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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2009年11月29日 
「人を汚(けが)すものは何か」船水牧夫牧師
マルコによる福音書7章1−23節



 ユダヤ人社会にあっては食事の前に手を洗うのは、衛生上の理由というより、この世の汚れに染まった手で食事を取れば、汚れが食べ物に移り、体の中にまで入ってしまい、自分自身も汚れてしまう、それゆえ食事の前に手を洗うことに関して厳しい作法、掟があったのです。そこでファリサイ派の人々や律法学者たちが主イエスに尋ねたのです。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

 これに対して主イエスはイザヤ書を引用しながら、宗教的指導者たちが如何に神の御心から離れ、人間の作った戒めでもって人々を縛りつけ、差別しているか、それどころか、神の掟を逆に破っているか、その欺瞞性、偽善性を激しく、怒りを込めて批判しているのです。

 そして、主イエスは群衆を呼び寄せて言われました。「外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(15節)。主イエスはこれによって、レビ記に記されている食物に関する規定を全て廃棄されました。これはイスラエルの宗教的指導者に取りまして、許すべからざる暴言でありました。



 主イエスがここで明らかにしておられるのは、自分が汚れるのは、汚れた物に触れたから、当時、罪人とされていた異邦人や徴税人、娼婦、病気や障がいを持った人と接したから、という考え方は根本的に間違っている。人間存在それ自体が汚れたものであって、外の汚れに染まったから汚れたのではない、と言われたのです。

 それゆえ主イエスは、宗教上の理由で賤しいとされた職業の人々、そして異邦人や重い皮膚病の人、障がい者に対する偏見、差別を止めよ、神は全ての人を愛しておられる。従って彼らを差別したり、交わりを拒否する者は、自分を愛するように隣人を愛しなさい、という律法で最も大切な戒めを破っている、神の言葉を無にしている。そう言われただけでなく、実際、主イエスはそうした人々の間に生きられたお方でした。



 主イエスがここで問うておられるのは、人間を汚すもの、それはあなたがた自身の内にある汚れではないか、ということです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」、この言葉は、清めに関する多くの戒めと言い伝えを廃棄するだけではなくて、宗教そのものへの根本的変革を求めている言葉だと思います。

 宗教は一般的に、形式さえ整えれば、それで清められる、救われるという考え方を致します。供養すれば、功徳を積めば、御布施をすれば、お祓いをすれば、規則を守れば、礼拝をすれば、清められる、救われるとします。世俗との交渉を断って生きれば清くなると。

 しかし、そんなことはないのです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」のです。人間を損ない、汚すのは外に原因があるのではないのです。自分自身の中に汚れ、罪があるのです。私共は自分の中から出て来る思いと行ないと言葉とによって、他人を傷つけるだけではなく、自分をも傷つけ、汚してしまう存在なのです。そういう惨めな存在、それが私共の本当の姿ではないでしょうか。従って、自分の中にある汚れは自分の力では取り除けないことは明らかです。となれば、外から自分を清めていただくしかない、そうでなければ自分は救われないということになります。



 宗教的指導者たちは、汚れを取り除き、神の清めに与かる道を、ただひたすら神の律法を忠実に行なうことに求め、そのために煩瑣な規定を作り、それだけを大切に守るべきことを教えていたのです。その結果、自らを清いとし、他を裁き、差別する偽善、自己欺瞞に陥っていたのです。

 私共の外からはどうしても取り除くことのできない汚れ、罪を、神の独り子イエス・キリスト御自身が 全て引き受けてくださり、十字架の贖いの血によって私共を清めてくださった。そういう仕方で私共を汚れ、罪から救ってくださったのです。そのイエス・キリストは神の独り子であられたのに、全き人として2千年前、この地上に、私共を救うためにお出でくださったのです。それがクリスマスの出来事なのです。
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 2009年11月22日 
「逆風を受けて」船水牧夫牧師
マルコによる福音書6章45−56節



 今朝の箇所の冒頭、45節に、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のべトサイダへ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」とあります。非常に緊迫した事態が起きたかのような書き出しとなっています。

 ヨハネによる福音書の並行記事によりますと、主イエスが5千人の給食の奇跡をされたのを人々は目の当たりにし、ローマ帝国の圧政から軍事的に解放し、神の民イスラエルの復興と繁栄をもたらす指導者としてイエスを担ぎ出そうとしたとあります。確かに、貧困と抑圧からの解放、パンの問題は私共にとって揺るがせにできない事柄です。主イエスもその問題に無関心ではありませんでした。だからこそ弟子たちを用いて5千人に給食の用意をさせたのです。

 しかし、主イエス・キリストが父なる神から託された使命は、私共の罪の贖いのための十字架への道にありました。神に背き、罪の中で滅びに至る道を歩んでいる私共人類を、神との正しい交わりに回復させ、永遠の命に与らせるために、マリアの子としてこの地上の歴史の中に生を受け、全き人となられて、私共の罪を担い、罪の贖いとなられて、私共を罪から救い、神との和解をもたらす十字架への道を歩まれたのです。

 弟子たちは、主イエスの真実の姿が分かりませんでしたから、群衆に煽られて主イエスをこの地上の王に祭り上げることに加担する危険がありました。それを避けるために主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗せたと思うのです。弟子たちは何故、強いられたのか、その時は分からなかったことと思います。



 強いられて船出した弟子たちでしたが、湖の真ん中まで来た頃、逆風が吹き始め、いくら漕いでも進まないという不安と恐れの中で明け方を迎えたのです。

 陸地におられた主イエスは、48節、「ところが逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。」逆風のためにどうしても前に進むことのできない不安と恐れに心蓋がれていた弟子たちは、波の上を歩いて来られた主イエスを幽霊と思い、脅えたのです。

 そばを通り過ぎようとされた」、ここの所がしばしば問題にされます。なぜ、通り過ぎようとされたのか、それは何よりも主イエスが逆風を鎮めるために来られたのではないということを示していると思います。主イエスは逆風に漕ぎ悩む弟子たちの先頭に立って彼らを導こうとされたということでしょう。



 「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んで」いた、それはまさに私共の教会の現実です。私共一人一人の人生の現実です。私共はいつも漕ぎ悩んでいるのです。そのような私共にとって必要なことは、逆風を順風に変えていただくことではなく、どんなに困難な状況、窮地に陥ったとしても、主イエスがいつも共にいてくださって、先立って私共を導いてくださる、その信仰に生きることではないでしょうか。そこの所で、幽霊ではなく、まことの神との出会いがなされているか、どうかなのです。

 主イエスは、気づかない弟子たちに向かって、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけられました。逆風に漕ぎ悩む弟子たちに近づいて語りかけ給うた主が、どんな時にも生きて私共と共にいてくださるインマヌエルの神であるということは、迫害の嵐の中に生きた初代教会の人々にとっては何にも優って勇気と確信を与えるものであったに違いありません。

 私共も又、この御言葉を自分たちに語りかけられた御言葉として聞き取り、今も、生きて私共と共に働いてくださる主イエス・キリストを信じ、その主に従う者でありたいと思います。人生の逆風が吹き荒れる中にあっても主が共にいてくださるという奇跡が今、ここに起きている、そのことを感謝しつつ、主と共に歩む幸いに生きたいと思います。
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 2009年11月15日 
「祝福された食事」船水牧夫牧師
マルコによる福音書6章30−44節



 主イエスは、伝道に遣わされた緊張と不安に心も体も疲れ切って帰って来た弟子たちを休ませるため、舟に乗って人里離れた所に行こうとされました。しかし、それを見ていた人々は先回りして主イエスの一行を待ち受けていました。

 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められ」(34節)ました。主イエスは、救いを求めて殺到している群衆をはらわたが痛むような思いを持って受け止められたのです。

 弟子たちは、日も暮れて来たので群衆を解散させ、家に帰らせ、それぞれ食事をさせようと主イエスに提案しました。「これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えにな」(37節)りました。弟子たちには、主イエスのご命令が、非常識極まりないものに思えました。

 弟子たちは、自分たちの仕事は人々に霊的な食べ物を提供することであって、肉の糧を与えることには責任がないと考えていたのです。しかし、主イエスは、あなたがたには飢えた人々に食べ物を与える責任があると宣言されたのです。

 これは今日、私共の教会の問題でもあると思うのです。今、日本で起きている貧困、格差の問題は極めて政治的な事柄であるから、政治の世界に委ねよう、教会は心の平安について教えていればよいのであって、平和の問題は政治の世界に任せ、教会はそれに深入りすべきではない、と主張する人がおります。しかし、それは教会のこの世に対する責任回避ではないかと思うのです。



 主イエスから食べ物を与えるのはあなたがたの責任だと言われた時、「弟子たちは、『わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った」(37節後半)のです。「食べ物を与えなさい」、と言われますが、現実的にそれは不可能ではないかと弟子たちは言うのです。

 主イエスは更に言われました。「『パンは幾つあるのか。見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て言った。『五つあります。それに魚が二匹です』」(38節)。これは主イエスと弟子たちの一食分に相当します。まず自分たちの食べ物すべてを人々に提供する、そこからこの奇跡物語は始まるのです。

 主イエスは、人間の尺度でしかものを考えられない弟子たちを、信仰の世界へと召し出したのです。神はそれが御心に適ったものであれば、それがたとえどんなにわずかなものであっても、それを率直に神の前に差し出すならば、神はそれを豊かに恵み、必要を満たしてくださるのです。

 弟子たちが、男だけで五千人もの人々に差し出したのは、わずかパン五つと、魚二匹だけでした。それしか持ち合わせがなかったのです。しかし、主イエスは無きに等しい彼らの食べ物を用いて奇跡を起こしてくださったのです。私共が持っているのはわずかなもの、取るに足らない、出すのも恥ずかしいようなものでしかありません。しかしそれを主の前に差し出すならば、主イエスはそれを祝福して奇跡としか思えないような豊かな有り余るほどの恵みをくださることを今日の箇所を通して教えられます。



 主は、この小さなシロアム教会を豊かに恵み、祝福し、皆さんを用いようとなさっておられることを信じます。この教会は人数が少なく、力もない、伝道をしようとしても困難だ、教勢も上がらないとつぶやく、嘆き、あきらめ、「たった五つのパンと二匹の魚、これじゃどうしようもない」と、あるものすら主の前に差し出そうともしない、それこそ不信仰そのものだと思うのです。

 たとえわずかなものであっても主に信頼して、差し出すならば主はこれを祝福し、豊かに用いてくださる、この信仰に生きたいと思うのです。そうするならば、シロアム教会も又、主の恵みの大きさを体験することがきっとできると思うのです。あれがない、これがない、と不平不満を言うのではなく、「主よ、あなたの恵みは私共にとって十分です」と、今ある恵みを数えながら、精一杯自らの賜物を差し出して、主に仕えて生きる者でありたい、そう思うのです。
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 2009年11月8日 
「偽りの権威に抗して」船水牧夫牧師
マルコによる福音書6章14−29節



 今日の箇所は、ユダヤの領主とその家族が、自分たちを批判する者を権力を用いて捕らえ、そして裁判にかけることもなく、権力者の誕生日の余興の一つのようにして殺してしまったという事件です。殺されたのは洗礼者ヨハネです。

 なぜヘロデ・アンティパスがヨハネを殺したのか、18節以下にその理由が記されております。「ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。

 そのことで、ヘロディアはヨハネを深く憎み、ヨハネを殺したいと思っていました。その良い機会が訪れました。ヘロデ王の誕生日の祝いの席で、ヘロディアの連れ子が王の前で踊りを披露し、ヘロデを喜ばせたのです。そこで王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と告げると、少女は母親に相談し、「洗礼者ヨハネの首を」と言ったのです。王はヨハネの首を刎ねさせ、少女に渡し、少女はそれを母親に渡したのです。これが洗礼者ヨハネが捕らえられ、殺されるに至った事情です。



 絶対的な権力を持つ者の不義不正、あるいは理不尽な振る舞い、不当な搾取や抑圧、差別を見て見ぬ振りをし、沈黙するか、当たり障りのないことを言っていれば安泰なのです。ヨハネもヘロデの振る舞いについて沈黙を守っていれば、捕らえられ、殺されることもなかったはずです。しかし、洗礼者ヨハネは自らの死を覚悟しながらも、この世にあって絶対的権威を誇る者、その相手が王であろうが、誰であろうが、決して容赦はしませんでした。まことに恐れるべきものは神以外にないことを宣言し、不義不正、罪を厳しく指摘し、悔い改めを迫ったのです。

 パウロも又、「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(テモテへの手紙二の2章9節)と記しております。主イエスの弟子たち、パウロ、後の教会は、「捕らえられ、鎖につながれ」ながらも、この世の権力、権威に抗して、キリストの福音を宣べ伝え続けて来たのです。

 従いまして、マルコや、その時代に生きた人たちは、このヨハネ殺害が遠い所で起きた自分たちと関わりのないこととしてではなく、これはまさに自分たちのことだと思ったに違いないのです。あなたがたは私たちを鎖でつなぎ、肉体を殺すことはできる、しかし私たちが語り、私たちを生かす神の言葉は決してつながれることはないし、殺されることもない、そのことをマルコは、ヨハネの死を通して私共に明らかにしている、そう思うのです。



 ヘロデの一声で、ヨハネを鎖に繋ぎ、首を刎ねることもできたヘロデが、実はどんなに脅えて生きていたかが、16節の「わたしが首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」という言葉に示されています。イエスの評判を聞いて、ヘロデは、自分が殺させたヨハネが生き返ったのだと恐怖におののいたのです。

 この世の権力、地位、財産、一見こうした支配の力というものは表面的には強力で絶対的なものに見えますが、それらによっては決して魂の平安を得ることはできないのです。虚無と死、恐れと不安からは免れることはできないのです。

 しかし、信仰、希望、愛は表面的には弱く、無力なものに見えますが、何ものによっても、死によってさえも、打ち破ることはできないのです。ヨハネの手紙一の4章18節に、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」とある通りです。

 この世の権威の代表者ヘロデの誕生日の祝いの席に連なることを良しとせず、ペンテコステの日に誕生したキリストの教会に、今、私共出席している幸いを心に噛み締めながら、神の御心がこの世に実現するよう、この世の不義、不正、偽りの権威に対して、臆することなく抵抗し、声を上げて参りたいものです。
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 2009年11月1日 
「旅には杖一本で」船水牧夫牧師
マルコによる福音書6章6節b−13節



 主イエスは、弟子たちを伝道に遣わすに当たって、「汚れた霊に対する権能を授け」られました。「汚れた霊」というのは、精神的・肉体的病のみならず、人間が人間らしく生きることを妨げるあらゆる力、悪魔的な力を指します。そういう類いの力の支配から人間を解放する権能を弟子たちに付与されて遣わされたということです。

 今、鳩山首相が友愛社会ということをしきりに強調されております。社会的に弱い立場の人々、高齢者、子ども、障碍者、困窮者に目を向けること、皆が助け合って生きる平和な社会の実現が、政治の使命だとおっしゃっておられますが、まさにそれは私共キリスト者がこの世において実現すべく主イエスから託されている権能ではないでしょうか。

 次に主イエスは旅の装備について述べておられます。旅に必要なお金は勿論、食料も、袋(物乞いや托鉢僧が人からの施しを入れる袋のこと)も、持って行くな、というのです。更に着替えも持つな、杖と履物だけで出かけなさいと命じられました。

 この主イエスの真に厳しい命令は、無所有の勧め、貧困の勧めというより、神に対する絶対的な信頼に生きよ、ということでしょう。あれこれと思い悩むな、必要なものは全て、神様が備えてくださるのだから、人間的な計画や知恵で行動するな、神様の御配慮に信頼し、そこに身を置いて生きよ、ということです。



 更に主イエスは、行った先の家で世話になったら、その地を離れるまで、こちらの家、あちらの家と渡り歩くな、と命じられております。そして、そこでやっかいになりながら、神の言葉を語り続けよ、というのです。

 それは私共の生活を全てさらけ出しながら伝道する、証しする、ということを意味します。自分の語るその言葉に自分の全存在がかかっているかどうか、それが相手に見えている、そういう状態の中で語らねばならないのです。

 それは私共が家庭で、職場で、地域で、どこまで真実に神への信頼、神の配慮に対する全き信頼に生きているかが問われていることを意味しております。

 それはある時は真に厳しい試練という形で、ある時は物質的な豊かさの中で、順調な生活の中で神を見失う危機の中で問われることもあると思うのです。いずれに致しましても私共の存在と言葉が、主イエスに召し出され、主に遣わされて生きる者として、どこまで一つのものとなっているかが、問われているということです。自分自身のキリスト者としての生き方が好むと好まざるにかかわらず、周囲の人々に対して証しとなり、又、躓きともなり得るわけです。



 主イエスが伝道を開始された時の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)、でした。これは「神の支配が始まっている」という宣言です。神が約束してくださっている平和を受け入れ、悔い改めよ、それを伝える使者として弟子たちは遣わされるのです。

 神が生きて働き、私共と共にいてくださる、そのことが信じられる時、そこに真の平和、真の救いがあるのです。そのことを明らかにするのが私共教会の務めではないでしょうか。主イエスは、そのような神の国の福音を伝え、悔い改めを勧める使者として弟子たちを遣わされたのです。私共はただ、その神の御業に召され、遣わされているのですから、感謝しつつ、畏れをもって精一杯、出来る限りのことをなし、後は祈って、神様に全てをお委ねしたいと思います。

 主イエスがお遣わしになった12人は、おそらく生身の人間が裸の姿を見せ合って信仰者として生きることの難しさと同時に、自分たちの力や思いを超えて働かれる神様の大きな御業を、喜びと感謝をもって経験したことと思います。それは又、私共の経験しているところでもあります。

 今日、この召天者記念日に当たり、もう一度教会の原点、主イエスに遣わされて、キリストの平和の福音の証人として、この地にあって、あらゆる悪魔的な力を打破する権能を与えられた者として、神の恵みと祝福の御支配がこの世に満ち溢れるような働きをして行く群れとして共に歩んで参りたいと願う者です。
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