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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2010年5月30日 
「第一の掟」加藤豊子牧師
マルコによる福音書12章28−34節



 主イエスとユダヤの指導者たちとの議論、緊迫したやりとりというものが、12章以下続いている。神殿の境内での言動など、指導者たちは苦々しい思いで主イエスを見ていたことだろう。彼らは主イエスの言葉じりをとらえて陥れようと、税金のこと、復活のことなど、答えにくい難問を吹っ掛ける。しかし、そのやりとりを聞いていた一人の律法学者が進みで「イエスが立派にお答えになったのを見て尋ねた。」とある。「立派に」は美しいという意味があると言う。彼はイエスの言葉の中に、人から出たものではない、神の美しさとも言えるものを感じたのではないだろうか。



 「あらゆる掟の中で、どれが第一でしょうか」という問いに対し、主イエスははっきりとお答えになる。「第一の掟はこれである。…心を尽くし、精神を尽くし…あなたの神である主を愛しなさい。」これは、申命記6:4−の引用であり、「シェマ」と呼ばれる。イスラエルの人々が子どもの頃からよく聞かされていた言葉であり、成人男子は朝夕自分の信仰告白として唱えたという。第二の戒めとして示されたのは「隣人を自分のように愛しなさい」である。第一と第二は切り離し得ないものであり、別々に区別されるものではなく、同じ重さを持つ。



 主イエスは、全ての戒めを要約するものが、この二つの愛の戒めであることを示す。他者を心から愛することができない、また自分自身をも受け入れることのできない私たちのために、イエス・キリストが十字架にかかってくださったことを思う。その赦しの愛の中で私たちは生かされている。罪人である、愛することに破れた者であることを神の前に認めるところからしか、愛の戒めに生きることは始められない。エフェソ3:16−にあるように、キリストの愛の広さ、深さを知る者へと招かれていることを覚えたい。
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 2010年5月23日 
「生きている者の神」加藤誠牧師
マルコによる福音書12章18−27節



 新約聖書にはサドカイ派と呼ばれる人たちが登場する。起源は諸説あるが、旧約聖書の中の創世記から申命記の5巻のみを彼らは神の言葉として信じていた。子が生まれずに夫が死ねば妻はその兄弟と結婚して子供をなす、という事自体私たちの常識からかけ離れているが、今よりはるかに「家」の存在が大きかったことを考えに入れ、7という数字を2や3に置き換えれば、サドカイ派の人々の質問は強ち非現実的とは言えないように思える。

 主イエスの返答は「思い違いをしているのではないか」である。27節では「大変な思い違い」となる。一刀両断で「間違い」を宣言されたのである。しかも思い違いの理由が「聖書も神の力も知らないから」では面子も何もあったものではない。説教準備のためにおっとり刀で注解書を読む身としては、首をすくめて聞く主の言葉である。



 話の中心は復活である。死者の復活をテーマにして、果たしてサドカイ派の人々が出エジプト記の神とモーセのやりとりを受け止めていたとは思えない。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるから「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と主イエスに言われてもそれが私には簡単に繋がらない。主イエスの十字架と復活を信じているが故に、小さな脳を揺さぶられつつも「生きている者の神」という主イエスの言葉に慰めを覚えるが、サドカイ派の人々に身を置けば、困惑だけが残ったのではないかと思う。

 主イエスにとってアブラハム、イサク、ヤコブは過去の人間ではない。マタイ8章では、いつかの出来事として大勢の人が彼らと共に宴会の席に着く。主イエスが伝える天の国の一面は宴会である。まだまだ聖書の読みが甘いと沢山の人に叱られそうであるが、この宴会には是非参加したい。
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 2010年5月16日 
「神のものは神に」加藤誠牧師
マルコによる福音書12章13−17節



 税金は私たちにとっても現実的な問題であるが、当時のユダヤ人にとっても二重三重に収めねばならない頭の痛い事柄であった。ここで主イエスを陥れる為の罠とされたのは皇帝への税金であった。しかも律法に適うかという退路を断つかのごとき質問である。主イエスはイエスかノーでは答えず、デナリオン銀貨を見せるように求めた。銀貨の表には皇帝ティベリウスの肖像と「ローマ皇帝は神の子である」という文字が刻まれていた。そして「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉に質問者たちは驚き入る。

 主イエスの言葉は極端である。極端ではあるが聖書の大切な部分に触れる。私たちにとって納税は義務である。それがなければ国の経済は成り立たない一方で、せっかく稼いだのにこんなに取られて、という意識をもたないだろうか?自分のものは何一つ失いたくないのが私である。その思いと聖書の言葉は真っ向からぶつかる。



 主イエスはここで税金の事は問題にしていない。問題にしているのは後半の「神のものは神に返しなさい」である。主イエスが言われる「神のもの」とは何を指すのかが問題である。創世記によれば人は神によって創造された。しかも神にかたどって創造された。人の心には神のかたちが刻まれている。私たちは生物学的には親から生まれる。しかし私たちの存在の根拠は神にある。それが聖書のメッセージである。主イエスは神を信じて生きていることを自負する人たちに、信じるに相応しい生き方をしているかと問われる。神のものは全て神に返す生き方をしているかと問われる。

 キリスト者にとって死は神のもとに帰ることである。地上のものは全て地上に残す。神のものは神に返す生き方をして、神さまのもとに帰りたいものである。
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 2010年5月9日 
「捨てられた石」加藤豊子牧師
マルコによる福音書12章1−12節



 主イエスのなさった「ぶどう園と農夫」のたとえ話は、イザヤ書5章の「ぶどう畑の歌」に似ている。神はぶどう畑(イスラエルの民)を愛し、豊かな実りを期待して環境を整え、行き届いた世話をした。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであったという。

 主イエスのたとえ話を聞いた人々は、イザヤの「ぶどう畑の歌」を思い起し、ぶどう園が自分たちイスラエルの民であることをすぐ理解したはずである。この話には、イザヤ書には出てこない「農夫」が登場する。農夫は主人から、ぶどう園の管理を託されている立場にありながら、主人から遣わされた僕たちを次々に侮辱し、殺してしまう。



 「今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず…」とエレミヤの言葉にあるように、「僕」とは迫害を受け、軽んじられてきた預言者たちのことであろう。与えられた権威を自分のものと勘違いし、立場を忘れて神を神とも思わず、神の言葉を軽んじるイスラエルの指導者たちの姿を、農夫たちは表している。神の言葉をどう聞くかという問いかけは、指導者のみならず私たち全ての者にも向けられていることを思う。



 ぶどう園の主人は、この状況でなぜ、大切な一人息子を遣わしたのだろうか。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という言葉の背後には、どこまでも私たちを信頼しよう、待とうとしてくださる、神の深い愛がある。ここまで忍耐出来る愛があるだろうか。

 一人息子は農夫たちの手によって殺され、捨てられた。しかし、そこから神は救いの業を始めてくださったのである。滅ぶべき私たちの代わりに、御子イエスキリストは十字架に架かられ、私たちの救いの基となり、教会の土台、かなめ石となってくださったことを覚えたい。
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 2010年5月2日 
「誰の権威か?」加藤誠牧師
マルコによる福音書11章27−33節



 権力と権威では少し響きが違って聞こえる。祭司長、律法学者、長老たちは当時の権力者であった。仕事をする上で、多くの場合権力は必要であろう。でなければ上司と部下の関係は生まれない。主イエス一行は権力とは最も遠いところに位置していたはずである。

 その彼らが昨日、神殿の境内で人々を実力行使で追い出す騒ぎを起こし、翌日平然と境内を歩き回るとは、殺害を目論む権力者たちには我慢のならないことであったろう。「何の権威で、・・誰が」と尋ねる彼らに、主イエスはヨハネの洗礼が天からのものか、人からのものかと問い返す。



 ヨハネの洗礼はユダヤ教に入会するためのものではなく、悔い改めの洗礼であった。祭司長たちはそのことを知っていたはずである。けれども彼らはヨハネを信じなかった。悔い改めたくはなかった、と言うのは言い過ぎであろうか?

 他人のことはさて置き、私の心の中には自分の全てをそのままで肯定されたい、という欲求がある。悔い改めという言葉は私には重く響く。ヨハネの洗礼に天の権威を認めない彼らは群衆を恐れたと聖書は語る。「分からない」という彼らの答えは、自らの権威がどこから来たのかを真剣に考えようとはしない権力者たちの心を浮き彫りにする。



 キリストの教会は神から権威が与えられている。間違ってもこの世の権力ではないし、権力と結びつくとロクな事にはならないことを歴史は教える。その権威は「鍵」という言葉で神から与えられたものである。「地上でつなぐことは、天上でもつながれる」という権威である。

 そしてその権威が与えられた教会には、陰府の力も対抗出来ないのである。主イエスの権威とは何か?という事は、私たちの救いの出来事と深く関わるのである。
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