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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2009年9月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2009年9月27日 
「恐れるな、ただ信ぜよ」船水牧夫牧師
マルコによる福音書5章21−24、35−43節



 会堂長のヤイロは、自分の愛する娘が死にそうになったため、主イエスの足もとにひれ伏して、助けてください、と懇願しました。

 主イエスはそれにお応えくださって、共に家に向かって歩いていると、35節「お嬢さんは亡くなりました。先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げられました。これ以上、残酷な言葉はない、と思います。しかし、主イエスは、死の圧倒的な力に打ちのめされている者に、「恐れるな、ただ信ぜよ」と、言われました。

 私共の信仰は諦めた所で終わってしまうのです。ここまで一生懸命祈って来たが、もう駄目だ、絶望だ、もうここには神の力も及ばない、そう思った所で私共の信仰も終わるのです。しかし、主イエスは「恐れるな、ただ信ぜよ」と、言われて死の力さえも踏み越えて進まれるのです。

 主イエスは人々があざけり笑う中で、子どもの両親と三人の弟子たちだけを連れて、子どもの所へ行き、死に立ち向かわれたのです。主イエスによって、ヤイロの娘は生き返らされ、起き上がって歩き、食べ物が与えられました。ヤイロの娘は確かに死から命へと移され、12歳の命で彼女の人生は終わったのではなく、その後も彼女の人生を歩き続けたのです。しかし、人間は死を免れることはできません。蘇生させられた彼女もいつの日か、死を迎えたことでしょう。



 パウロは「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6.23)と告げ、神の裁き、その徴が死だというのです。その死の力を打ち破り、罪の結果としての死を引き受け、死を無力なものとしてくださったのが、主イエス・キリストの十字架と死と復活という出来事なのです。パウロは「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなし」(一コリント15.7)い、と記しています。私共はキリストの復活を信じるゆえに、死を恐れない者とされているのです。

 私共の人生の暗闇、その最も恐ろしい力、死を、イエス・キリストが滅ぼされた、勝利された、そのことのゆえに私共も又、死の力に対して「死よ、奢るなかれ」と高らかに宣言することが許され、主イエスの甦りの出来事を讃美し、感謝する者とされているのです。

 「タリタ・クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)」。これは主イエスが私共になしてくださった「死」に対する勝利の宣言を先取りした形でお示しになった出来事なのです。私共はそのことを信じているのです。



 私共は人生の危機に直面した時、その肝心な時に、からし種一粒ほどの信仰も持っていない者であることを思わせられるのです。ヤイロも又、その一人ではなかったかと思うのです。しかし、主イエスは絶望したヤイロの傍らに立ち、「恐れるな、ただ信ぜよ」と声をかけ、

 ヤイロと共に歩いてくださり、死を突き抜けた信仰の喜びを味わう者へと変えてくださったのです。ヤイロは、ただ主イエスの前にひれ伏しただけです。主イエスは私共の絶望、無力感、不信仰を全部引き受け、死の恐れをも引き受けてくださった、私共はただあのヤイロがそうしたように主イエスの前に、自分の悩み、苦しみ、痛みを訴えればよい、信仰を持っているのだから苦しくないとか、悲しくないなどと虚勢を張る必要はないのです。私共の苦しみ、悩み、痛み、罪深さ、全てを御存じで、引き受け、招いてくださっている主イエスに、ありのままをさらけ出して訴えることが許されている、そこに私共の幸いがあるのです。



 主イエスは少女に「起きなさい」と言われました。私共も、死んだらそれでおしまいなのではないのです。死んだらおしまい、一切が空しくなってしまうことはないのです。私共も又、「起きなさい」と声をかけられて、主イエスの甦りの命に与かって、永遠の命に生きる幸いを約束されているのです。

 主イエスの愛に全てをお委ねし、祈る、諦めないで祈り続ける、「たとい死んでも生きる」、主イエスがなさった奇跡の業に励まされながら、復活の主イエス・キリストを信じる信仰に生き続けて参りたいと願う者です。
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 2009年9月20日 
「自分の家に帰りなさい」船水牧夫牧師
マルコによる福音書5章1−20節



 「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」(2節)のです。墓場は生きた人間の住む所ではありません。恐らく町の人々がこの心の病んでいる人を、生きながらにして死んだ人間の仲間に無理やり加えてしまったからでしょう。あるいはこの人自身が、人間不信に陥り、孤独と滅びの世界に引きこもってしまったからだとも考えられます。

 「汚れた霊に取りつかれる」を、現代の言葉に置き換えるとすれば、私共を悪や滅びに誘い込む力と言えるでしょう。ある意味、社会全体がこの力に支配されているように思われます。私共はその社会の一員でありますから、いつ自分がそうなるか分からないからです。

 しかし、この世を圧倒的な力をもって支配しているかのように見える汚れた霊の力をも、神は、そこを平安と祝福に満ちた世界に、人に、変えてしまう力、権能を持っておられるということを、今日の聖書の箇所は私共にはっきり示しております。事実、この物語の後半に参りますと、汚れた霊は主イエスによって徹底的に滅ぼされてしまったのです。



 しかし、町の人々は主イエスに「すぐ出て行ってもらいたい」と言い出しました。なぜか。町の人々にとっては、汚れた霊に取りつかれた人は、既に自分たちの共同体から排除することによって問題は解決しており、町中は平穏であったからです。それは残念ながら今日の私共の社会にもあります。例えば心の病を負った方が何か問題を起こすとすぐに、彼らを強制入院させよという声が上がります。ハンセン病患者に対する隔離政策もそうだったと言えます。社会は、困難な中にある人の重荷を共に担って行こうとは全く考えず、彼らを排除することによって、時には人権を無視して、自分たちの安心と財産の保全に汲々としているのです。排除と差別によって問題は解決すると思っているのです。

 町の人々は、この癒しの出来事の中に、長い年月、汚れた霊に苦しめられていたこの人に対してなされた主イエスの愛と恵みの奇跡の業を見ることができなかったのです。ただ2千匹ほどの豚の損失だけを見ているのです。町の人々は死人の住み家である墓場で、誰にも相手にされず、すさみ切った日々を過ごしていた人が、主イエスによって、汚れた霊が追い出された、神の支配が到来した、その事実によって正気になったという素晴らしい出来事を目の当たりにしながら、それを見ようともせず、ひたすら自分たちの安全と財産の保全にしがみついていたのです。それがために、主イエスの愛、癒しの力を目の当たりにしても、それを受け入れることができなかったのです。信じることができなかったのです。私共はどうでしょうか。



 もし私共が、主イエス・キリストが全ての滅びの力に勝利し給うお方であることを、本当には信じていないならば、そして私共が主イエスがなさったように、この世で差別され、排除されている方々と共に生きようとしていないならば、どんなにすばらしい礼拝が献げられたとしても、そこは墓場に等しい所であると思うのです。私共、毎週、ここに集まって主イエス・キリストの勝利を礼拝の場で確認し、「自分の家に帰」って、その喜びを証しする者でありたいと思います。

 墓場で、孤独と悲惨さの中で、自らを傷つけ、人を傷つける生き方しかできなかった者の所に、最も近い隣人として、主イエスがお出でくださったのです。虚無と死の滅びに支配された世界から愛と恵みの内に人との交わりが回復された世界、人間の命の尊さが、一人一人の人格が認められた世界、「いと高き神の子イエス」は、そのことのために、全き人としてお生まれになり、私共の罪の贖いとして十字架にお掛かりになり、死んで墓に葬られ、三日目に甦り給うて、永遠の命に生きる望みを確かなものとしてくださったのです。主イエス・キリストによって、虚無と滅び、罪と悲惨の下にある私共が正気になって歩むことができる者とされている幸いを、今、この時、もう一度心に刻み、主の愛と恵みの業を証しして参りたいと思います。
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 2009年9月13日 
「まだ信じないのか」船水牧夫牧師
マルコによる福音書4章35−41節



 主イエスが、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われたので、弟子たちは主イエスを舟に乗せて漕ぎ出しました。主イエスと一緒に乗った弟子たちの内、4人がガリラヤ湖の漁師でした。ですから突風が吹き始めた頃には、いつものことが始まったぐらいに考えていたと思うのです。しかし、ガリラヤ湖に熟知している筈のペトロや他の弟子たちでさえも、舟が水浸しになる程の風と波の激しさに驚き、死の恐怖に襲われ、眠っておられた主イエスを揺すぶり起こし「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えました。その時、主イエスは言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」ルカ福音書の並行記事には「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(8.25)とあります。

 主イエス・キリストに対する信仰、信頼というものがあるなら、それは眠っておられる主イエスを起こすということではなくて、そのような危機の中にあって、尚、眠っておられる主イエスの姿に、自分たちの信仰の拠り所を見出すべきでした。主イエスが共におられることを信じ、危機の中にあっても、今、なすべき最善のことをする、それが私共信仰者の在り方ではないでしょうか。



 私共の教会は61年の歴史を刻んで参りました。いつも時代の波に揺すぶられ、今にも舟が沈みそうな経験を重ねての歴史でありました。危機の度に、「おぼれそうです。主よ、助けてください」と幾度、悲痛な叫びをあげ、祈ったことでしょうか。そのような私共の不信仰にも拘わらず、主は恵みと憐れみをもって導き、今日まで航海を続けて来られたことを思い、ただ感謝する外ありません。

 私共の教会の現状は、この世的な常識では、絶望的な状況にあります。しかし、今日の聖書の箇所を通して勇気と力を得ました。どんな時にも、主が共にいて、決して私共を見捨て給うことはない、私共の祈りに応えてくださる、そのことを信じ、各自がそれぞれの持ち場で、各自に与えられた賜物を精一杯活かし、祈りつつ、キリストの体なる教会に仕えて参りたい、この嵐に悩む世にキリストの光、愛と正義、平和を輝かして参りたいと思います。キリストの体なる教会にしっかりと繋がって、共々に信仰より信仰へと進み、人生という航海を、信仰をもって歩み通したい、そう願う者です。

 主が共にいてくださることを信じる時、荒れ狂う嵐も「止み、すっかり凪に」なり、主にある平安を与えられることを、弟子たちは、嵐を静められた主イエスの奇跡の経験を通して、繰り返し、心に留め続けたことと思います。どんな嵐が来ても、主が共におられる故に、この平安から私共を引き離し、私共の心と生活を乱すことはない、この確信を私共も与えられたいものです。確かに、私共は突然の嵐に襲われる時、慌てふためきます。不安と恐れにさいなまされます。しかし、その時こそ、不信仰の叫びではありますが、「救い給え」という嵐の中にある私共の声に耳を傾け、「なぜ、怖がるのか。あなたがたの信仰はどこにあるのか」と諭され、嵐を鎮め給う主イエスが共におられることを信じ、その主に全てをお委ねする信仰に生きたいと思います。



 大村善永先生、そして2004年8月に転居されたIさん、2005年3月に天に召された中村清信先生も、そして今年4月、天に召された西原明先生、その他、多くの私共の教会の諸先輩も、「おぼれてもかまわないのですか」という叫び声をあげながらではありましたが、大村善永先生は障碍をもって苦しむ者の叫びの代弁者として、Iさんは政治の世界で、差別と偏見、貧しさの中に生きる者と共に生き、中村清信先生は獄に囚われた方々の教戒師として、彼らの呻きを共にし、西原明先生は自殺するほかないと思い定めるまでに苦しんでいる方の友となって寄り添う者として、そういう信仰に堅く立って、嵐に悩む世界の中にあって、共苦の視点を明確にしながら、このシロアム教会を支え続けてくださいました。私共の教会は、そのような伝統の中にあります。私共もこのような信仰の諸先輩に続く者でありたい、と心から願う者です。今の時代、この教会の存在意義はますます大きくなっていると思うのです。この教会がおぼれて消えることのないよう、祈りつつ励んで参りたいと思います。
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 2009年9月6日 
「一粒のからし種」船水牧夫牧師
マルコによる福音書4章26−34節



 ここには、主イエスのなさった「神の国」についての短いたとえ話が二つ記されております。最初の「成長する種」のたとえは、種が育つのは土が「ひとりでに実を結ばせる」からだ、「神の国」とは、まさにそのように人間の知恵と労働を超えた所で、神の御手の支配の業によってなるのだ、と言われ、そして「からし種」のたとえでは、この小さなからし種の中に、やがてはどんな野菜よりも大きくなるものの全てが隠されているのだ、と主イエスは言われたのです。この世的に見れば、主イエスの群れは、確かにまことに小さな群れだが、神の豊かな恵みの御支配の下で、成長し、大きな収穫が待っている、というのです。



 教会は主イエスを中心とするからし種のような小さな群れから始まったが、やがて発展、成長し、世界を覆う最も大きな宗教教団となった、と「からし種」のたとえを、今の世に当てはめて、世々の教会は、特にローマ・カトリックの学者たちは胸を張るのです。しかし、こうした解釈に批判的な学者は、世界の教会の現状は、「一粒のからし種が成長して、ここに神の国が実現している」と誇れるだろうか、というのです。確かに、「からし種」は、「神の国」のたとえでありまして、これを「この世にある教会」に直接的に当てはめることは危険だと思います。しかし、「この世にある教会」の姿に、主イエスが蒔かれた「福音」という種の豊かな成長を読み取ることは決して間違ってはいないと思います。これまで人類の歴史の中で、キリストの教が犯して来た罪を悔い改めるべきことがあったとしても、です。



 私がこの教会に遣わされて6年半、顧みて、忸怩(じくじ)たる思いがいたします。毎年、礼拝出席者が減少し続け、教勢が低下しているからです。しかしながら、そのことで不安や恐れを抱くということは、神の恵みの御支配を信じていないという罪を犯しているのではないかと、今日のたとえ話を通して、思わされました。

 神が全てを支配され、導いておられる、その御業を誉め称えて生きて行く所に教会は育って行くのです。人間の思い、業を超えて働かれる神への信頼に生きることこそ、信仰者のあるべき姿ではないかと思います。植えた種が順調に発芽しているかどうか、絶えず掘り起こしては、点検し、結局、種を死なせてしまう、それは愚かなことです。

 たとえ、一桁の礼拝出席であっても、そこで「からし種」はしっかり育っている、そのことを信じたいと思います。私共の教会は、誰にも気付かれないような、小さな「からし種」です。しかし、それが「からし種」である限り、「ひとりでに実を結ばせる」力を蓄えているのです。それを信じたいと思います。問題は教会の小ささ、礼拝出席の少なさではないのです。教会を支えておられる神の御支配の大きさに、しっかり目を向けて、教会のかしらなるキリストを見上げて生きる、その信仰の原点に立って教会生活を送りたいと思うのです。神は聖霊の注ぎをもって、私共の教会を支配され、思いもよらない仕方で、豊かな収穫をもたらしてくださることを信じて歩んで参りたいと思います。



 確かに、植物の成長のためには、水をやり、肥やしをやり、雑草を抜き、いつも働かなければなりません。しかし、私共がどんなに一生懸命働いても、根本の所では、自分たちの力ではない、神の恵み、奇跡としか言いようのない神の恵みの御業を思うのです。私共はただ神様の働きのお役に立とうと出来る限りのことをすればよいのです。最も肝心なことは、大切なことは神様がしてくださっておられるのです。そのことに信頼し、そこに望みを持ち続け、主イエス・キリストの恵みに生かされている幸いを分かち合って生きる信仰者の群れでありたいと思います。

 来週、礼拝後、皆で話し合いの時を持ちます。教会の置かれている状況は、この世にある限り、この世の現実と無関係ではあり得ません。その意味では、このシロアム教会は、まことに弱く小さな群れで、いつ消えてもおかしくないほどに、決して楽観を許されない状況にあることは確かです。しかし、このシロアム教会が、神様に導かれ、養われている群れであることを確認し合うことができれば、その信仰に堅く立って祈り、皆で知恵と力を尽くすならば、道は開けることを信じます。
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