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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2009年8月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2009年8月30日 
「ともし火を高く掲げて」船水牧夫牧師
マルコによる福音書4章21−25節



 主イエスの宣教の第一声、それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)でした。神の国とは何か、それは神が御支配される世界のことです。光が近づいて、暗闇に生きる者に希望のともし火が灯された、神の国の到来、その恵みの下に生きる幸いな道が示された、絶望と虚無の中に置かれていた者の所に光が来た、ということです。

 主イエスはそう言われて、その光が来たのに、それを枡の下に入れて消してしまう、あるいは寝台の下に置いて、役に立たなくさせてしまう、そういうことをしないように、とこのたとえをお語りになられたのです。



 なぜそう言われたのでしょうか。弟子たちが主イエスの「神の国」の宣教活動に従いながら、不安と恐れにさいなまされたからです。ガリラヤで伝道を開始されて、すぐに宗教的指導者たちの反感と敵意の中で過ごさなければならなかったからです。しかし、主イエスは、この小さな集団を恐れるな、無意味な宣教活動と思うな、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(22節)、と言われたのです。

 中国のことわざに「嚢中の錐」というのがあります。袋の中に錐を入れておけば、必ず錐の先端が出て来る、ということから、才能であれ、光であれ、必ずいつの日か明らかになるということわざですが、22節で主イエスは、私という光は、私という真理は、隠されて消えてしまうようなものではない、必ずあらわにされ、公にされるのだ、実に激しい言葉だと思います。

 マタイによる福音書の並行箇所(5章15、16節)には、そのことがもっとはっきり示されております。「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。自分の信仰を隠すな、恥じるな、大胆に神の恵み、神の福音を証ししなさい。そういう主イエスからの激励の言葉がここに記されていると言えます。



 日本にプロテスタントの伝道が開始されて今年で150年ということで、あちこちで記念の行事がなされ、計画が立てられております。日本で宣教が開始されてより、とりわけ明治の初期から敗戦に至るまで万世一系の天皇、現人神として、天皇を神として礼拝することを強要され、戦時中、当時の教団の執行部は伊勢神宮に参拝し、教会は礼拝において宮城遥拝、君が代を歌い、必勝祈願の祈りを捧げたのです(抵抗し、投獄され獄死した者もいましたが)。

 初期のキリスト教会が激しい迫害の中で、ローマ皇帝への礼拝を拒否し、唯一神信仰の立場をゆるがせにせず、それによって「キリスト教公認」という勝利を勝ち取ったのとは違う道を、日本の教会は選択したということは確かだと思います。

 しかし、このことは昔の話ではないのです。「国旗・国歌法」が成立してから10年、全国の公立校の全てで入学式、卒業式が行われるたびに、天皇崇拝と、侵略と戦争の惨禍の象徴であった日の丸への拝礼、君が代を歌うことが良心に反して強制されています。キリストの教会は、信教の自由を守る立場から、こうした国家の名による強制に対して明確に反対の意志表示をして行かなくてはならないと思います。又、我が教団が、憲法9条に示される平和国家の建設を目指して励む、そうしてこそ、教団義長の名で、1967年に出した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」の実質化になるだろうと思うのです。



 宣教150年を祝うのは結構ですが、その前に、キリストの光を升の下に入れて消してしまった、それほどではなくても、寝台の下において役に立たないように隠してしまった、そういう歴史の悔い改めをしなくてはならないと思います。そして今、進行しつつある教育基本法の改悪の実質化、つくる会の教科書採択、憲法改定の動きにキリストの教会は発言して行くことが重要だと思います。

 キリストの教会が、平和の福音を告げ、語るべきことを大胆に話して生きて行くことは大変、勇気のいることです。しかし、神の福音を聞かされ、その恵みの下に生かされているのですから、自らの生活を整え、祈り合って、主から託された平和の福音を大胆に語れるよう、共々に励んで参りたいと思います。
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 2009年8月23日 
「芽生え、育ち、実を結ぶ種」船水牧夫牧師
マルコによる福音書4章1−20節



 この種蒔きのたとえは、神の言葉を心でしっかり受け止めなさいという招きであると同時に、いい加減に聞いている者に対する裁きの言葉だといえます。

 主イエスは「種蒔きのたとえ」の中で、神の御言葉を聞き、それを受け入れ、豊かな実を実らせることが、どんなにか難しいことか、厳しいことかを明らかにされ、それ故にこそ、良い畑になるように、「豊かな実を結ぶ人生」を過ごすようにと促しておられる、そう思うのです。主イエスの愛に満ちた厳しい警告を自分に語られた警告として聞き取りたく思うのです。

 考えて見るまでもなく、私共は誰一人として、初めから良い土地ではあり得ないわけです。道端や石だらけの土の少ない所であるといえます。しかし、私共に蒔かれた御言葉が豊かに実るのは、主イエスが愛をもって、石を取り除き、ふるいにかけ、茨を切り払い、頑なな不毛の地を、深く耕し、水を注ぎ、肥料をかけてくださったからです。そのために、御言葉を伝えられた主イエス御自身が、種となられ、私共を罪より、救ってくださったのです。この主イエスの愛に、恵みに、真実に生きる者でありたいと願う者です。



 そして主イエスは、「神の国」のために、種蒔きに召された弟子たちに向かって、この百倍もの実を結ぶ種に目を向けるべきことを語り、豊かな収穫への希望、伝道への志しに生きるようにと促されているのです。

 主イエス・キリスト御自身が自ら一粒の種となられて「死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられ」(Tコリント15.20)て、私共の救い主となられたのです。私共キリスト者は、この「神の国の福音」を説き、自ら豊かな収穫を実らせる種となられた主イエス・キリストの証人として召された者です。キリスト者は全て、神の御言葉という種を蒔く農夫だということです。種は蒔かなくてはならないのです。その種が相手の心に宿りさえすれば、芽生え、育ち、やがて豊かな実を結ぶのです。



 蒔かれた種がどうなるか、鳥に啄まれるか、太陽に焼かれてしまうか、茨にふさがれてしまうか、それは分かりません。しかし、良い地に落ちた種は、他の失われた種の損失を補って余りある程、豊かな実を結ぶのです。ですから、時が良くても悪くても御言葉の種を蒔き続けなくてはならないのです。絶望的に見えても、神に信頼して、蒔き続けることの大切さを思います。

 そして、このことは今のシロアム教会への励ましの言葉として受け止めたいと思います。とても困難な、厳しい所にシロアム教会は立たされております。9月13日礼拝後には、そのことで話し合いの時を持とうとしております。どんな話し合いになるか分りませんが、悲観的な話で終わるのではなく、現実を直視しながら、それでも希望を語り合えたら、どんなにかすばらしいことかと思うのです。



 種を蒔く人にとって最も大切なことは何か、それは種は芽生え、育ち、実を豊かに結ぶということへの信頼にあると思います。畑の状態や種の蒔き方にもっと工夫してはどうか、ということも農夫にとって勿論、大切なことでしょう。しかし、何より大切なのは伝道の業は神様の業であり、私共はそのために仕える者であるということです。パウロは「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Tコリント3.6)と記しております。神の国の福音を信じ、それを待ち望みつつ、主イエス・キリストの証人として立たされ、働く者とされている私共は、パウロのように、「成長させてくださったのは神」であることへの信頼と謙遜さをもって御言葉に聞き従い、証しする者でありたいと思います。

 「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(Uテモテ4.2)とありますように、私共の内に宿った御言葉という種を家庭で、職場で、学校で、地域で、又友人たちの間で、少しずつでも蒔き続けて行くならば、必ずやいつの日か、芽生え、育ち、豊かに実を結んで行くことを信じて、そこに希望を託して共々に「神の国」を証しし続けて参りたいと願う者です。
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 2009年8月16日 
「金よりはるかに尊くて」秀島行雄神学生
箴言8章10−21節 ペトロの手紙一1章3−9節



 皆様には日本聖書神学校をお祈り下さりありがとうございます。シロアム教会の主日礼拝にお招き頂き深く感謝。

 若い時に教会に行き、受洗、就職、転勤で各地の教会に通い、牧師先生、信徒の方々に感謝。現在、職場から足早に神学校に通学。

 神学校では様々な観点から学び、万華鏡を見ているようで、大変楽しい。学生は年齢層、人生の経歴も多様、協力して勉学。



 本日の聖書箇所では、1.金について考え、2.本日の旧約、新約聖書の著者の金に対する見方、3.現代の私たちへの応用、4.キリストに触れてみたいと思う。

 1.金から何を思い浮かべるか。指輪等の装飾品。金に取り付かれた人々は古今東西大勢いた。

 創世記2章他多くの記述がある。なぜ金が尊重されてきたのか。魅了性、不変の輝き。希少性、南ア産出金では約20g/土砂1tで採算性あり。品質、錆びない。退蔵性。

 貨幣性、金本位制、本日の讃美歌313番作詞者由木康昭和5年作詞金解禁の年。作曲者津川主一昭和6年作曲満州事変の年。経済の破綻、戦争破局への始まり。



 2.箴言の金についての記述。箴言は、不安定な政治状況、絶えることのない戦争にあって、財産としての金銀の重要性を肯定しているが、人生にはもっと重要な物があると述べている。それは、神に従って生きる知恵である。

 3.ペトロの手紙一、金についての記述。聖書の小見出しは「生き生きとした希望」。3−7節のキーワードは「信仰」併し、別のキーワード「試練」があり、「試練」と「信仰」が対になっている。ペテロ前書は困難・迫害にある諸教会宛てに出され、勇気付けている書簡。試練に耐える信仰は金よりはるかに尊いと述べている。

 金は形があり、色があり、大きさを計ることが出来る。併し、信仰はどうであろうか。信仰は形もなく、色もなく、大きさを計ることも出来ないが、信仰は金よりはるかに尊い。もしも、信仰に形があり、色があり、大きさを計ることができれば、どんな状況か。日曜日の礼拝前の受付での風景は一変するのではないか。

 8節と9節は宝石のように素晴らしい言葉と思う。私はこの言葉と共に生き、この言葉と共に生涯を終わりたい。ペテロ前書の第1章は私たちに希望を与える言葉の連続である。ペテロ前書の著者はイザヤ書40章を援用、箴言の著者とは異なる考え方が示されていて興味深い。



 3.現代への応用。聖書は聖書の中だけの言葉なのか。現代への応用は出来ないか。教会は、金よりはるかに尊いものの存在があることを宣べ伝えていく。教会は人間社会に必要不可欠である。

 教会には、生きる価値や生命の重要性を社会に伝える大切な使命と義務がある。教会学校で歌われている「こども讃美歌80」「生まれる前から」はキリスト教の枠を超えて人類普遍の真理といえる。短い言葉に、神を愛すること隣人を愛することが凝縮されている。

 本日のペテロ前書4章11節、一人一人が互いに仕え合うことは神の愛に応えることである。そうは言っても私たちにできることには限界がある。併し、そうなのか。

 金の採掘では、土砂1トンの中から20数グラムの金を見つけ出す。価値あるものを取り出すのは容易ではない。額に汗して人生の時間を費やさねばならない。教会の大切な使命は、信徒の大切な使命は、過去、現在、未来の歴史の中にあって、たゆまずに、大切であることを、時代を超えて伝えていくことである。



 4.最後に、主イエス・キリストの考えを私なりに推測。ルカ伝10章のマルタとマリアの姉妹の記事「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」

 無くてならぬものとは何か。それはイエス・キリストからマルタへのプレゼント。マルタだけではなく、私達へのプレゼントではないか。多分、金よりはるかに尊いものと思う。(主に感謝)
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 2009年8月9日 
「聖霊を冒涜する罪」船水牧夫牧師
マルコによる福音書3章20−35節



 主イエスが伝道旅行からペトロの家に戻られると、イエスの評判を聞いた群衆が押し寄せ、食事をするひまもないほどでした。その一方で21節、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来」ました。「愛する息子」「愛する兄」について、気が変になっている、悪霊に力を借りて怪しげなことをしているという噂を聞き、家に連れ帰ろうとしたのです。

 しかし、主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と、家族の願いを厳しい口調で拒絶されました。この主イエスの言葉に私共はたじろがざるを得ません。しかし、私共はキリスト教が日本の人口の1パーセントにも満たない中で、クリスチャンとなったわけですから、身内との間に何らかの軋轢が生じることは避けられないと言えます。先祖の供養のことで悩みながら教会に来ている方もおられると思います。



 身内の人間的な愛を、信仰のゆえに拒まなくてはならないことがある、それは本当につらいことです。しかし、主イエスはここで、身内の者を愛するな、とか捨ててしまえ、などということを言っているのではなく、血縁共同体の枠を超えて、周囲にいるさまざまな立場の人々との関わりを大切にし、配慮する、そこで初めて、身内との間にも正しい関係、真実の愛が生まれて来るのだということを言われているのです。

 この世にあってさまざまな苦しみ、つらさを負って生きておられる方々と共に生きようと決意して、主イエスに従って生きることは、この世にあっては、とても厳しい生き方を予想させられます。しかし、それが既にこの世に勝利されたキリストに従う道であることを信じます。そのような生き方を拒否することが聖霊を冒涜する罪だと主イエスはここで言われているのです。



 22節に、主イエスがいやしの業をなさっているのは、悪霊の頭の力を借りて悪霊を追い出したのだ、と律法学者たちは主イエスを非難したとあります。それに対して主イエスは、悪霊の力を借りたのではない、「神の霊」の働きによってなのだ、と言われました。神が自らのご意志で、愛をもって、この世を支配され、導いておられるということの明らかなしるしが、私が「神の霊」によって「悪霊を追い出」していることに示されている、と言われたのです。

 神の独り子イエス・キリストが、この世にお出でになられたのは「神の国」の到来を告げ、この世にあるあらゆる抑圧、差別、疎外、罪からの解放にありました。その目に見えるしるしが、病の癒し、悪霊の追い出しであったのです。



 今なお、悪魔的な働きがこの世を支配しているかに見えます。ナチスのユダヤ人ホロコースト、日本軍が中国を侵略した時の三光作戦、殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くすという残虐非道な行い、アメリカによる二度にわたる原爆投下、あるいは私共の日常社会にあっても差別やいじめ、暴力というサタンの働きを見るのです。私共キリスト者は、聖霊を冒涜する、こうした悪魔的な働きに対して、勇気をもって戦わなくてはなりません。

 キング牧師が暗殺されてから40数年、今や、黒人大統領がアメリカに誕生しました。時代の移り変わり、チェンジを思います。核兵器廃絶を叫び続けて来た被爆者の願いは、そしてそれを支持し支えて来た運動は、オバマ大統領をして「アメリカには原爆を投下した道義的責任がある」と言明させ、「核兵器のない世界」を提唱せしめるまでになりました。



 主イエスは私共に「悪霊を追い出す権能」を与えてくださいました。そのことを信じて、キリストの御心が地上になるよう働く者でありたいと思います。

 私共の信仰を確かなものとする働き、それが聖霊です。聖霊は神の真理を人々に明らかにすると共に、それを人々が受け入れることを可能とさせる働きを持っているのです。主イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦しと、永遠の命を与えられていることを感謝し、平和の福音を携えて、隣人と共に新しい一週への歩みを始めたいと思います。
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 2009年8月2日 
「12使徒の選び」船水牧夫牧師
マルコによる福音書3章13−19節



 今日の箇所には主イエスが、これと思う人々を呼び寄せ、その中から12人を選ばれたことが記されております。主イエスが、これはと思って選ばれる基準は人間的、この世的基準ではありません。全く主イエスの自由な選びによっているということです。それは今日、主イエスに従う者として召されている私共にとりましても同じことです。ただ神の恵みと憐れみによって選ばれてキリスト者とされたということです。



 マルコは主イエスが12使徒を召された理由を三つ挙げております。その第一は、「そばに置く」ためでした。主イエス・キリストを中心とした交わりの中にいて、キリストの証人となるためです。

 第二に、第一のことと結びついているのですが、「派遣して宣教させ」るためです。弟子たちが、そして私共が主イエスから託されているのは、主イエスが宣教の始めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた、その福音を宣べ伝えることです。伝道は、神の恵み、神の憐れみを受けて、その力に励まされて、押し出されて一人一人が宣教へと遣わされて行くということなのです。

 第三に、「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(15節)ということです。悪霊を聖書では第一に神に反抗する諸々の勢力だとしております。サタンと闘い、それに打ち勝つ力を既に私共はキリスト・イエスによって与えられているのです。それ故に私共は、私自身の内にいまだに巣くう悪の力、罪の力と戦うと共に、この世にあるサタンの力と闘うことが求められているのです。この世の悪の力、神の権威を否定するあらゆるこの世の権威と戦うことが求められていると思うのです。



 主イエスが誕生された時、天の大群が「天に栄光、地に平和」(ルカ2.14)と歌ったとあります。私共は神に栄光を帰し、讃美すると共に、地に平和を作ることを求められていると思います。マタイによる福音書にあります「山上の説教」で主イエスは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。

 平和の対極にあるもの、それは戦争です。戦争は人類最大の罪悪です。私共キリスト者は文字通り、平和を作り出す働きを主イエスから託されていることを思います。私ぐらいの年齢であれば、身内親戚の内、何人かは必ず犠牲になった人がいるはずです。広島、長崎の原子爆弾で20万人以上の人々が太陽よりもまばゆい光と熱、爆風と放射線を浴びて死にました。そして今も原爆症で苦しんでいる人たちが大勢おります。戦争は絶対してはならない、その堅い決意の下に日本国憲法が制定されました。

 しかし、日本が再び、じわじわと戦争への道を歩み始めていることを思います。憲法はなし崩し的に歪められ、自衛隊が堂々と外国へ派兵されるまでになりました。そして憲法9条を改定しようという動きが強まっています。それどころか、北朝鮮の核実験を口実にして、日本の核武装を公然と主張する政治家も現われております。この世から「悪霊を追い出す権能」を私共、主イエスから託されていることを思います時、戦争へと向かわせようとする悪の力を食い止めるためにしっかりと見張りの役目を果たしたいと思います。これが第三のことです。



 私共がキリストの教会の群れに加えられたのは、12使徒がそうでありましたように、私共にその資格があるからではなく、ただ神の恵み、神の愛によるのです。私共はそこから救われた喜びをもって、この世にキリストを証しするべく召されているということを覚えたいと思います。神の民とされた恵みに応え、主より託された教会の福音宣教の業に共に励んで参りたいと思います。

 今年、シロアム教会は創立61周年を迎えました。加藤常昭牧師が「伝道しない教会は教会ではない」と申しておりますが、この教会が戦後まもないころ、熱心に伝道を開始した盲人伝道者の大村善永牧師の働きがあって、今日のシロアム教会があることを思います時、もう一度教会の原点に立ち帰って、主イエスに遣わされて、キリストの福音の証人として、この地に福音を、真の平和を宣べ伝える群れとして共に歩んで参りたい、と願う者です。
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