださるため、「神の国の到来」を告げるためでした。主イエスがなさった癒しの業は、そのしるしではありますが、救いそのものではありません。その誤解を避けるために、主イエスは「人に話すな」と言われました。しかし、癒された男は主イエスの命令に反し、この出来事を言い広めました。あまりの喜びのゆえに語らずにはおられなかったのだろうと思います。単に肉体上の病が癒されただけではなく、それ以上に社会的、宗教的な癒しというものを確かに知った喜びの故と思います。私共も主イエスとの出会いを通して、そのような喜びをもって生きて参りたいと願う者です。

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 2009年6月7日 
「解放者イエス」船水牧夫牧師
マルコによる福音書1章29−39節



 人々が、ペトロの姑が熱を出して寝ていることを、主イエスに話すと、31節、「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」。「もてなした」というギリシア語は、それ以降も姑は主イエスの一行に奉仕する者となったという意味です。従って、この姑が主イエスの最初の女弟子となったということになります。更に、コリントの信徒への手紙一、9章5節を見ますと、ペトロの妻が伝道の協力者となって奉仕していたことが記されております。

 漁師の仕事を捨て、家族を捨てた筈のペトロでしたが、ペトロばかりか、家族までが主イエスとの出会いによって救われたのです。このことは私共の思いを越えて、主イエス御自身が私共の家族のために、執り成し、導こうとされていることを示していると思います。



 32節以下、「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出し」ました。病人や、障がい者、悪霊に取りつかれた者、そして彼らの痛み、悲しみ、苦しみを共に担って生きている家族、仲間がイエスのもとに彼らを連れて来たのです。主イエスは、肉体と精神の病、障がいを負う者の中に立って、一人一人を癒してくださったのです。それによって、家族も仲間も共に癒され、痛み、悲しみ、苦しみから解放されたのです。シロアム教会は視覚障がい者のための教会として61年前に始められましたが、目の見えない方を伴って来られた方も共に、主によって救われたという方が多いのです。

 イザヤ書35章5−6節に、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」とあります。まさにイザヤが待ち望んでいた救いの日、神の国の到来が、地上での歩みをされた主イエスによってなされたのです。それが先週に引き続いて今日の箇所にも記されている病や悪霊からの解放、癒しの記事なのです。



 主イエスは私共の悩み、苦しみ、痛みを共に担ってくださるために、そしてそこから解放してくださるために、この世に来られたお方でした。主イエスはその生涯を通じて、貧しい人、傷ついた人、見捨てられた人、蔑まれた人、偏見と差別に苦しむ人の傍らに立ち、その痛み、苦しみ、悲しみを共に担い、交わり、共に食事をし、病の癒しをなさって、十字架への道を歩まれました。

 35節を見ますと「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。多くの人々の病の苦しみ、悩みの渦の中で、そうした人々の苦しみ、悩みを御自身の手で、言葉で癒し、救う力があることを知りつつも、そこを離れて祈られた主イエスの心の中には、激しい愛の葛藤があったと思うのです。人々の病、苦しみから救うこと、解放することが御自身のこの地上での使命なのか、そうではなく福音を宣べ伝え、やがては十字架につけられなければならない、そして甦られる、そこにしか人間にとっての真実の癒しがないこと、救いがないのだということ、そこに父なる神の御心があるのだということを、祈りの中で聞き取り、御心がなるようにとの祈りをなさったのです。



 教会に集う私共は、今、それぞれが重荷を抱えて生きているわけですが、主イエスの復活の光の中で、主イエスがこのような私共の現実を共に担ってくださり、真実の癒し、救いへと導いてくださっていることを信じる時、励ましと慰めとが与えられるのです。

 主イエスは私共一人一人に、「しっかりしなさい。私はいつもあなたと共にいる。あなたのすべての悩み、苦しみ、悲しみ、痛みを知っている。あなたのすべての重荷を私に委ねなさい。そして私に従って来なさい」と声をかけ、招いてくださっています。そこにすべての解決があり、望みがあることを信じ、そのことを人々に証ししながら生きる者でありたいと願う者です。

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