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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2010年7月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2010年7月25日 
「ユダの問題」加藤誠牧師
マルコによる福音書14章10−21節



 イスカリオテのユダについてマルコはその登場の最初から「裏切り」という言葉を使う。なぜユダが主イエスを裏切ったのかを聖書は語らないが、ユダには「お金」ついてまわる。11節を読むと、祭司長たちがユダに金を約束したことが、ユダの裏切りに拍車をかけたかのようにも受け取れる。先週の説教では「ナルドの香油」について語られたが、マルコでは「何人かが、憤慨して」とあるが、ヨハネによる福音書では抗議の言葉はユダから発せられている。しかもご丁寧にユダが会計係でありながら不正を行っていたことまで暴露されている。



 過越しの食事は当時のユダヤ人にとって一年で最も重要な食事であったはずである。その食事の冒頭で主イエスは誰かの「裏切り」について言及された。しかも21節では「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とまで言われている。この聖書の文脈とは違うが、「自分など生まれなかった方が良かったのではないか?」と幾度も思った事がある。昔の話ではあるが一度でもそう思ってしまった人間にとって、文脈違いは重々承知した上で、しかし「生まれなかった方がよかった。」という主イエスの言葉は見過ごせない。



 ルカ16章には不思議なたとえ話がある。不正な管理人の話は、15章から続いている。弟子たちに向けて語られた話である。単純に読めば、弟子の誰かが不正な管理人であるし、又そう読むべきである。15章から続く流れを考えて読めば、このたとえ話はたった一人の弟子に向けて語られている。その結論は「神と富とに仕えることはできない。」である。11人の弟子たちが理解したとは思えない。ファリサイ派の人々は「イエスをあざ笑った。」この「あざ笑い」は十字架の上にまで続くあざ笑いである。この主イエスの思いがあればこその21節の厳しい言葉がある。
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 2010年7月18日 
「ナルドの香油」加藤豊子牧師
マルコによる福音書14章1−9節



 計略を用いて主イエスの命を狙っているユダヤの指導者たちと、裏切りを企む12弟子の一人、ユダ。この二者の姿を示す記事に挟まれるようにして、「ナルドの香油」と呼ばれる美しい物語が語られています。主イエスが食事をしておられると「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもってきて…」とあります。マルコによる福音書においては、この女性について「一人の女」としか説明がなされていません。名前も背景もわからない。どんな事情で何を思ってこんなことをしたのかわからないのです。注がれた香油については、純粋な(純正、本物)ヒマラヤ原産のナルドという植物の根から作られた大変貴重な、高価なものであることがわかります。



 その場にいた何人かの人が「なぜこんなに無駄遣いをしたのか」と彼女を厳しくとがめます。「3百デナリオン以上に売って貧しい人々に施すことができたのに」という意見は、もっともな、正しい考え方のように思われます。確かにそれだけのお金があったら、おそらく7千人以上の人々の食事を用意することができたでしょう。しかし、主イエスは「わたしに良いこと(美しい)をしてくれたのだ」と彼女の行いを評価します。



 どのような動機で高価な香油を注いだのかは分かりません…しかし、彼女はもっているいちばん大切な物を注ぎだしています。その結果がどうなるのかは全く計算していないような彼女の姿。それは、主イエスの周りにいる計算高い人々、計略を練り、企てるという人々の姿と大変対照的とも言えます。全く意図していなかったでしょうが、この主イエスに香油を注ぐ行為は、葬りの用意となり、この時の主イエスに最もふさわしい行いをしたことになります。わたしたちも与えられた奉仕を通して主が喜んでくださる、美しいと言われるような心をお献げすることができたら、と願います。
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 2010年7月11日 
「目を覚まして」加藤豊子牧師
マルコによる福音書13章28−37節



 小黙示録と呼ばれる、マルコによる福音書13章の結びの部分を読んで頂きました。「終末」と言うと私たちは、この世の破滅、破局、人類の滅亡のことをイメージしやすいのですが、聖書の語る「終末」はそれとは異なっています。「人の子が来る」とありますが、主イエスが再び来られる日それが聖書の語る終末であり、その日、その時は誰も知らないのだから目を覚ましていなさい、主イエスは思いがけない時に来るのだからと語られています。



 いちじくの木から学ぶべきこととは何でしょうか。春がとても短い、冬から夏へと飛び越えてしまうとも言われるパレスチナにおいて、いちじくの木の枝がやわらかくなり、葉が伸びてくるのは冬においてです。いちじくの木の新芽は真冬の冷たさの中で、夏の到来を示していると言えます。この世界の闇は深まり、私たちは冷たい冬の時代を生きているように感じるかもしれません。13章前半に示されているような戦争、飢饉、地震、偽キリスト、迫害というようなしるしを見るかも知れません。しかし、それは決して破滅の時ではなく、「人の子が戸口に近づいている」とあるように、恵みの時、主イエスに近づく時の到来を示しているのだと、慰め励ましの言葉として語られています。



 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」「滅びる」は「過ぎ行く」「過ぎ去る」と訳すことができます。天地のあらゆるものが、また私たち自身も過ぎ行くしかないはかない存在ですが、決して過ぎ去ることのない主の言葉に生かされて新しい命の中を主と共に歩む者とされていることを思います。「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ…」(34節)とあるように、私たちにも主からそれぞれに託されている働きがあることを思います。その働きを忠実に担うことが、「目を覚まして」主を待ち望む生き方につながるのではないでしょうか。
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 2010年7月4日 
「人の子の到来」加藤誠牧師
マルコによる福音書13章14−27節



 「憎むべき破壊者」が誰を意味するのかは固有名詞が記されていない以上分かりません。けれども「読者」には過去の人物に当てはめて考えることは出来たと思います。旧約聖書の続編にマカバイ記があります。この書には「悪の元凶」としてアンティオコス・エピファネスというシリアの王が登場します。この王は祭壇の上に「憎むべき破壊者」を建てます。ゼウスの像だと考えられていますが、苛烈な迫害が起こったことが記されています。



 その時以上の苦難が来ることを主イエスは語りますが、それに対してユダヤにいる人々は「山に逃げなさい」と勧められています。教会の歴史は戦いだけではありません。「逃げる」歴史もあります。ローマ帝国でも長い間教会は地下に潜らざるを得ませんでした。日本でもキリシタン迫害により隠れキリシタンが生まれました。もっともキリシタンでも「隠れ」キリシタンと「潜伏」キリシタンがあったそうですが。昭和10年代にも教会は迫害されました。勿論抵抗した教会も牧師もあったのですが、妥協せざるを得なかった教会もあったはずです。状況は違うのですが主イエスの言われた「逃げなさい」という言葉が心に残ります。



 「だれ1人救われない」かのごとき苦難に対し主の「選び」という表現が3度繰り返されます。聖書の「選び」についての考え方を記す余裕はありませんが、マルコを読む以上、主イエスが再び来られる時、主のもとに呼び集められる基準は、「彼によって選ばれた」という事でありましょう。

 私たちの救いの確かさは、ただの一片も私たちに由来しないのです。

 主イエスの十字架の前に私は何も主張できるものを持ちません。ただ主にあって選ばれた事を感謝するのみなのです。
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