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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2010年6月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2010年6月27日 
「終末の徴」加藤誠牧師
マルコによる福音書13章1−13節



 マルコによる福音書は皇帝ネロの迫害を経験したローマの教会に対して記されたものだと考えられている。それゆえ9節以下の迫害の描写は、私たちが想像する以上に最初の読者たちにはリアルなものであったろう。そもそもは1節にある弟子の言葉に端を発している。

 ドイツの最初の目的地はケルンであった。大聖堂があることは知識として知っていたが、駅からホテルまでの道の途中、突如として現われたその威容に言葉を失いそうになった。完成まで600年を要した世界遺産は、未来永劫存在するかのごとき思いを私に与えた。ひょっとすると弟子たちも当時の神殿を見てそう思ったのかも知れない。



 5節から13節まで、まるで一息で語られたかのごとき印象であるが、10節は挿入句のような感じを与える。「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言われているが、「いつ」とか「どうなったら」を考える必要はないと思う。考えるべきは「ねばならない」と言われた主イエスの確固たる意志である。この主イエスの思いに突き動かされて教会は伝道をしているかである。



 13節は「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」で終わっている。聖書はしばしば「忍耐」を教える。忍耐が得意な人はいても好きな人はそういないのではないだろうか。アメリカでの訪問地の一つにサン・ノゼがあった。西海岸では3番目に大きな日系人コミュニティーがある町である。目抜き通りの交差点に一世が残した石碑がありローマ字でいくつもの日本語が彫り込まれていた。最初に目に留まったのは「NINTAI」である。その隣に「KANSHA」があった(と思う)。キリスト者が記したかどうかは分からない。しかし、忍耐の隣には感謝があるのではないだろうか。だからこそ忍耐は忍耐だけで終わらない。感謝があるから救いに繋がるのではないだろうか。 
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 2010年6月20日 
「献げる心」加藤豊子牧師
マルコによる福音書12章41−44節



 神殿の婦人の庭に置かれていたと言われる賽銭箱の向かいに座り、主イエスは群衆の様子をじっと見ておられた。大勢の金持ちがたくさんの金を入れている中で、一人の貧しいやもめがやってきてレプトン銅貨2枚を入れた。それは、100円にも満たないわずかな金額であった。先週読んだ38節以下に示されているのは、「すべて人に見せるために」、律法を熱心に行う律法学者たちの姿であった。絶えず他人からどう評価されるかを気にしている彼らとは対照的な姿をこのやもめは示している。ただひたすらに神にのみ心を向け、すべてをささげゆだねているこの女性の中に、律法学者たちには見られない、真の礼拝者の姿を見る。



 「生活費」…ビオス(ギリシャ語)には人生、生涯、生活という意味がある。この女性は彼女の人生、生活のすべてを神の前に差し出している。2レプトンあるのだから、1つを自分の手元に残しておくこともできたはずである。しかし、彼女はすべてを神の憐みの中に、明け渡している。私たちはなかなか握ったものを手放せない。経済的なことだけではなく、自分の生き方、考え方、プライドなど…律法学者たちは自分たちが握っているものを手放すことができない。



 43節「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。はっきり言っておく」この中で「アーメン」という主イエスの言葉が出てくる。「アーメン」とは真に、偽りなくという意味である。主イエスはやもめの姿を見て「アーメン」と言ってくださるのである。多くの人々が、人に見せるための偽りの礼拝をささげている中で、ここに真の礼拝者の姿があると言ってくださるのである。イエス・キリストご自身がこの後、ご自分のすべてを、命をささげて十字架へと向かわれた。神のみこころにすべてをゆだねてささげる道を歩まれた主イエスだからこそ、この女性を見て心から「アーメン」と言われたのではないか。
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 2010年6月13日 
「本物はどこに」加藤豊子牧師
マルコによる福音書12章38−40節



 12章の神殿での出来事に始まるユダヤの指導者たちとの激しい論争も終わり、主イエスは最後のメッセージを語られる。語りかけられている相手は律法学者たちではなく、群衆に向けてである。「律法学者に気をつけなさい。」(38節)とあるが、「気をつけなさい」は「警戒しなさい」と訳すこともできる。ただ単に律法学者たちの偽善を指摘して批判しているのではなく、「あなた方も気をつけなさい、警戒しなさい」と群衆に、私たちすべてのクリスチャンに語られていることを思う。



 「長い衣を着用し」「広場であいさつされることを望み」「上席、上座を求める」…といった姿は「そのすることは、すべて人に見せるためである。」(マタイ23:5)という言葉の通りである。人からどう見られているか、評価されているかを何よりも気にしている…そこに彼らの問題がある。そしてその問題は、私たちにとっても決して無縁なものではない。私たちもまた、高く評価されることを願い、逆に軽く扱われたり認められないことには腹を立てるというところがあるのではないか。心の中に、神に栄光を帰するのではなく自分に栄光を帰そうとする力が働いていることを思う。



 より高く見せたい、評価されたいと願う私たちに対し、主イエスは「あなたがたのうちでいちばん偉い人は仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる…」(マタイ23:11)と、低く下る者の姿を示される。己を低くし、仕える者の姿を示し、十字架へと歩まれた主イエス・キリストが、私たちの罪を赦し、罪の力から解放し、イエス・キリストの支配の中へと招いて下さることを覚え、このお方から目をそらさずに歩ませていただきたい。
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