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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2010年1月31日 
「信仰なき我を助け給え」船水牧夫牧師
マルコによる福音書9章14−29節



 主イエスが弟子たちを連れて山を降りて来た世界、それは世俗の喧噪渦巻く世界でした。しかし主イエスは神の子としての栄光の姿に固執することなく、私共を救われるために、敢えてこの汚辱に満ちた世界に踏み入ってくださったのです。山を降りてすぐに、人間の悲惨と苦悩の現実に向き合わされたのです。

 主イエスと三人の弟子たちが山から降りて来た時、丁度、律法学者たちが、弟子たちに向かってののしり、弟子たちがそれに抗弁していた所でした。それを面白がって大勢の群衆が取り囲んで見ていたのです。「何を議論しているのか」との主イエスの問いに対して、事の次第を説明した父親の話を聞いて、主イエスは憤りに似た悲しみを持って深く嘆かれました。

 この父親は、おそらく主イエスならば、この子の病を癒していただけると信じて、ここへやって来たのでしょう。しかし主イエスはおられず、弟子だけがいた。弟子たちは自分たちで子どもを癒そうとして、どんなに努力してもどうすることもできなかった。父親は、やっぱりだめか、という思いでいた所に、イエスが現われ「連れて来なさい」と言うので連れては来たものの、主イエスに対する信頼も薄らいでしまって、「おできになるなら」と言ったのです。



 私共は自分の抱えている問題が大きければ大きいほど、そして大抵の場合、自分の抱えている問題は特別なことで、神様でも助けてくださることはできない、救ってくださることはできないと勝手に判断してしまうのです。この父親の場合がまさにそうでした。激しい発作で引きつけ転げ回り、口から泡を吹く息子をただ、オロオロして見ているほかない父親にとって、この子を何とか癒してほしいという願いは本当に切実なものがあったと思います。しかし、父親は「おできになるなら」と、主イエスに対する不信仰を表明してしまったのです。

 「イエスは言われた。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(23節)。「できれば」という条件を取り去れ、というのです。「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」(24節)。父親はここで「できれば」という条件、不信の言葉を口にしてしまう自分の信仰を悔い改めて、「どうか信じられない私を受け入れ、助けてください」と、願いました。



 この世は不信仰な世界です。それが私共の世界です。この世にあってキリスト者と呼ばれ、自分でもそう告白しつつも、祈ることすら忘れ、オロオロしている、それが私共の信仰です。そのような不信心な者を、神の側から一方的に私共を神の前で義とする道を開いてくださったのです。

 神は、神に真実に従い得ない私共のために、愛をもって救いの道を用意してくださいました。自分の不信心、不信仰へのこだわりを捨てて、すべてを憐れみに富み給う主なる神にお委ねして祈る、そこにしか信仰に生きる道は開かれて来ないのです。自分には信仰に値するものは何もない、そう告白する以外ないのです。ただ神がキリスト・イエスにおいて用意してくださった恵みの業、「十字架による贖い」を信じて受け入れる、それしかできないのです。

 主イエスは言われました。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」(19節)。しかしそう言われて主イエスは私共の不信仰を責め、見放されたのではないのです。30節以下で、主イエスは御自身の受難と死と復活を予告されております。



 罪と、その報酬である死を死ななければならない私共のために、主イエスは十字架にかかって私共の贖いとなられ、救ってくださったのです。

 この信仰のない、よこしまな時代のただ中で、主イエスは御自身の栄光の姿に固執することなく、敢えてこの世の罪と悲惨さを御自身に引き受けられて、苦難と十字架の死を遂げられて、それによって私共の全き救いのための贖いとなられたのです。それによって私共は私共の罪と悲惨、苦しみと死からの全き解放を与えられたのです。そのしるしが十字架上の死よりの三日目の主イエスの甦りの事実なのです。それによって私共は、神の愛と憐れみによって、「信仰なき我を助け給え」と、祈ることのできる者とされているのです。
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 2010年1月24日 
「変容の輝きを知る者として」船水牧夫牧師
マルコによる福音書9章2−13節



 主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子たちだけを連れて高い山に登られました。そこで三人の弟子たちは、旧約聖書の代表とも言うべき二人のイスラエルの指導者、モーセとエリヤ、そして光り輝く主イエスが彼らと語り合っているという驚くべき光景を眼にしたのです。そして「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声を耳にしたのです。

 三人の弟子たちだけが主イエスの復活後の栄光の姿を先取りした形で見ることを許されたのです。そしてこの同じ三人の弟子たちは、ゲツセマネの園で主イエスが十字架の苦難と死を前に苦しみ悶えて祈る姿の目撃者とされたのです。

 山の上での素晴らしい光景に心奪われたペトロは、この高い山の上に三つの仮小屋を建て、この神秘的体験を、そのままいつまでもこの地上に留めておきたいと願ったのでした。それは人間にとって自然な感情だと言えます。下界での生活、それはまことに煩わしく、汚れに満ちたものであり、自分の心の平安をかき乱すものでしかない、自分はただ神を思い、神との交わりの中に生きたい、それがその時のペトロの偽らざる思いであったと思うのです。



 しかし復活された主イエスに出会い、復活の主イエス・キリストの証人となったペトロは、神秘的体験の世界に浸って、「ここにいるのはすばらしいことです」とはもう言いませんでした。彼は大胆にこの邪悪で悲惨な世界の中に歩み入り、非日常的世界ではなく、まさにこの世のただ中で、日常生活、世俗のただ中で、生ける主イエス・キリストと共にこの世に生きる素晴らしさを証しする者となったのです。

 私共も又、この世俗の汚れに染まることによって、自分の信仰も薄汚れたものになりはしないか、そればかりか、ある筈の信仰も失ってしまうのではないかと恐れたり、非日常の神秘的信仰に逃げ込んで、「ここにいるのはすばらしいことです」と言うことのないようにしたいと思います。世俗的なこの世のただ中で、死者の中から復活された主イエス・キリストと共に生きることの素晴らしさの証人として、この世に遣わされる者でありたい、そう願う者です。



 主イエスは栄光の姿に固執しようとはされず、栄光の山を弟子たちを連れて下りられ、この世の悲惨な現実、人間の苦悩、重荷、罪を、御自身の身に引き受けられて、苦難と死への道を歩まれたのです。そして、私共にも神秘的自己陶酔の信仰ではなく、現実の重荷、罪という自らの十字架を担って、主イエス・キリストに従う道を歩むことを求め、示されたのです。「山上の変貌」という出来事は、苦難と十字架の死を前にした主イエスが、御自身がまことに栄光の主メシア、神の子であることを弟子たちに視覚的に明らかにして教え示されたということを意味しております。この「山上の変貌」は十字架と死を突き抜けての命の光に包まれた栄光のお姿であると言えます。

 主イエスは、ここから山を下りて真っすぐエルサレム目指して、十字架への道を歩まれたのです。弟子たちは受難の主イエスを見捨てて逃げてしまいましたが、しかし、復活の主イエスとの出会いを通して神の子イエス・キリストの証人となりました。私共にとって大切なことは、自分の十字架を背負いながら、苦難と死を突き抜けて復活された主イエスと出会うことです。弟子たちも命の光に輝く復活の主イエス・キリストと出会って、真実のイエスの姿、主イエスが私共の救い主メシアであることを初めてはっきりと信じる者とされたのです。



 主イエス・キリストの死者よりの復活の証人として、教会の指導者となったペトロは、栄光に輝く主イエスをこの眼で見た、その体験をもって信仰の仲間を励ます者となったのです。そして山の上で、「これに聞け」という天から響いてきた神の声を聞いたではないか。その言葉を消えない望みの光として、生きようではないか(ペトロ第二 1.16−19参照)、と力強く私共に語りかけているのです。

 私共、主の御言葉に聞きつつ、人間社会から愛と信頼が喪失した物質文明、暗い閉塞感が漂うこの世のただ中で、この世の苦難に満ちた課題を誠実に引き受けながら、自らの十字架を担って、主イエス・キリストの救いの恵みのともし火を高く掲げ、主と共にある素晴らしさを証ししながら歩む者でありたいと思います。
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 2010年1月17日 
「生命の尊さを知れ」船水牧夫牧師
マルコによる福音書8章31節−9章1節



 29節で、ペトロは主イエスの問いかけに答えて、「あなたは、メシアです」と告白致しました。そのペトロの告白を受けて、主イエスは、御自分が必ず多くの苦しみを受け、人々から排斥されて殺されること、そして三日の後に復活することが、神の御心であることを「はっきりとお話にな」られました。

 ところが、主イエスが御自身の受難の道を明らかにした途端、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(32節)のです。マタイによる福音書の並行記事を見ますと、ペトロは、「『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』と言って、主イエスをいさめ始めた」(16章22節)と記されております。

 その時、「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」(33節)。この主イエスの御言葉は、ペトロにとっても、他の弟子たちにとっても全く予想だにしなかった、とても厳しいものでした。

 ペトロは、主イエスに、ローマ帝国の圧制からユダヤ人を解放する王としてのメシアを期待していたのです。その点において、まさにサタンと同じ誘いをもって主イエスの前に立っていたと言えます。サタンはイエスがもっとも信頼を寄せていた一番弟子ペトロを用いて、攻撃を仕掛けて来たのです。

 主イエスが最初に受けられたサタンの誘惑の記事、マタイによる福音書の4章では、「退け、サタン」となっておりますが、しかし、ペトロに対しては、「わたしの後に従う者となれ」と言われております。そして「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)と、弟子たちだけではなく、群衆をわざわざ呼び寄せて言われました。



 ここで主イエスは、「自分の十字架」を、と言っておられます。だれか他の人の十字架ではなく、あなたの十字架がある、それを負って、わたしに従いなさい、と言われているのです。私共がキリスト者として、キリストの十字架のしるしを身に帯びて歩む時、共に負うべき十字架というものがあるということです。

 主イエスは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33節後半)とペトロを諭され、「わたしの後に従いなさい」と言われました。そこには主イエスに従って生きることの厳しさと同時に、私から離れ去ることのないように、という主イエスのぺトロに対する深い愛が示されている、そう思うのです。

 更に主イエスは、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(35節後半)と言われました。ここで言われている命とは、肉体の死によって消滅してしまう命ではなく、死によって終わることのない永遠の命のことです。この「永遠の命」を私共に与えようとされて、主イエスは受難と十字架の死への道を、サタンの誘惑を退けられて、選び取られたのです。そして受難と十字架の死に勝利されて、三日目に復活され、甦りの命の初穂となられたのです。



 36節、37節に「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とあります。私共は自分の命の尊さ、自分の命の値打ちというものを、神の子イエス・キリストの十字架の死を通して、初めて知らされたと言ってもよいと思います。神は私共の内、誰一人滅びることを望まず、そのために愛する神の独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、命の尊さを知らず、自分の、そして他者の命を踏み躙るような罪の中に生きている私共のために、贖いとなられ、まことの命の道を私共に明らかにしてくださったのです。それによって、私共の罪は赦され、義とされ、永遠の命に生きる者とされたのです。私共は主イエスの十字架を通して、自分の命、他者の命が全世界よりも重いものであることを教えられ、その命を愛し、大切にすることが、主に従う道であり、自分の十字架を負うことだ、ということを知らされているのです。

 主イエスは受難と十字架の死を通して、私共に永遠の生命に生きる道を開いてくださいました。その主に従う道を私共も、お互いの命を大切にしながら、自らの十字架を背負って歩んで参りたいと思います。
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 2010年1月10日 
「アイ アム ザ マン」加藤誠牧師(静岡一番町教会)
ヨハネによる福音書9章1−12節



 「アイ アム ザ マン」という題は、中学一年生でも分かる英語のレベルの題だと思いますが、聖書からそのまま採りました。前後の文脈を無視して、この部分だけを日本語に直せば、「私がその男だ」或いは「私こそが人間だ」のどちらかになるだろうと思います。主イエスによって目が見えるようになった男が最初に話した言葉「わたしがそうなのです」(9節)の部分が英語の聖書では「I amthe man」となっています。日本語で読むと普通の会話のように思えますが、英語の響きはかなりインパクトがあります。つまり「わたしがそうなのです」よりは「私こそが人間だ」と宣言するような力強さがこの男の言葉には込められています。元のギリシャ語を直訳すると実は「I am」だけになります。全く同じ言葉が主イエスによってヨハネ18章6節で発せられています。「わたしである」との言葉を聞いた人たちは、主イエスを逮捕しに来たのですが、「後ずさりして、地に倒れた」と聖書は記します。「I am」とだけ言い切ることの出来る存在は神様だけなのだ、という考えがこの出来事の背景にはあります。



 この男について聖書は少ししか情報を私たちに与えません。生まれつき目が見えなかった事、物乞いであった事、そして9章の中程では彼の両親が登場することくらいです。弟子たちはこの男の罪について主イエスに質問しますが、「罪」は聖書全体では中心的なテーマですが、ここでは主イエスの関心は、男の目が見えない理由に向けられてはいません。むしろ主イエスのこの男に向けられた確固たる意思に注目すべきです。「神の業がこの人に現れるためである」「わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」これらの主の言葉には強い意志が秘められています。



 物乞いであった男は、これまで何千回となく上から見下ろされていました。しかしこの日感じた人の気配は、自分と同じくらいに低くなった人のものだったはずです。「シロアムの池に行って洗いなさい」との言葉も、きっと彼の顔のすぐ近くで聞いたのではないでしょうか。彼が何故池に行ったのか、どのようにして行ったのかを聖書は私たちに伝えません。ただ「目が見えるようになって、帰って来た」とだけ記します。彼にどのような変化があったのかは分かりません。けれども長年彼を近くに見ていた近所の人たちには別人に見えたようです。やり取りの後、彼が「わたしがそうなのです」と言って近所の人たちは納得しました。近所の人たちには彼の目が開いたことが不思議でしたが、ただ目が開いているというだけで別人と見間違えるでしょうか?目が開いたことによって、彼は思いもかけない事態に直面します。主イエスに反感を覚えていたファリサイ派の人々から取り調べを受けます。そしてついには外に追い出されます。(34節)外に追い出されるとは会堂から追放されることと同じ意味です。それはユダヤ人社会では最早生きられない事でした。彼は主イエスがメシアであるとはまだ知りません。この出来事の後、主イエスは再び彼に会い、そこで彼は明確に信仰を告白します。9章を通じて彼の言動にはぶれがありません。その理由を考えると、どうしても9節の「I am the man」という彼の言葉に辿り着かざるを得ません。主イエスに触れられ、み言葉が与えられ、歩むべき道が示される。それこそが真実の人間の姿であることを、この聖書の箇所は私たちに示しています。
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 2010年1月3日 
「あなたこそ救い主」船水牧夫牧師
マルコによる福音書8章27−30節



 毎年、正月には多くの参拝者が神社仏閣を訪れます。通りをはさんだ諏訪神社にも大勢の人が参拝しておりました。日本では御存じのように、土地の守り神である氏神というのがどこに行ってもありまして、そこにいるだけで氏子ということにされてしまう社会です。こういう精神風土の中にあって、キリスト教会は、きちんと自らの立場を表明して行くことが求められていると思います。

 私共は信仰告白というのは、教会の会堂とか、礼拝の中で求められている、そう考えがちですが、主イエスは弟子たちに、道の途中で訊ねております。主イエスは私共の日常生活の、神とか、キリストとかが全く問題にされないような、世俗的な生活のただ中で、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うておられるのです。

 私共も日本という国の中で、信仰を教会の中に、個人の中に閉じ込めてしまうことなく、しっかりと社会、日常生活のただ中で、イエスが何者であるのかを明らかにして参りたいと思います。



 主イエスの弟子たちに対する問いは二段構えになっております。最初の問いには答え易いのです。みんなはどう言っているか、世間ではどう言っているか、ということです。それには何の責任もありませんから、気楽に、簡単に答えることができます。

 しかし、後の問いにはそうは行きません。人はいざ知らず、あなたはどうか、と聞かれているのですから、いい加減なことは言えません。責任をもって本音を語らなくてはならないのです。私共はよく「みんなが言っています」とか「こういう考え方もあると思うのですが」と、自分の立場をはっきり言わず、ぼかして答えることが多いように思います。それが生活の知恵だと思っている所があります。

 しかし、信仰を持つということは、教会に来ている時だけではなく、普段の毎日の具体的な生活の場で、私共が主イエスをどのように信じ、告白しているかが問われている、単に言葉としてではなく、具体的に、どう政治や社会と関わって生きているか、そこに私共の信仰者としての主体的な生き方がかかっているのです。

 私共うっかりすると、いつのまにか「教会ではこう言っています」、「聖書にはこう書いてあります」とか、「牧師はこう言っています」、というふうに何か、信仰が他人事のようになってしまう誘惑というか、危険があると思うのです。そしていつの間にか信仰さえもあやふやなものになってしまい、日常生活の中で主イエスが私共の救い主であることを見失ってしまうということがあるのです。いつも自分自身の信仰の告白として、「主イエスは私共の救い主です」、と答え続ける者でありたいと思います。



 30節に、「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」とあります。これはペトロがまだ、主イエスが私共の罪を負って苦しみを受け、十字架にかけられ、殺されなければならない、それがメシアの真実の姿であることが、分かっていなかったからだと思うのです。

 ここから主イエスは、苦難の道を進むことこそが神から委託されたメシアの使命であることを、弟子たちに教えながら、エルサレムへ向かって受難の道を歩み始めるのです。

 私共は今一度、メシア、キリストという称号に、苦しみ、受難が伴っていること、そして私共の救いが、キリストの十字架によるものであることを覚えながら、この一年、毎日の生活の中で、「あなたはメシア、私共の救い主」と告白し続ける者でありたいと思います。

 シロアム教会は今、とても厳しい状況にあります。しかし、問題は礼拝出席人数の多少、財政規模の大小ではありません。ましてや牧師の交代にはありません。問題は、この教会がイエス・キリストに対する信仰告白を土台として、それにしっかり結びついて立っているか、土台にしっかりと杭が打ち込まれているかどうか、その土台に基づいて「地の塩」、「世の光」として宣教の業に励んでいるかどうか、その一点にかかっていると思うのです。
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