←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2009年10月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2009年10月25日 
「東アジアの平和のために立ち上がりなさい」鄭鎭宇牧師
ヨハネによる福音書5章1−9節



 今日ご一緒に読んだお話を見ると38年間、病に苦しむ人が登場します。病気を治したいと、ベトザタの池の傍に座って一生を過ごした一人の男の話が今日の聖書のお話です。

 このベトザタの池には、池の水が動いたその時、誰でも最初に水に飛び込む人は、どんな病気でもすっかり治るという伝説がありました。

 今のようにあちこちに病院があり、医療保険がある時代の話ではないのです。貧乏な人たち、困窮した人々にとって、誰でも一番最初に池に飛び込め!そうすればどんな病気でもすっかり治る。これはとてつもない福音であったでしょう。



 しかし、38年間、病に苦しむ人は、この池で絶対に治ることはありません。何故か。理由は簡単です。そのベデスダの論理は先着順の論理だからです。一番先!勝者独占の論理だからです。今日の言葉で言えば新自由主義の論理だからです。この人が、その深刻な病気を抱えた体で、一番に池に飛び込むことは不可能なことは明らかです。

 今日の東アジアはこの競争主義による重い病気にかかっているのではないでしょうか。すべての社会的価値を競争と効率を優先して突っ走って来た東アジア、日韓両国の中産階級が減り、貧困な人たち、社会的弱者が増大しております。

 皆さん!このベトザタの論理は甘いけれど絶対あの病気の男を治すことが出来ません。お互いに敵対し、競争するこの論理では絶対に歴史を前進させることは出来ません。ベトザタの偽りの論理を今やめなければなりません。皆さん!いつも天使の慈悲は1等にだけ表れます。こんな天使が人間を救うことが出来るでしょうか。このような偽りの論理、先着順の論理、勝者独占の論理が幅を利かせるその池にイエス様が足を止めてくださったのです。



 イエスはその患者に注目し訊ねます。お前は良くなりたいのか?それは、偽りのイデオロギーの中で生きてきた、その人の38年の歳月をその根本から問う質問なのです。お互いを敵対視し、競争すればうまく生きていけるという、その偽りのイデオロギーをもう一度問い直せ、という言葉ではないでしょうか?

 お前は本当に治りたいか?お前は本当に健康な世の中、平和な東アジアを望むのか?お前は本当に正義と平和の世の中、正義と和解の歴史を望むのか?あらためてキリストが私達に問いかけておられるのです。

 彼は主イエスの問いかけに、「先生 だけど水が動くとき私を池に入れてくれる人がいないんです。私が自分で行こうとしている間に他の人が水に入っちゃうんです。」この言葉は真実です。熾烈な競争の秩序の中で彼は落伍するほかありません。彼が38年間、あのベドサダの池で壮絶に悟った真実。それは自分の病気が治らないのは自分を池に入れてくれる人がいないからだ、そして私より先に池に飛び込むやつのせいだ、体の痛みよりもっと痛むのはこのことかもしれません。ここに、自分の存在を恨み、さらに恨みを塗り重ねるほかない一人の男の壮絶なもがきが見えないでしょうか?



 イエスは最後に言われました。「起きて寝床を払いのけて行きなさい。」自分の不幸が人の存在に在るのだという錯覚の寝床を払いのけて起ち上がれ。私の不幸は人のせいだというあの錯覚の寝床を払いのけ起ち上がらなければなりません。

 平和は、先着順の論理 競争と勝者独占の弱肉強食の法則から来るのではありません。本当の平和は共同し、協力しながら一致して和解するところから来るのです。私達が一緒に握り合う手、そこに平和が来るのです。弱い力が一緒に手をつないで新しい東アジアのために新しい道に踏み出す、そこから、私達がたとえ力弱いものであってもソウル、東京で、一緒に責任をおって歩み、祈るそのところから平和の新しい歴史があけてくるのです。

 そうです。今日私達が一緒に礼拝し学ぶこの所から長い葛藤と反目の歴史を歩んできた東アジアの古い寝床を振り払って平和に向かって起ちあがる新しい出発のベドサダにしようではありませんか。最近の東アジアは新しい転機にあります。最近の日本の変化がその点を示唆しています。私達はもう一度固く手を結びましょう。

 寝床を振り払い起ち上がり歩め!反目し、敵対するその寝床を振り払って起ちあがれ、と主イエスは言われます。他人のせいにし、お互いを非難するそんな寝床を振り払って起ちあがれ。甘いけれど決して平和を実現することの出来ない、その錯覚の寝床を振り払って起ち上がれ。

 他人のせいだという偽りの論理が作り出した病にかかっている反平和の東アジア、その寝床を振り払って起ちあがれ。平和な東アジアのために新しく手を握り力強く立ち上がれとベドサダで足を止められたイエス様が今私達に命じていらっしゃいます。 アーメン。(文責 船水牧夫)
目次に戻るページトップ
 2009年10月18日 
「不信仰の壁」船水牧夫牧師
マルコによる福音書6章1−6節a



 主イエスはガリラヤ伝道の一環として生まれ故郷のナザレに立ち寄られ、安息日に会堂で説教をなさいました。主イエスの説教を聞いた人々の反応が2節以下に記されております。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

 会堂に集まった人々は、主イエスの説教を聞いて、どこでこのような深い知識と知恵を身につけたのかと、その説教の力強さ、知識の深さに驚きはしましたが、ただの人と信じ込んでイエスと、今のイエスの言葉と業の素晴らしさのギャップをどうしても埋めることができませんでした。



 もし主イエスが、あの荒野でサタンが勧めたような姿の人間として故郷に戻って来たならば、躓くことはなかったはずです。それどころか、大歓迎されたはずです。すなわち、石をパンに変えて人々に与える社会事業家、強大な権力を一手に収めている大政治家、いかにも神々しく見える大祭司といったような宗教界の大人物、そのような華々しい姿であったなら、ナザレの人々は主イエスの前にひれ伏したことでしょう。

 しかし、故郷の人々の目に映るイエスの姿は、何のカリスマ性も持たないごく平凡な貧しい田舎の大工でしかないのです。人々はその判断、枠組みを絶対としてしまったのです。そこではもはや真実の主イエスの姿を見ることはできないのです。

 彼らは主イエスの驚嘆すべき知恵と力を目の当たりにしつつも、そこに神の御力が働いていることを見ることができなかったのです。従って、主イエスに教えを請うなどとは考えもしない、ましてや彼に膝を屈めることなどあり得ないとしたのです。そのようにして彼らは主イエスに躓いたのです。



 主イエスの知恵、奇跡、それはイエス御自身が神そのものであられたから、ここに持ち運んで来られたのです。主イエス・キリストは神の独り子であって、人類の救いのために、罪から人類を救うために全き人としてこの世に来られたのです。すなわち家畜小屋で、乙女マリアより生まれ、ナザレの村で育ち、大工となり、30歳の時より神の国の福音を宣べ伝え、一年、長くとも三年の伝道活動をして人々の痛み、苦しみ、悲しみを引き受けられ、私共の罪を担ってくださって、御自分を全き捧げ物として十字架上で私共の罪を贖ってくださり、死なれました。その主イエスを神は三日目に甦らせ給うて、私共に罪からの解放と、永遠の生命に生きる希望を確かなものとしてくださったのです。

 私共は、そのイエス・キリストを神と呼び、救い主として信じ、礼拝しているのです。ここでもう一度、私共の内にある「不信仰の壁」を取り払って、思いを新たにして、、自分たちの礼拝の場所を整え直し、一つ心となって、主イエス・キリストに対する信仰を言い表して参りたいと思います。



 ナザレの人たちは、自分たちの常識、既成概念、動かし難い枠組みにとらわれて、真実が見えなくなっていたのです。真実に接しても、それを受け入れることができなかったのです。まさにマタイによる福音書13章14節にある、「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」とあるイザヤの預言が彼らナザレの人々に見事に当てはまってしまったのです。

 今日の私共の社会も同じだと言えます。神の言葉は、自分たちの常識や既成概念、こういう枠組みを踏み越えたところにあるのです。それに気付かなければ、不信仰の壁に押し潰されて、真実に神の言葉を神の言葉として聞き取ることはできないのです。 私共シロアム教会が、不信仰の壁を乗り越えて、いつも確かな信仰に立ち続けて行くために、毎週の礼拝を重んじ、私共の救い主、神の独り子イエス・キリストを信じる信仰に生きて参りたいと思います。
目次に戻るページトップ
 2009年10月11日 
「知恵ある心を与えて下さい」小林久美神学生
詩編90編1−12節



 私たちの人生はそれぞれ問題があり、苦難があり、悲しみがあり、理不尽な思いにさいなまれ嘆くという場合があります。しかし私たちは問題に対して、その本質を見極めることなしに、困難からの回避の方法を考えるようになったりする場合があるのではないでしょうか。

 詩篇90篇を読むとき、私たちは時にこの詩人の心に共鳴し、共に叫びます。「生きていても苦しいことばかりではないか」そのような疑問を持ち、自分のうちを探り、問いかけてみても答えはありません。考えれば考えるほど、「人生は空しい」そのように、時に思えてしまいます。



 古代ヘブライ人においては、長い年月、死んだら人は土に帰り、先祖の列に加えられるのだ、とさして死に対する疑問をもたず、生きておりました。

 しかし、バビロン捕囚以降、引き裂かれるような民族の悲しみの中で、「何故このようなことが起きるのか」という問いかけが起こるようになりました。それは、侵略をしてきた他の国の、合理的で物事を秩序立てる考え方の影響も大きかったのです。そこから、聖書、ヘブライ人の思想の中に、論理的に物事を考え、ものごとを内省し、自分の心で事実を見つめ、「何故」という神への問いかけが生まれ、民族の捕囚、離散、迫害という苦難の意味を、問いつつ、神を求め、「神の知恵」を求める心が生まれていきました。すべては創造主なる神の御手のうちにあることを知ること――このことこそが聖書が語る「知恵」なのです。「知恵」というのは、神から来る知恵、神の知恵であり、「知恵ある心」とは、「主を畏れること、すべては創造者なる神の支配の中にある」ということを知ることから始まる心です。



 私たちが自分自身に降りかかる問題にただ揺さぶられ、この世のものさしで自分自身を見つめるとき、行き着くところは虚無でしかありません。自分自身を探り続けても、どこまでいっても空しいのです。

 しかし、私のすべては創造主なる神の御手の中にあるのだ、と知り、私の隠れた罪までも、神の御顔の光のうちに露にされていることを知るとき、それほどまでに、創造主なる神に、私たちが覚えられていることを知るとき、私たちは自分の人生は空しく過ぎ去るのではない、ということを知るようになります。

 私たちが神に信頼して、御前に、自分自身のすべての問題を差し出すとき、私たちのすべては、神の「賜物」に変えられるのです。そして、私たちは、「私」であることを喜び、神からの知恵をますます与えられ、神の祝福のもとを生かされていることを私たち自身が知ることができるようになるのです。



 アダム以来の人間の罪は重い。しかし、私たちは自分の罪に押しつぶされる必要はありません。私たちの罪を代わって担ってくださる方が、私たちをとことん愛してくださっている方が、私たちの傍らにいてくださいます。私たちの罪を、主イエスは十字架の上で負われました。イエス・キリストの十字架と復活こそが、人間の思いを超えた、人間の救いのための、神の究極の知恵であったのです。

 私たちは大胆に、生き、神に委ね、どんなときにもあきらめることなく、生涯の終わりまで、復活されたキリストのうちにあるものとして生きたいと願っています。
目次に戻るページトップ
 2009年10月4日 
「信仰があなたを救う」船水牧夫牧師
マルコによる福音書5章25−34節



 「12年間も出血の止まらない女がいた」、たったこの一行に、この女性がどんなにか辛い病を負って生きて来たかを思わせられます。12年間というのですから恐らく彼女の青春時代は真っ暗であったでしょう。肉体的な苦痛のみならず、治療のために全財産を使い果たしてしまったというのです。それでも治らなかったのです。

 不正出血という婦人病は、ユダヤの律法では、存在自体が神の前に清くない者、「汚れた者」「罪人」という残酷な烙印を押されたのです。彼女は、自分は汚れた人間であって、社会から疎外され、神からも呪われているという絶望、虚無感に支配され、生きる望みさえ失っていたと思うのです。彼女、そして家族の苦しみ、嘆きは如何ばかりであったかと思うのです。

 そういう中で、彼女も又、ナザレ人イエスの評判をどこかで聞いたのでしょう。すなわち、障碍や病に苦しむ人を癒し、貧しい人、差別されている人の仲間となって神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせている人がいる。ひょっとしたらあのお方は救い主メシアではないか、そのような噂を耳にしたのでしょう。



 主イエスが会堂長ヤイロの家に向かわれたのを知った群衆は、主イエスのなされる業を見ようとゾロゾロとついて行きました。彼女は千載一遇のチャンスとばかり、その群衆に紛れこみ、「後ろからイエスの服に触れた」のです。そっと触れて、癒されればもっけの幸い、癒されなくとも元々という彼女なりの計算が働いたのではないでしょうか。深く傷ついた者はいつの間にか、そうした防衛本能が働き、少しでも傷つくまいとしてしまうのです。

 29節に、その結果が記されております。「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」彼女のしたことはただ、主イエスに知られないよう、そっと服に触れただけです。

 しかし、主イエスは直ちに気づかれました。主イエスは人の心の中の最もかすかな叫び声をも聞き逃されないお方であることを、ここで示される思いがいたします。主イエスは、失われた一匹の羊を捜す羊飼いのように、切実な思いで頼る一人の苦しんでいる者を捜し出そうとされたのです。

 主イエスは秘かにした彼女の行為を責めることなく、優しさに満ちた言葉を彼女にかけられました。34節、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 不安と絶望、悲しみと空しさの中で、恐る恐る触れたにもかかわらず、それを愛をもって受け止めてくださる主イエスの姿をここに見る思いがいたします。



 主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。ここでの彼女の信仰とは何でありましょうか。主イエスはワラにもすがる思いで、御自分の服に触れた女性を、ユダヤの律法に従って「汚らわしい」と打ち払うこともなく、癒され、声をかけられました。12年もの長きにわたって婦人病に苦しみ続けて、身も心もズタズタにされ、絶望の極みにあった、この女性に主イエスは目を留められ、声をかけられたのです。ここに主イエスの愛の姿があるのです。「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」この言葉の中に、主イエス御自身が、この女性の痛みと悲しみ、苦しみを共有されようとしたばかりではなく、彼女の弱さ、彼女の罪をも、身代わりとなって御自分で担おうとの決意が示されている、と思うのです。

 主イエスは、私共の病や死への恐れ、絶望、無力感、不信仰、罪一切をお引き受けになられて、従容として十字架への道を歩まれ、死なれました。神はその御子イエス・キリストを死より甦らせて、私共に罪の赦しを宣言してくださり、私共を永遠の命へと招いてくださっておられます。私共のあるがままをまるごと担って、受け入れ、私共を救いへと迎え入れてくださる主が共におられることを信じ、その主に全てをお委ねして生きる信仰に生き続けて参りたいと思います。
目次に戻るページトップ