シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2009年7月 | 5日 | 12日 | 19日 | 26日 | 目次に戻る |
2009年7月26日 |
「神の子イエス」船水牧夫牧師 マルコによる福音書3章7−12節 |
◇ 7節に「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。町から立ち去られたのは、主イエスがガリラヤの町や村、そして会堂でなさった言葉や業が、ことにも安息日に対する姿勢が、当時の宗教的指導者たちを怒らせ、主イエスを殺害しようと相談するまでになっていたからです。 しかし、「イエスが多くの病人をいやされた」ことを伝え聞いて、ユダヤ全土から、周辺の外国の地からも、病の痛み、苦しみに耐えながら大勢の人たちが主イエスの後に従って、湖へ押し寄せて来たというのです。 ◇ 10節の「いやされた」という言葉は元々は「仕える、世話をする」という意味の言葉です。当時、病気や障碍は神にこらしめられ、鞭打たれたからだとされ、差別され、疎外されていました。しかし、主イエスは彼らに対して愛をもって仕え、その苦しみ、痛みから解き放ってくださったのです。そのことの故におびただしい人々が主イエスに触れようと押し寄せて来たのです。 9節を見ますと「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」とあります。自分が群衆に押しつぶされないように、弟子たちに向かって一緒にこの群衆の押し迫って来る激しい力を受け止めてほしいと言われているのです。 教会も同じだと思います。この世の様々な重荷に押しひしがれている大勢の人々が教会を取り囲んでいる、教会も牧師もその力に押しつぶされそうになっている、主イエスがそうであったようにです。自分自身が時代の波に押しつぶされそうになりながら、それでも押し迫って来る人々の悩み、苦しみ、痛みに、牧師も教会員も共に受け止め、対話をし、その重荷を担って行く、それが教会のなすべき働きではないかと思います。 ◇ 主イエスは、汚れた霊に「イエスは神の子」と告白することを禁じられました。それは彼らの告白が「恐れ」から出た告白だからです。恐れから出た信仰告白は、それがどんなに正しいものであっても、主イエスは「良し」とはされません。主イエスが求められるのは、「讃美」と「感謝」を伴なった告白です。 主イエスが罪と死の力の下で呻いている群衆の痛み、苦しみに押しつぶされそうになりながら、十字架の苦しみと、死よりの甦り、その命の中に私共の救いを示してくださったことを感謝し、その神を賛美し、告白する教会であり続けたい、それこそが聖霊の働きによる「キリスト告白」だと言えるのではないでしょうか。単なる目に見える癒しを求めるだけの信仰ではなく、罪の赦しと永遠の命を信じる信仰、そういう信仰告白をする一人一人でありたいと思います。 ◇ 今、大阪の島之内教会では西原明先生の追悼礼拝がなされております。午後には追悼演奏会が行われます。追悼記念の式において私共、悲しみを新たにさせられますが、同時に主イエスの甦りの命に与かっていることを再確認させられる時でもあります。 主イエスが、罪と死に囲まれた人生の下で呻いている群衆の痛み、苦しみ、悩みに押しつぶされそうになりながら、それを跳ね返してもたらしてくださった命、永遠の命に生きる希望を主イエスは十字架と死と復活をもって私共に明らかにしてくださったのです。 ◇ 西原先生は自殺防止センターにおいて実に、死ぬ外ないと思い定めつつも、一条の光を求めて電話をかけて来る人の悲しみ、嘆き、悩みに押しつぶされそうになりながら、その人の心の苦しみに寄り添い、ビフレンディングして、その重荷を担っておられました。それこそが教会の、教会に属する私共のなすべき務めだと思うのです。 私共は一人一人の悩み、呻きを聞く時、そして自分自身の弱さ、醜さを思う時、無力感に襲われますが、甦り給う主イエス・キリストが押しつぶされそうになっている私共と一緒にてくださり、支えてくださっておられることを信じて賛美と感謝をもって「神の子イエス」を証しし、この地にキリストの平和をもたらすために励む者でありたいと思います。 |
2009年7月19日 |
「人間性の回復」船水牧夫牧師 マルコによる福音書3章1−6節 |
◇ 本来、律法というものは、恵みによって選ばれた民に、神から与えられた生活の指針であり、感謝をもってそれに従って生きて行くべきものでした。詩編詩人は「あなたの掟は蜜より甘い」と歌いましたが、実際、本来、律法というのは神の下で、全ての人間が安全に、安心して、皆が助け合って生きられるよう愛と憐れみに満ちた、相互扶助が徹底した法律であったのです。しかし、いつしか律法の根本精神は失われ、律法はただ救いのための厳しい条件となってしまい、民を束縛し、委縮させる過酷な重圧、重荷となっていたのです。 しかし、ファリサイ派の人々にとって、主イエスの宣言、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉、そして麦の穂を摘んだり、病を癒すという行為は明らかな律法破りであり、神を冒涜し、律法を破壊するものとしか映りませんでした。それ故、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(6節)のです。 ◇ 主イエスは当時の宗教的指導者たちの律法観を否定されました。安息日律法に関して言えば、安息日と週日という聖俗二分化の固定した社会構造を否定されたのです。聖俗二分化の固定した社会は排除と差別を作り出す温床となることを主イエスは見抜かれ、全ての被造物が神の創造の秩序の中で祝福されたものとしてあることを宣言されたのです。そのしるしが、律法の枠組みから排除されていた人々、病人、障碍者、罪人、異邦人の中に主イエスが進んで入って行かれ、共に食事をし、病人、障碍者を癒されたことに示されております。そのようにして律法の根源にある神の愛と命の温もりの回復を目に見える形で示されたのです。それが、片手の萎えた人の癒しであったと言えます。 ◇ 主イエスが会堂に入られると、「そこに片手の萎えた人が」おりました。「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われ」ました。そして人々にこう問われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」主イエスの問いかけに人々は黙っていました。「そこでイエスは、怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみ」(5節)ました。安息日の本来の意味は煩瑣な規則を守ることにあるのではなく、神の力と恵みを覚え、感謝と賛美をし、ゆっくり休んで体力の回復をはかる日ですから、この片手の萎えた人を癒すことは安息日にこそなされるのにふさわしいことなのです。 しかし、ファリサイ派をはじめ、会堂にいた人々は、偏見と差別に苦しむこの人の痛み、苦しみに同情することができませんでした。主イエスは、一人の障碍者、あるいは病を負っていた者が癒され、神の恵みと愛が示された時、それを素直に喜び、分かち合うことができない頑なな心に、怒ると同時に、そのような人間の心の貧しさ、罪を主イエスは悲しまれたのでした。 ◇ ウィリアムソンという聖書学者は、ここで主イエスは一人の人間性の回復のために、「会堂における安息日の幻想的平和を粉砕した」と述べております。私共の礼拝が「幻想的平和」となっていないかどうか、主イエスの前に厳しく問われているように思います。 主イエスが、「その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと元どおりにな」りました。主イエスが片手の萎えた人を人々の真ん中へと招かれましたが、それはまさに主の体なる教会が、社会の中で弱い立場にある人々の人権、人間性の回復を実現するために働くことが求められていることだと思います。この世にあって疲れ、病み、虐げられ、差別され、疎外されている方々と共に生きる教会でありたいと思います。そのためにネットワーク作りが欠かせないことを強く感じております。私共の礼拝が「幻想的平和」に陥らないよう善を行い、命を救う業に励みながら、主イエスの平和の福音をこの世に証しして参りたいと思います。 |
2009年7月12日 |
「大いなる人権宣言」船水牧夫牧師 マルコによる福音書2章23−28節 |
◇ 弟子たちが歩きながら麦の穂を摘み始めたのを見ていた「ファリサイ派の人々がイエスに、『ご覧なさい。なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言」(24節)って、弟子たちの行為を安息日律法に反する行為だとして非難いたしました。 ユダヤ人は安息日には一切の仕事を休み、神を礼拝する日として、これを厳格に守っておりました。その根拠とされたのが、出エジプト記31章です。「あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(31章13−14節)。 ◇ しかし、この安息日律法の最も素朴な形のものが出エジプト記23章12節にあります。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」ここに示されているように、本来の安息日律法は人間や動物が休息し、元気を回復するためのものだったのです。しかし、いつしか律法の根本精神は失われ、律法は救われるための厳しい条件となってしまいました。それが先程の出エジプト記31章です。これは捕囚期以後、紀元前6世紀に成立した律法だと言われております。こうなりますと律法は人々にとってただ過酷な重圧、重荷となってしまい、「安息日は、人のために定められた」という精神は消え、「人が安息日のためにある」という本末転倒が起きてしまったのです。 ◇ 律法を厳格に守ることを誇りとしていたファリサイ派の人々は、イエスの弟子たちが麦の穂を摘んだことを「収穫」という労働行為と見なし、許し難い律法違反であるとしたのです。ファリサイ派の人々の怒り、非難に対する主イエスの答えが25節以下に記されております。ダビデに関する記事を省略して27、28節を見ます。「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。』」主イエスがご自身を「安息日の主」であると宣言され、人間を縛りつけていた律法の束縛から人間を解放し、律法本来の精神を明らかにし、大いなる人権宣言を主イエスがここでなさったと言えます。 「安息日は、人のために定められた」のであって、本来、神が人間を祝福し、一週間の間の一日を休んで、疲れを回復しなさい、特に弱い立場の人たち、奴隷や外国人たち、又、使役している家畜を大切にしなさいという愛に満ちた掟、掟というより人権宣言というべきものであったのです。 しかし、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」という言葉は、ユダヤ教の律法を厳格に守ることに固執し続ける祭司長、律法学者、ファリサイ派の憤激を買いました。彼らにとって、安息日は、「人が安息日のためにある」という神聖にして犯すべからざる日であったからです。律法違反は厳しく裁かれなければならなかったのです。 主イエスのふるまいは彼らにとって神を冒涜し、律法を破壊する者としか映りませんでした。それ故、主イエスに激しい憎しみと殺意を覚えたのです。 ◇ 28節に、「だから、人の子は安息日の主でもある」とあります。安息日の本来の趣旨は、神が定められた安息日に一切の業を止め、神に正しく目を向け、神を心から礼拝することにあります。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」ということの趣旨は、煩瑣な安息日の条文をいちいち欠けなく守れ、ということではなく、何よりもそれは礼拝への出席の促しなのです。神の下を離れ、神との交わりを拒んだ者が、その罪を赦されて、神の下へ帰れ、という恵みの招きなのです。その招きに応える道を開いてくださったお方、それが主イエス・キリストなのです。 私共をあらゆる重荷から解放してくださるために、この世においでになられた主イエス・キリストを礼拝する群れとして、神の下にある、人権、自由をこの世に大胆に証して参りたいと思います。 |
2009年7月5日 |
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」船水牧夫牧師 マルコによる福音書2章18−22節 |
◇ 主イエスが徴税人たちや罪人と呼ばれている人たちと一緒になって飲み食いしている所に人々がやって来て、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですかと問い糾しました。主イエスはそれに答えて、花婿である私イエスがここにいるのに、なぜ悲しみ嘆く必要があるのか。あなたたちの悲しみ、嘆き、苦しみ、悩み、恐れ一切を引き受け、解決をもたらすために私はここにいるのだから喜びなさい、と御自身の喜びの中に人々を招き入れておられます。 主イエスは当時のユダヤ人社会にあって、その職業の故に、或いは病の故に、ユダヤ人共同体から排除され、差別を受けていた人々と共に食事をし、病を癒すことを通して、彼らを共同体の交わりに戻され、彼らに生きる喜びを回復してくださったのです。彼らは主イエスによって、自分は神に知られている、神に愛されていることを実感したことと思います。人を差別し、排除する中で断食することよりも、主イエスがもたらしてくださった喜びの食卓を主と共にすることの方がどんなにかすばらしいことか、それを主イエスは自らを花婿にたとえて話されました。 ◇ 私共の生活すべてが、神の愛に支えられ、守られているのです。私共はたったひとりでこの世の悲しみ、苦しみに耐えているのではないのです。この世の悲惨さ、過酷さのどん底にまで降りてくださり、私共と共にいてくださる主イエス・キリストを信じているのです。主イエスのもたらしてくださった恵みと祝福を感謝し、喜びの内に、あらゆる偏見や差別の思いを捨て、すべての人と新しい食卓の交わりを作って行く努力をして参りたいと思うのです。 私共が食事をとるのは、この地上での命を支えるためです。その地上の命を支える食事を、花婿である主イエス・キリストが共にいて喜び、祝してくださっている、それに優る幸いがあるでしょうか。たとえ、この肉体が滅んだとしても、死に打ち勝ち給うた主イエス御自身が私共と共にいてくださり、永遠の命に生きる確かな望みを私共に与えてくださったのです。そのことのゆえに私共は深い喜びと感謝をもって肉の糧に与かることが許されているのです。主が共にいてくださるのですから、断食などする必要がないのです。 ◇ 新しいぶどう酒は発酵する力が強いので、古くなって固くなっている革袋に入れると、革袋は発酵する圧力に耐え切れずに破けてしまいます。主イエスは衣に継ぎを当てることやぶどう酒を革袋に入れるという日常の出来事のたとえをもって、御自分がこの地上に来られたことによって神の恵み、救いが全く新しくされたこと、それまでユダヤ人共同体から差別され、排除されていた者も、神の国のメンバーとして呼び戻される新しい交わりの在り方を示され、それを実践されたのです。 主イエスはあらゆる偏見や差別を越えて、彼らを招き、喜びと感謝に満ちた新しい食卓の交わりを回復してくださったのです。新しいぶどう酒と新しい革袋が、御子イエス・キリストがこの世に遣わされたことによって用意された、その喜びの交わりの食卓に、今私共も招かれているのです。 ◇ 主イエスは、その職業、あるいは病のゆえに、障碍を抱えているがゆえに、貧しさゆえに、その出自のゆえに差別され、疎外され、偏見をもって見られている中で、暮らしていかなければならない人々に親しく声をかけ、招かれました。そこから新しい食卓の交わりが起こって参りました。私共も身近な所で、主イエスが作ってくださった喜びの音ずれ、人間の尊厳の回復、愛による交わりの共同体への参加を願い、待ち続けている人たちに声をかけて参りたいと思います。そのことを通して、私共自身も主イエスによってもたらされた喜びの音ずれの福音共同体をここに形造って参りたい、そう願う者です。 新しい布切れ、新しい革袋が主イエスによって既に用意されているのですから、古いままの自分を捨て、キリストによって新しくされた者にふさわしく、どんな時にも、主が共におられることを信じて、喜びと感謝をもって日々の歩みをなして参りたい、誰をも差別したり、排除したりすることのない食事へと人々を招き、愛と赦しの交わりの共同体、そのような教会を形成して参りたいと思います。 |