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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2009年12月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2009年12月27日 
「恵みの御手に導かれて」船水牧夫牧師
マルコによる福音書8章22−26節



 主イエスの一行が、ガリラヤ湖のほとりにある村べトサイダに着くと、人々が一人の盲人を主イエスの下に連れて来ました。そして「触れていただきたい」と願ったのです。23節を見ますと、主イエス自らその人の手を引いて村の外に連れ出して、目が見えるようにしてくださった、とあります。

 主イエスの恵みの御手に導かれて、この盲人は村の外に連れ出され、主イエスと向き合い、そこで徐々に目が開かれて行きました。信仰もそうだと思います。少しずつ見えて来る、主イエス・キリストと自分の関係はどうなのか。そして自分の人生はどうなって行くのか。あまり急いで、全部分かろうとする必要もない。教会に、聖書に誠実に関わる中で少しずつ、信仰というものが何であるのか見えて来る。それで良いと思うのです。信仰も最初はぼんやりとしか分からないが、だんだんはっきり分かって来る。主イエスによって目が開かれて行く。これはこの盲人だけのことではなく、弟子たち、そして私共すべてにも言えることだと思うのです。



 今、私共はクリスマスシーズンの中にあります。主イエス・キリストのご降誕を喜び、祝ってはおりますが、その意味がぼんやりとしか分かっていない、見えてはいないのではないか、そのことを恐れる者です。
 主イエスの側近くにいて、従っていた筈の弟子たちもぼんやりとしか主イエスの本当のお姿が見えておりませんでした。主イエスの権威ある教え、数々の力ある業、群衆が主イエスの下に押し寄せて来る、その主イエスの栄光の姿に酔い痴れ、自分たちも何か偉くなったかのように錯覚していたのです。主イエスが十字架への道を歩んでいるのに、彼ら弟子たちは何か甘い、この的な称賛が待ち受けているような錯覚をしていたのです。弟子たちもぼんやりとしか主イエスの本当のお姿が見えていなかったのです。もう一度、主イエスに両手を眼に当てていただく必要があったのです。

 その弟子たちも主の十字架と復活を通してはっきりと目が開かれ、生涯、主に従い、主を証しする者となったのです。

 白内障の手術を受けて、眼がはっきりと見えるようになって、曽野綾子さんは「この世に生きているのかどうか分からなくなるほど、泣いた」と書いております。しかし、肉体の眼が開かれる喜びにもまして、神の愛と恵みを知ることのすばらしさを思うのです。



 「何か見えるか」、主イエスは、今も私共に問うておられるのではないでしょうか。大群衆に語りかける栄光の主イエス、クリスマスの賑わいと華やかさの中心にいるイエスを見ているのであれば、それはぼんやりとしか見ていないことになります。

 自分の眼にある濁り切った水晶体を取り除き、主イエス様から与えられた水晶体を眼に入れていただいて、私共の悲しみ、苦しみ、辛さ一切、何よりも私共のどうしてみようもない罪を負われて十字架へと歩まれる主イエス・キリストをはっきりと見て、自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う者でありたいと思います。その主の愛と恵みを感謝しながら、新しい年、この教会が、そして私共一人一人が望みを持って主に従う者でありたい、そう心から願う者です。

 そして、22節に「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て触れていただきたいと願った」とありますように、この人々のように私共の教会は、この世にあって弱い立場の人、差別されている者、苦しむ者、悩み悲しむ人と共に生き、主の恵みの御手に導かれて、重荷を負う者と共に生きる教会としての歩みを、これからも続ける教会であってほしいと心から願っております。もし、それを望まないならば、シロアム「遣わされた者」という名前は返上すべきだと思います。
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 2009年12月20日 
「感謝と賛美に満たされて」船水牧夫牧師
マルコによる福音書8章1−21節



 今日の箇所は、既に学びました6章30節以下の5千人の給食と大変よく似た奇跡物語です。しかし、6章がユダヤ人の地でなされた奇跡であるのに対して、ここは主イエスが異邦人の土地でなされた奇跡だと思われます。耳が聞こえず、舌の回らない人を主イエスが癒された、そして飢えた異邦の民に食べ物を与えられたという記事は、全人類が神の子イエス・キリストの恵みと祝福に与かることを象徴し、又、予告しているものだと言えます。

 マタイによる福音書には、異邦人である東方の占星術の学者たちが主イエスの誕生に立ち会い、幼子をひれ伏して拝み、喜びに溢れたとありますが、主イエス・キリストが全ての人々、全人類にとっての救い主であることが、誕生の記事に、そして今日の箇所にも示されていると言えます。



 主イエスは、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう」(2,3節)、と言われました。主イエスと共に三日間も荒れ野にいる異邦の民が、パンの備えも底をつき、空腹であることを御覧になられて、彼らの日用の糧について、心が痛むほどに憐れまれたのです。それに対する弟子たちの反応は冷ややかでありました。4節、「弟子たちは答えた。『こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。』」

 しかし、主イエスはそこにあった「七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しにな」りました。また小さな魚が少しありましたので、それを取り、讃美の祈りを唱えて、それも群衆に配るようにと弟子たちにお渡しになりました。すると8節、「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた」というのです。



 主イエスは私共に必要な全てを御存じであり、豊かに備えてくださっていることを覚えたいと思うのです。それは全ての人に及んでいるのです。その全ての人々を深く憐れみ、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と言われた主イエスは、御自身の命を、命のパンとして私共に捧げ、十字架におかかりになり、私共を永遠の命へと招いてくださっているのです。ペトロの手紙一の5章7節には「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」とあります。どのような時にも、いつも私共のことを心にかけ、私共の思いを超えて深く配慮してくださっている主に信頼して生き、その主を証しして参る者でありたい、そう心から願う者です。

 今、世界の四人に一人が、食べるものがなくて、苦しんでいることを知っている私共です。そのような人々のために、今も主イエスが心激しく動かされ呻いておられることを思う者です。そのような人々がいることを知りつつ、「いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と冷ややかに言い切って平然としている自分の心を深く恥じる者です。共に主イエスの恵みの業に驚き、感謝と賛美に満たされて、主イエスより渡されるパンを喜んで互いに分かち合う信仰に生きたいと思います。



 イエス・キリストの誕生を祝うのは、神が御子を私共人類を救われるためにこの世にお遣わしになられた神からのプレゼント、命のパンだからです。御子は人間的弱さ、悲惨さの極みに至るまで私共と一つになられ、共に苦しまれ、担われて、十字架と死と復活を通して、私共を罪と死から解き放ち、永遠の命に通じる道を開いてくださったのです。

 このキリストと結びつく時、私共の人生は全く新しいものになるのです。これはまさに奇跡としか言いようがありません。そしてこのあり得ない奇跡が今、ここにいる私共にも起きる、クリスマスはこういう希望のプレゼントが贈られる時なのです。この喜びを一人でも多くの方々と共に分かち合いたいものです。
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 2009年12月13日 
「讃美を聞く耳、語る口」船水牧夫牧師
マルコによる福音書7章31−37節



 創世記にある天地創造の記事に、「神はお造りになったすべてのものをごらんになった。見よ、それは極めて良かった」(1章31節)とあります。

 この「良かった」という言葉は、今日の箇所の37節にあります「すばらしい」と同じ言葉です。ですからデカポリス地方の人々は、主イエスのなさったことに驚き、すべてすばらしい、すべて良いことだとして誉め称えたのです。

 ハイデルベルク信仰問答の問5の答えに、「我々は生まれつき神と隣人を憎む傾向にある」とあります。問6ではそれを受けて、「そうだとすれば、神は我々をそんなに悪く造ったのか」と質問しております。その答えは、「まことにご自身の姿に似せて、正しい清い者にお造りになった」です。これは創世記1章27節にある、「神はご自分にかたどって人を創造された」とあるからです。問6の答えでは、さらに、「神を自分の造り主として正しく知り、心から愛し、神と共に永遠の祝福の中に生き、神を誉め称えるようにしてくださっている」とあり、人間は特別な身分を神から与えられている光栄ある、すばらしい存在、極めて良い存在として造られたというのです。



 人間は本来、神によってすばらしい存在、極めて良い存在として造られた、これが私共の信仰の基本です。しかし、主イエスが、「人の中から出て来るものが、人を汚す」と言われたように、私共の心にある罪が私共を汚してしまっているのです。神によって正しい、清いものに造られた人間が、自らの罪によって自らを汚してしまっている、変質させてしまっているのです。

 主イエスがこの世にお出でくださったのは、人間をその罪から解き放ってくださるためでした。耳が聞こえず、舌が回らない人を癒された主イエスの御業を目の当たりにして、改めて、人間が本来持っているすばらしさに気付かされた、そして人間を造り給うた神のすばらしさに感嘆の思いを込めて「すばらしい」とデカポリス地方の人々は賛美の声を挙げた、そう思うのです。



 耳が聞こえず舌が回らないということは、本人にとって、又、ご家族や周囲の人たちにとってどんなにかつらいことであったかと思うのです。しかし、私共もある意味では、この人のように聞くことも、話すことも十分にはできてはいないと思うのです。8章で主イエスが、弟子たちの頑迷さを嘆いて、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(18節)、と弟子たちを叱っております。他人事ではないように思うのです。

 私共は相手の本音を聞くことも、自分の本音も相手に十分に伝えられない。そういうつらさ、悲しさをいつも経験している、それが私共の現実ではないでしょうか。

 神によって、神にかたどって造られ、神との人格的応答存在として、愛と真実を持って神と親しく交わることが許されているすばらしい存在として造られた私共が、罪のゆえに神の言葉を聞き取ることも話すことも十分にできない。人間同士でさえ愛と真実をもって対話ができない。そういう私共に向かって、主イエスは私共一人一人を神の前に立たせて、「エッファタ(開け)」、と語りかけ、神との、そして人と人との真実の交わりを回復させてくださった、そのことがここでなされた、ということを思うのです。



 この時、主イエスは「天を仰いで深く息をつ」いたと記されております。天を仰ぐというのは、神への祈りの姿勢を示し、深く「息をつ」くというのは、口語訳聖書では「ためいきをついて」と訳してありますが、これは「うめき」とも訳せる言葉です。人間は本来、神にかたどって造られた、すばらしい良い存在として造られた。にもかかわらず、人間の罪のゆえに正しく聞くことも、話すこともできない人間となってしまっている、そのことに主イエスが深い憐れみと悲しみ、うめきをもって神に執り成しの祈りを捧げて、「エッファタ(開け)」と言われて、癒してくださったのです。

 「エッファタ(開け)」とは、罪と死によって閉ざされた私共の惨めな人生からの解放を告げる福音の言葉です。そのために主イエス・キリストがこの地上にお生まれになられたのです。このクリスマスの時、「賛美を聞く耳、賛美を語る口」をもって、ご一緒にクリスマスを喜び祝いたいと思います。
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 2009年12月6日 
「主よ、しかし」船水牧夫牧師
マルコによる福音書7章24−30節



 今日の箇所の冒頭に出て参りますティルスという町はローマ帝国の属州シリアの代表的な港湾都市です。なぜ、主イエスがそこへ行かれたのか、謎とされております。おそらくエルサレムから来たファリサイ派の人々や律法学者たちの欺瞞、偽善性を暴露したために、彼らから激しい憎悪、殺意を受け、主イエスは一時、外国に身を隠された、避難されたということでしょう。

 しかし、それだけの理由ではなく、ユダヤ人が自らを聖い民とし、異邦人を汚れた民と決めつけ、彼らに触れるだけで身が汚れると考えていたユダヤ人に対して、敢えて異邦の地に入られて、ファリサイ派の人々や律法学者たちの誤った考え方を、自らの行動をもって示されたのだと思います。

 この女性と主イエスの対話を通して、全ての人が神の前にあっては平等であり、神の愛と祝福の下に置かれているということが明らかにされ、いよいよファリサイ派の人々や律法学者たちの偽善性というものが暴露されたと言えます。



 一人の母親が主イエスの足元にひれ伏して、幼い娘から悪霊を追い出してくださいと懇願しました。しかし、主イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と、私共が理解に苦しむようなまことに冷ややかな言葉で拒絶されました。

 主イエスは、自分は何よりも先ずユダヤ人の救いのために遣わされて来た。先ず子供たちが先だ、というのです。異邦人を犬にたとえて、犬にパンをやるわけには行かないと母親の切なる願いを断られてしまうのです。自分たちを犬にたとえられたことに、このギリシア人女性が憤慨して、そこを立ち去ったとしてもおかしくはありません。「ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます』」(28節)。

 何と見事な答えかと思います。こういうウィットというか、ユーモアに満ちた答えを、絶望と失意のどん底で言い得る、この女性の強さ、したたかさを思います。人生のどんな局面にあっても、こういうウィットというか、ユーモアを常に持てる、心のゆとりを確保したいと願う者です。

 この母親は、主イエスのお言葉をそのまま受け止め、「その通りです。確かにあなたは私共、異邦人の救いのために来られたのではない。けれどもユダヤの民に向けられたあなたの愛と恵みはそこからこぼれ、溢れ出て来るはずです。そのお余りで結構ですから分けてください」と、願っているのです。ユダヤの民に注がれている神の愛は、ユダヤの民を超えて全人類を包む愛であることを、この異邦の女性は確信していたのです。



 この女性はイエスを「主よ」と呼び、ひれ伏して助けを求めております。ここには、娘を癒してくださるのはこのお方以外ないという、主イエスに対する全き信頼と望みを持って、自分が何もいただく資格のない小犬に過ぎないことを謙虚に認めつつ、子供たちの落としたパン屑でもよいからくださいと必死になって懇願する姿を見るのです。ここには自分たちこそ、パンをいただく資格のある神の民だと思い上がっているユダヤ人には、決して見ることのできない強い確かな信仰が、食卓を共にすることができない、その資格のないと言われて来たはずの異邦の女性の中にこそ現われていると言えます。

 「そこで、イエスは言われた。『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。』女が家に帰って見ると、その子は床の上に寝ていて、悪霊は出てしまっていた」(29節)。母親が主イエスのお言葉を信じて家に帰りますと、悪霊は滅ぼされ、娘は癒されてベッドで穏やかに寝ていたのです。

 私共は、ユダヤ人のように、祈りを聞いてくださるはずだという傲慢さでもなく、自分は異邦人なのだから神の恵みから遠いのは当然だとして卑屈になって諦めてしまうのでもなく、この母親のように、全き謙遜さをもって、恵みを受けるに値しない罪人であるとの深い自覚を持ちつつ、「主よ、しかし」と、なおも神の憐れみに信頼し続け、テーブルから落ちる子供たちのパンの残りでも、と祈り求める、そういう信仰に生きたいと思うのです。
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