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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2010年8月29日 
「イエスを見捨てて」加藤豊子牧師
マルコによる福音書14章43−52節



 一人の若者が、主イエスと弟子たちの後からついてきて様子を見ていた、そして自分も捕まえられそうになったのであわてて身にまとっていた亜麻布を捨てて、裸で逃げてしまった、という出来事は、マルコによる福音書だけに記されていることです。この若者は誰なのか…実は、この福音書を記したマルコ自身だったのではないかとも言われていますが、ここで覚えたいことは、この人が裸にされているということです。今日の聖書の個所は主イエスが捕えられた場面ですが、実はそこに於いて人間が裸にされている、すなわち人間の罪の姿があらわにされ、その本性が、罪と弱さが明らかにされていると言えるように思います。



 「たとえ、一緒に死ななければならなくなっても、知らないなどとは決して申しません…」と力を込めて言い張ったペトロや弟子たちは、群衆を恐れ、皆イエスを見捨てて逃げてしまいました。イエスを捕えて殺そうと計った祭司長、律法学者たちも、その心は恐れに支配されていたのではないでしょうか。民衆の尊敬を失い、今保っている地位を失う事を恐れ、自分たちよりも民衆の心をとらえている主イエスの存在そのものを恐れ、計略を練り、闇に紛れて群衆を動かし主イエスを陥れている姿があります。この所で主イエスは、わたしたち人間の罪深さ、弱さ、ずるさのすべてを引きずり出して、十字架に向かわれました。そこに於いて示されていることは、どのような罪の深みからも、闇の中からも、主イエスによって救われる道が開かれている、主イエスを通して救い得ない人は誰一人いないのだと言うことではないでしょうか。



 弟子たちやこの若者にしてみれば、恥ずかしい、みじめな姿が隠されることなくここに記されています。そこには、このような者が、この罪の深みから救われたのだと言う、弟子たちの救い主への大いなる感謝と讃美が表されているのではないでしょうか。
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 2010年8月22日 
「蛇行する人生」山本裕司牧師(西片町教会)
箴言14章12節 ヘブライ人への手紙4章14−16節



 今、日本の川や海岸は、どこもかしこもコンクリート護岸によって直線化されています。ある時、俵万智さんが釧路川を訪れ、その自然に感激し短歌を作りました。「蛇行する川には蛇行の理由(わけ)あり 急げばいいってもんじゃないよと」

 研究者が二本の実験河川を作りました。一本は蛇行して「瀬」や「ふち」のある川、もう一本は直線にしたのです。結果は、蛇行した川には、直線の川に比べ10倍もの魚が住んでいたのです。蛇行する川の方が、魚には生き易かったからに違いありません。 「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく…あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15)



 「同様の試練」、それは蛇行する経験をされたということではないでしょうか。だから主は、人生に迷う私たちに同情できる「救い主」となられたのです。福音書を読みますと、弱い人たちが、イエス様の周りに沢山集まっていたことが分かります。その場が生き易かったからでしょう。エリートコースを真っ直ぐに突き進む人がいます。しかし、そういう人の隣にいても冷たい印象を受けて直ぐ離れたくなったりましす。川をみな真っ直ぐにしてしまう官僚も、子どもの頃勉強ばかりしていて、川で遊んだことが一度もなかったのではないでしょうか。確かに、その人の人生には無駄がない。躓きがない。その直線人生は能率的かもしれませんが、そこからは、弱く小さなものへの優しさが失われていったのではないでしょうか。「箴言」は、蛇行することを「罪」と覚えます。だからこそ主は、御受難の時、十字架を負って、曲がりくねったヴィア・ドロロサの坂道を、右に左に喘ぎながら進まれました。そうやって、罪ある私たちに同情して下さったのです。そうやって、私たちを生かして下さったのです。感謝!
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 2010年8月15日 
「ゲッセマネの祈り」加藤豊子牧師
マルコによる福音書14章32−42節



 主の晩餐の出来事の後、主イエスは弟子たちを連れてゲッセマネに来られました。ここに示されているのは苦しみながら祈る主イエスの姿と目を覚ましていることができない弟子たちの姿です。「イエスはひどく恐れてもだえ始め…死ぬばかりに悲しいと言われた…」(33節)とあります。ゲッセマネと言う地名には「油搾り」という意味があるそうですが、まさに主イエスの苦しみの汗と涙が搾りだされているような場面です。なんと弱々しい、神の子イエス・キリストとは思えないような姿に、私たちは戸惑いを覚えます。しかしここにこそ、イエス・キリストが真の神でありながら、真の人となられた姿が示されています。人間のあらゆる苦しみ、悲しみ、弱さをわかってくださるお方として主イエスがおられることが示されていると言えます。



 主イエスをこれほどまでに悩ませ、もだえるほどに苦しめていたものとは何なのでしょう。「この杯をわたしから取りのけてください。」(36節)とありますが、「杯」とはここでは神の審判、裁きを意味しています。人間の罪に対する神の怒りが溢れている杯です。罪のないお方が、全ての人間の罪の罰を受けようとなさっている、その苦しみ、悲しみは私たちには理解することができません。メシアにしかわからない苦しみであろうと思います。揺さぶられながらも、「御心に適うことがおこなわれますように」と祈られた主イエスの姿は、御足の跡を歩こうと願いつつも些細なことですぐに揺さぶられてしまう私たち信仰者への励ましであり、慰めではないでしょうか。眠ってしまっている、鈍い、悟ることのできない弟子たちを責めることもせず、「時が来た、立て、行こう」と神の時を受け止めて進んで行かれるイエス・キリスト。私たちの弱さ、罪のすべてを受け止めつつ十字架へと向かってくださった主イエスの姿を覚えたいと願います。
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 2010年8月8日 
「つまずき」加藤誠牧師
マルコによる福音書14章27−31節



 引用されている旧約聖書はゼカリヤ書13章7節である。その前半には「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ」とある。剣は神の裁きを象徴している。しかもゼカリヤ書はその神の裁きが「わたしの羊飼い」即ち神の羊飼いの上に起ることを預言している。羊飼いが打たれれば、羊は逃げまどうしかない。


 使徒ペトロは主イエスから「三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われ、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても・・・」と反論する。他の弟子たちもペトロに追随する。特別な緊張感と特別な言葉による過越しの食事の後の出来事である。ペトロや他の弟子たちが主イエスと共に死ぬ覚悟をして本気でそう言ったとしても不思議ではないように思える。



 キリスト教には「つまずき」がある。弟子たちがつまずいたのと同じように、私たちもこの「つまずき」を通らなければ、イエス・キリストを知っているとは言えない。神が神の羊飼いを打つ。弟子たちが直面したのはこの「つまずき」である。最も神に愛された存在が、人の目では直視できない神の裁きを受ける。弟子たちが直面したのはこの現実である。弟子たちにしてみれば、十字架は主イエスを妬んだ祭司長らによる不正な裁判の結果である。しかし主イエスの言葉は、そのような単純な結論を許さない。神が主イエスを十字架でお裁きになるとは、どのような意味を持つのか?それが分からなければ逃げまどうしかないのである。

 「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と28節で言われている。唐突な言葉である。しかしこの言葉によって救いの手が差し伸べられている。復活のキリストとの出会いは「つまずき」を乗り越えさせるのである。
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 2010年8月1日 
「新しい契約」加藤誠牧師
マルコによる福音書14章22−26節



 過越しの食事である。しかし、毎年彼らが繰り返してきた過越しの食事ではない。私たちはここに主イエスと弟子たち、そして私たちとの間に結ばれた新しい契約を目撃するのである。又、私たちが大切にしている聖餐のルーツがここにある。

 聖餐にあずかろうとする時、私たちは自然に自己点検を行うことがないだろうか?過ぎ去った日々を省みて、聖餐にあずからない方が、信仰者として正直なのではないかと、私は若いころ幾度も思った。しかし、聖餐はあずかってもあずからなくても良いものではない。これは命令なのである。

 最初の過越しの食事は出エジプト記に記されている。12章21節には「モーセはイスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。『さあ、家族ごとに羊を取り、過越しの犠牲を屠りなさい。』とある。イスラエルの人々にとって、過越しの食事はモーセを通して神から与えられた命令であった。



 主イエスの弟子たちへの最初の言葉は「取りなさい。」である。これは弟子たちへの命令である。この時の食事は異様な状況であった。つまり食事の冒頭、主イエスが「裏切り」について言及されたからである。「まさかわたしのことでは」と心を痛めながらも、弟子たちは主の言葉を受け止めざるを得なかった。そしてこの食事の後、マルコは弟子たちが全員主イエスに「つまずく」ことを告げる。

 弟子たちの「裏切り」と「つまずき」の間に主の晩餐は位置している。主イエスに対して「裏切り」と「つまずき」以外の何物でもない弟子たちを、主イエスはその命による契約にあずかるようにと命じる。 私たちが聖餐にあずかるのは、偏にこの主の招きと命令によるものである。
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