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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2010年2月28日 
「天地創造の初めから」船水牧夫牧師
マルコによる福音書10章1−12節
 


 主イエスが十字架へ向かって歩み始められた、その旅の最初に登場したのが、ファリサイ派の人々でした。彼らは、主イエスを試す目的で質問します。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」

 主イエスは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と彼らに問い返されました。彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。確かにモーセは離縁状を書いて、妻を去らせることを認めております(申命記24章1節)。しかし主イエスは、モーセは離婚を勧めてはいない、やむを得ず離婚する場合には離縁状を渡して、女性の再婚への道を確保させようとしたに過ぎないのだと言われ、基本的に聖書は離婚を禁じていると言われました。主イエスは、夫の側からのみ自分の都合で、離婚を言い出せるという、あまりにも不当な男性中心の結婚観を否定し、結婚している女性の立場、権利を守るためにも主イエスは離婚を禁じられたのです。

 主イエスは結婚についての神の御心を創世記を引用されて明らかにされました。「『しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』」(6−9節)。良きパートナーとなるように神が男と女とに造られた、それが神の創造の秩序であり、そこに神の御心があるということです。その意味において男女は全く平等、対等な存在なのです。
 


 こういう聖書の言葉を知っていながら離婚・再婚するのはキリスト者にとって勇気のいることです。しかし実際のところ離婚・再婚しているキリスト者は牧師も含めて実に多いのです。信仰に生きる者にとって、それはどんなにか苦しく、つらい決断であったことかと思わされるのです。そのような試練の時を経て、その方の信仰が豊かなものとされ、同じような痛み、苦悩の中にある者に対して真実の共感をもって、深い慰めと励まし、勇気を与える言葉を持っている方もおられると思います。とにかく離婚さえしなければ、それで神の祝福の下にあるのかと言えば、実際には逆のケースもあるのではないでしょうか。結婚の継続が明らかに甚だしく、肉体的、精神的、経済的な犠牲や苦痛を強いる場合には、離婚も選択肢の一つとしてあるべきだと思うのです。

 主イエスは結婚の真実の姿を、神の創造の秩序をもって明らかにし、そこに神の恵みがあることを私共に教えられました。と同時に主イエスが何故、断固たる決意をもって十字架への道を歩まれたのか、それはまさに神の結び合わされた配偶者を、真実に愛し得ない所で起こる痛ましい現実、その現われとしての離婚を厳しく戒めながら、離婚せざるを得ない私共の罪を担い、赦し、救ってくださるために十字架と死への道を敢えて進まれた、そう思うのです。
 


 主イエスはここで絶対に離婚、再婚を禁止するという掟を述べてはおりません。私共にとって結婚がどんなにか神の豊かな恵みの下に置かれているか、そのことに気付いてほしい、互いに支え合い、愛し合って、お互いの欠点、罪を認め、許し合って、神の祝福にふさわしい生活を築いてほしい、そのことを主イエスはここで言われている、そう思うのです。

 神の選びを信じ、主イエス・キリストの十字架の光の中で、私共罪ある者を赦し、救ってくださった神の愛を信じ、共に生きる者へと育てられる場、それが結婚生活だと思うのです。互いに最も近い隣人として神に与えられた人と共に生きる結婚生活は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」、その愛を試される場、育てられる場だということができます。

 十字架に示された神の赦しの愛の光の中で、お互いの罪を担い合い、許し合う愛に生き、神の選びの前に、二人の生活を大切に育て合って生きる信仰者でありたいと思うのです。もしどうしても離婚が避けられない場合は、神の前に悔い改めつつ、赦しを請い、自分本位にならないように、相手をできるだけ傷つけないように、十分な配慮をもって離婚に伴う様々な問題を誠実に解決して行くべきだと思います。
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 2010年2月14日 
「互いに平和に過ごしなさい」船水牧夫牧師
マルコによる福音書9章38−50節



 ヨハネは、イエスの名前を使って悪霊を追い出している者に、それを止めさせたと主イエスに告げました。すると主イエスはあなたのしたことは間違っている、とヨハネを叱責されました。

 その頃、弟子たちは誰が一番偉いかと議論していたのです。ヨハネもそれに加わっていたと思います。ヨハネの考えの底にあったのは、自分たちは主イエスに選ばれ、従っているエリート集団という特権意識でした。そして傍流に位置する者がイエスの名を用いて成果を挙げているということに嫉妬し、許せないという思いがあったのではないかと思うのです。

 自分たちは特別だという意識が、周りの目立たない人々の働きを正当に評価できなくなってしまっていたのです。自分たちの共同体に属さないという理由で、その人たちの働きを阻止しなければならない理由はどこにもない筈です。神は、彼らをも用いて神の国建設の業を進めておられるのです。



 私共の中にも、ヨハネのような偏狭なものの考え方があって、それが神の国の建設を妨げてしまっているということがあるのではないでしょうか。自分たちと同じ信仰を持たない人々とは一緒に行動しない、活動しない、それは間違いだと思います。彼らの運動、活動の中に、キリストの平和の福音と一致するものがあるならば、他の宗教を信じる者であっても、無神論者であっても、彼らと共同して行動するということがあっても良いと思いますし、又、そうすべきだと私は考えます。「平和を実現する人々は幸いである」という主イエスの教えに生きるキリスト者は、世界の平和と自由、反貧困、平等を求めて、宗教や思想信条の違い、政党支持の違いを乗り越えて共同の闘いに力を尽くして行かなくてはならないと思います。

 キリストに従って生きるということは、教会の中だけの信仰、自分一人の信仰を守られれば、それで良いとは思わないのです。この世の不正や不義、不当な抑圧、差別と闘っている人々と共働してこそ、この世に生きるキリスト者としての責任を果たすことになると思うのです。そこにキリスト者としての実存がかかっていると思います。



 主イエスがひたすら自らの受難と死、そして復活についてお語りになっておられるのに、弟子たちは誰が一番偉いかという議論に熱中していたのです。そういう所に平和がある筈がありません。ですから、「自分自身の内に塩を持ちなさい。互いに平和に過ごしなさい」(50節)、と主イエスは言われるのです。

 平和というのは、戦争のない状態が平和なのではありません。誰もが一個の人間としての尊厳が保たれ、人権が守られ、自由と平等が保障されてこそ、そこに本当の平和の条件というものが存在すると言えるのです。決して武力によって平和が保たれるということはないのです。「塩を共にする食卓」、「塩を分け合う食卓」があって、初めて平和が実現するのです。

 平和を造る力を持った塩を皆が持ち、蓄えているならば、人をつまずかせることも、自分がつまずくこともなく、キリストの恵み、キリストの平和の福音を証しする者として立つことができると主イエスは言われるのです。



 塩が生きるのは、塩を必要とされている所に溶け込んでこそ生きるのです。それが塩の役目です。私共キリスト者もそういう塩の役目をこの世にあって果たして行きたいと思うのです。それはまさに誰が一番かと言って争う世界ではなく、自己をどこまでも主張する世界ではなくて、自分の属する世界に閉じこもってしまうことではなく、自分を隠して素材に溶け込む、別の言い方をすれば「すべての人に仕える者にな」るという生き方をするということです。自分がキリスト者であることを言葉や行動で、ことさらにアピールするのではなく、また、教会にいる時だけキリスト者らしくふるまうのではなくて、キリストの恵み、救いに与かってこの世に生きる社会人として、塩となってこの世に仕えて生きることを通して「互いに平和に過ごし」、キリストを証しして参りたいと思います。
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 2010年2月7日 
「キリストの名のゆえに」船水牧夫牧師
マルコによる福音書9章30−37節



 今朝の聖書の箇所は、二つの部分からなっております。前半は主イエスが弟子たちに三回、御自身の苦難と死、そして三日目の甦りについて予告されたうちの第二回目の予告の箇所です。ご存じのように主イエスは主にガリラヤを宣教活動の場として働いて来られました。しかし今や、そのガリラヤも通過点でしかありませんでした。ひたすらゴルゴタの十字架への道を歩まれた様子が「イエスは人に気づかれるのを好まなかった」(30節)という言葉に示されております。しかし、弟子たちは、主イエスの受難と死、復活についての予告の意味が、その時は分かりませんでした。しかし、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)のです。ペトロが主イエスをいさめた時、「サタン、引き下がれ」と叱られたことを思い起こしていたのかも知れません。いずれに致しましても、弟子たちの心は主イエスの思いとは遠く離れたところにあったのです。それは弟子たちが、「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」ということに示されています。



 私共は何のいさおしもない、ただの土の器に過ぎない者であり、罪多い無価値な者です。しかし、そのような者であるにもかかわらず、神は私共の内、誰一人の例外もなく私共を尊い存在として愛し、永遠の命を約束してくださっております。それゆえ、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)と、主イエスは言われているのです。主イエスは、神によって愛され、尊い存在として召され、生かされていることを本当に知る者は、私がそうしたように、あなたがた仕える者となりなさい、と言われました。

 主イエスは、一人の子供を抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」私がこの子を抱いて受け入れている、それは私がこの子を愛し、尊い存在、価値ある者として受け入れている徴だ、だからこの子を無視し、軽んじることは私を無視し、軽んじることになるのだ、それは結局は神御自身を軽んじることになるのだ、と言われているのです。人間の価値、尊さの徴は神から与えられた生命、生命そのものが尊いのであって、決して、その人の生命プラスアルファーの部分、すなわち、その人の能力、財産、容姿、家柄にあるのではないということを、主イエスは子供を抱くことを通して示されたのです。

 しかし、弟子たちのように、私共も生命プラスアルファーの部分で、他人と比較し、序列を付け、誰が一番偉いかと論じ合い、傲慢になったり、卑屈になったりしているのが私共の現実です。このような罪の中に生きる私共のために、主イエスは十字架におかかりになり、私共の罪を贖ってくださったのです。



 私共が神から与えられた生命そのものより、生命プラスアルファーのものを大事にし始める時、そこに他との比較が生じ、生命そのものの尊さが見失われ、やがてそうしたプラスアルファーのゆえに人を排除したり、妬んだり、ひがんだり、軽蔑したりして、人との関係が歪み、人を受け入れられなくなるのです。主イエスが子供を抱いたのは、その生命そのものの尊さに弟子たちを気づかせ、神の前に全ての人が尊いもの、神に愛されている存在であることを示し、神の前に全ての人は平等であることを悟らせるためでした。そこにおいて、初めてお互いが主の名のために一つとされ、仕え合い、分かち合うところの真実の交わりが成り立つということなのです。

 生命そのものが尊い、美しい、そのことを忘れ、生命プラスアルファーの部分にのみ目が向いて、そこで誰が一番偉いかということに憂き身をやつす大人の罪深さ、愚かさを、主イエスは子供によって示そうとされたのではないでしょうか。共に主の恵みと救いを信じ、生命プラスアルファーの部分に捕らわれることなく、そこに頼ることなく、ひたすら主イエス・キリストの名のために、名のゆえに、主にある交わりに生き、祈り合い、励まし合い、支え合って、何よりも、互いに仕え会って、信仰の道を歩み通したいと願う者です。
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