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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2010年4月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2010年4月25日 
「いちじくの木を見て」加藤豊子牧師
マルコによる福音書11章20−25節



 空腹を覚えられた主イエスが、いちじくの木に近づかれ、葉ばかり茂って実が一つも見当たらないいちじくに向かって呪うような言葉をかけられ、ついにはいちじくが根元から枯れてしまったというこの出来事は、大変不思議な、理解に苦しむお話である。

 「いちじくとぶどうの実は豊かな実りをもたらす。」(ヨエル2:21)とあるように、旧約聖書に於いていちじくは、ぶどうと並んで良くでてくる、豊かな実りを象徴する果物である。

 また、イスラエルの民自身も、神に選ばれ、豊かな実を実らせることを期待されている民ということで、いちじくの木そのものにたとえられている。しかし、旧約聖書が示しているイスラエルの民の姿は、争い、偶像礼拝を繰り返す不信の民の姿であり、神の期待される実を、結ぶことの出来ない姿である。



 主イエスがご覧になった神殿の様子、それは神殿の境内に多くの人々が集まり、賑やかに両替人や鳩を売る物たちが商売をしている様子であった。そして異邦人の為の礼拝の場で、平気で祈りの邪魔をしている、礼拝の場でありながら祈りの姿が見られない様子、それはまさに、実りのない葉だけが賑やかに茂っているいちじくの木と同じであることが示されている。

 神の家、神殿に於いて真の祈りがない、礼拝が見られないと主イエスが嘆かれている。



 そしてさらに、「神を信じなさい」と語られる。神殿に集う人々、弟子たち、私たちにとっても、信じる対象が「神」であることは改めて言われるまでもないことである。敢えて「神を信じなさい」と言われた主イエスの目には、信じているようであって、実は神を神として信じていない神殿の人々、私たちの姿が見えていたのではないか。

 自分自身に目を向ける信仰ではなく、神を信じる信仰をあたえられたい。
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 2010年4月18日 
「祈りの家」加藤牧師
マルコによる福音書11章12−19節



 確かに私たちは主イエスの怒りの感情に触れる。それはすでにいちじくの木に向けられたようであるが、エルサレムの神殿の中では、驚くべきことに実力行使という手段で商売を妨害されたことにより、何やらむき出しの主の感情に触れ、一体何事かと考えざるを得なくなる。

 「境内」とは神殿の面積の半分以上を占めていた「異邦人の庭」を指すようである。字義通り異邦人はそれ以上中に進むことは出来ない厳格な規定があったようである。言い換えるならば異邦人はそこでしか礼拝が出来ない。その場所こそが祈りの場であったはずである。しかし聖書からは「祈り」の雰囲気は伝わらない。時は過越しの祭りというユダヤ人の最大の祭りの時期であった。普段の人口の何倍、何十倍もの人で膨れ上がっていたことは容易に想像出来る。主イエスがそこから追い出されたのは「売り買いをしていた人々」であった。つまり商売人だけではなく祭りに参加しに来ていた人たちも主の怒りに触れた。彼らは異邦人だったのだろうか?



 そこがいかに広かろうが、そして異邦人だろうが、真剣に神に向かって祈りがささげられているその側を、物を運んで良いはずがない。16節で主イエスがお許しにならなかった、と記されているのも至極もっともである。

 祭司長たちやや律法学者たちも登場する。彼らの許可のもとで商売は行われていた。自分たちの都合で神が定めた神の家のルールを、もっとも立場が弱いであろう人たちを犠牲にして変えたのである。このような「いやらしさ」を私たちは持っている。

 私たちの教会は果たして主イエスの求められる「祈りの家」であろうか? 
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 2010年4月11日 
「子ろばに乗って」加藤豊子牧師
マルコによる福音書11章1−11節



 「エルサレム入場」の出来事は、棕櫚の主日によく読まれるところである。このところから、主イエスが十字架に向かわれる最後の一週間の歩みが始まる。マルコは、全体(16章)の三分の一以上を割いて主イエスの最後の歩みを記している。

 子ろばに乗ってエルサレムに入場される王の姿というものは、実は旧約聖書ゼカリヤ書の預言の言葉に見ることができる。

「見よあなたの王がくる。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って…」(ゼカリヤ9:9)



 王は普通、馬に乗って勇ましく入場するものであり、また戦いに用いられるのは馬、軍馬であってろばが使われることはない。馬ではなくて子ろばに乗ってこられた…そこに主イエスがどのような救い主であるかが示されている。

 「高ぶることなく」(9節)は身をかがめた姿勢、自らを低くするという意味。エルサレム入場の少し前、主イエスは誰が一番偉いのかと争う弟子たちに対し、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。(マルコ10:45−)と語られた。富と力をもって支配する王ではなく、仕えるものとして、ご自分の命を与えて下さる救い主として主イエスが来られたことが示されている。



 ろばは愚かものを表す言葉としても用いられる。馬に比べれば見劣りがする、弱い存在かもしれない。しかし「主がお入用なのです」と声をかけられ主のために用いられた。「主が」「主イエスが」主人公、主役であることを思う。私たちの力不足、弱さに関係なく、「主が」招き、用いてくださることを思う。
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 2010年4月4日 
「復活の主と共に」加藤誠牧師
ルカによる福音書24章36−49節



 イギリスではイースターの挨拶は「ハッピー・イースター」と交わすのだと留学経験のある友人が教えてくれた。最初のイースター、聖書を見ると、弟子たちは初め決してハッピーではなかった。すでに復活された主イエスに出会った弟子もいた。けれども弟子たちが一堂に会していた時、「シャローム」の挨拶をもって主イエスが真ん中に立たれると、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ている」と記されるほどの反応を示した。



 「亡霊」を見たい人はそう多くないと思う。私は見たこともないし間違っても見たくない。それは恨みをもって出たのではないかと思うからである。私が弟子の一人でも同じ反応をしたと思う。それはほんの十数時間前に主イエスを見捨てて裏切ったからである。会えるものなら会いたいが、最も合わせる顔がない相手が主イエスである。うろたえる弟子たちに主イエスは「わたしの手や足を見なさい」と言われた。これは奇妙な言葉である。このような場合、普通は「わたしの顔を良く見なさい」ではないだろうか?しかし、主イエスの手と足を見た弟子たちは「喜びのあまり信じられず」とさっきとは正反対の反応を示す。主イエスの手と足には十字架の釘跡があった。主イエスの本人確認もさることながら、弟子たちにとっては主イエスの手と足こそが喜びだったのではないだろうか。



 一切れの魚を召し上がられた後、主イエスは弟子たちの心の目を開いて聖書を悟らせられた。その言葉の中に「罪の許しを得させる悔い改めが・・」とある。主イエスの復活の出来事の大切なメッセージは、弟子たちに対して復活の主イエスが罪の許しのメッセージを語り、それを託された事にある。主イエスの復活こそ、私たちの罪が主イエスの十字架によってすべてゆるされたことの何よりの証明なのである。そして私たちはこの主イエスと共に歩くようにと教会に招かれている。 
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