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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2010年3月14日 
「天に富を積む」船水牧夫牧師
マルコによる福音書10章17−31節



 主イエスが、死を覚悟してエルサレムへ行こうとされていた、その時、ある人が走り寄って、ひざまずいて、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と、尋ねました。この人が願ったことは正統的ユダヤ教の信仰において最高に「善い」ものと考えられていた「永遠の命」を得ることでした。そのためには何をすればよいのか、それをぜひとも教わりたい、そう思って主イエスに道を求めたのです。

 しかし、主イエスは、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と、この人の問いには直接答えず、彼の自分に対する呼びかけの言葉を問題にされました。主イエスは、彼の問いをはぐらかしているようですが、実は彼の問いそのものが的外れなものであることを、まず最初に指摘したのです。



 彼の問いの立て方のどこに問題があるのでしょうか。彼は主イエスに永遠の命を受けるために「何をすればよいか」と尋ねています。永遠の命を人間の善い行ないによって獲得できると考えた、そこに彼の決定的な誤りがあったのです。永遠の命は神様からの賜物として与えられるものであって、決して人間の側の善行、努力によって手に入れられる、というようなものではないのです。

 この人は善行を積み重ね、律法を忠実に守ることによって永遠の命を受け継ぐことができると信じていました。そこに彼の最大の誤解があったのです。彼は律法に忠実に生き、善行に励んで来たと自負していましたが、永遠の命を更に確実なものとするために、何を足したらよいのか、そのことを主イエスから聞き出したかったのです。

 しかし、主イエスが彼に求めたものは何かを足すことではなく、その反対の放棄することでした。21節、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」それを聞いて22節、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」



 主イエスが、彼に足りないものとして示した決定的な「一つ」とは、「善いこと」の積み重ね、それがすべてと信じて生きて来た彼の人生の在り方そのものの否定であったのです。彼はそれを受け入れることができずに主イエスの許を去って行ったのです。

 主イエスは弟子たちに言われました。「『子たちよ、神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 主イエスはここではっきりと、永遠の命を得ること、それは「人間にできることではないが、神にはできる」と言われたのです。それなのにペトロは「いや、人間にもできるのです。少なくとも私たちはやりました」と答えております。このペトロの答えは主イエスの言葉を全く理解していなかったことを示しております。人間がどんなに努力して掟を守り、全てを投げ捨て、信仰の道に精進しても、それで天に富を積むことにはならない、永遠の命には至らないのです。



 ではどうすれば救われるのか、それは「人間にはできないが神にはできる」ことを信じ、その神にすべてを委ねて生きる以外にないということです。そのことがペトロにはまだ分かっていなかったのです。

 私共は「すべてを捨てて、あなたに従います」と宣言しても、すぐに崩れてしまうような弱く、愚かな者です。しかし、神は何でもできるのです。そういう私共のために主イエスは今、エルサレム目指して歩みを進めようとしておられるのです。エルサレムでの苦難と十字架上の死によって、私共の罪は贖われ、ただイエス・キリストを私共の救い主と信じる信仰によって義とされる道、天に富を積み、永遠の命を得る道が約束されているのです。
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 2010年3月7日 
「神の国の祝福にあずかる者」船水牧夫牧師
マルコによる福音書10章13−16節



 人々が、主イエスに手を置いて祈っていただくために子供を連れて来たのですが、弟子たちは彼らを叱りました。死をさえ覚悟しなければならないようなエルサレムへ向けての緊迫した空気に包まれながらの旅の途中にあって、のんびりと子供に祝福をしておられる状況ではない、それがその時の弟子たちの思いであったのでしょう。

 それだけに主イエスが憤って、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言われたのには驚いたに違いありません。荒井献先生は「問いかけるイエス」という本の中で、こう記しております。「14、15節におけるイエスのメッセージは次のようになろうー『神の国は、成人男性から人権を認められていない女子供のような人々のものである。だから、はっきり言っておく。そういう女子供を受け入れるように神の国を受け入れる者でなければ、そこには決して入ることはできない』」。つまり、女性や子供の人権を否定し、差別する者は神の国の住人としてふさわしくない、ということです。

 全ての者が神の前にあって自由であり、平等である、互いに愛し合う隣人として存在している、これが神の国であるということです。それなのに弟子たちは子供の人権を否定し、神の国に入るのを妨げ、神からの祝福にあずかれないようにした、このことに主イエスは激しく怒られたということなのです。

 私共はこの意味において、神の国を否定し、抑圧し、排除しようとする、この世の勢力に対しては、主イエスのように激しい怒りをもって、すべての人の命を守り、不当な抑圧差別と闘っている方々と連帯して、それらの人々と共に闘うことこそキリスト者としてなすべきことではないか、そう思うのです。



 何年か前に、マタイによる福音書をこの礼拝において学びました。今日の箇所についての並行記事が19章に出ております。その時に申し上げたことをここでもう一度繰り返すことをお許しいただきたいと思います。 それは子供が教会共同体にとってかけがえのない存在であり、教会共同体の礼拝の中でこそ、真実に子供はキリスト者として成長するということです。教会共同体の礼拝の中でこそ、信仰の継承も可能となると考えます。信仰の継承という課題を親だけに負わせるのでなく、教会共同体の子供として教会全体で受け止めたいと思うのです。

 子供を招き、抱き上げられた主イエスが、今、私共にどのような教会生活、信仰生活を望んでおられるでありましょうか。幼い子供から年老いた者まですべての者が、世代を超えて共に集い、福音の喜びに満たされて、平和で生き生きとした礼拝を守っていること、そのことこそが求められていると思うのです。



 主イエスは、人間と神との交わりを回復させるため、和解をもたらすために地上にお出でになられた神の子です。主イエスが子供を招かれたのは、まさに神との絆の回復の象徴的行為としてなされたと考えて良いのではないでしょうか。御自身が十字架の道を目指してエルサレムへ向かおうとしている、それは私共の罪を執り成し、神と人間の和解のために外なりません。ですから主イエスは喜んで、子供を祝福されたのです。

 しかしながら弟子たちはこの世的価値判断をもって、神からの祝福を妨げてしまいました。私共はキリストの弟子として、子供が教会に来ることを妨げてはならないどころか、主イエスに祝福していただくために子供たちをここに集めることを主から求められている、そう思うのです。そのために近隣の子を招く努力をしなければならないのです。それと共に子供に信仰の継承を願い、祈り、声をかける信仰に生きたいと思います。

 これからも、この教会が、子供も大人も皆一緒になって神の愛に守られ、支えられて愛と喜びに満ちた礼拝共同体としての信仰の歩みをしていただきたい、子供と一緒に神の恵みの前に跪いて、主の祝福に共に与かる教会であってほしいと願っております。
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