←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2010年11月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2010年11月28日 
「約束の実現」加藤豊子牧師
ルカによる福音書1章5−25節



 「むかし、ユダヤの人々は、神さまからのお約束、尊い方のお生まれを嬉しく待っておりました。…その日数えて待つうちに何百年もたちました。」とページェントでよく歌われる子ども讃美歌にあります。メシア、救い主の誕生を指し示す約束の言葉は、イザヤなどの預言者たちの言葉のみならず、旧約聖書の様々な所に見出すことができます。アドベントの第一週目に灯されるキャンドルを「約束のキャンドル」と呼んで、神様の約束を覚えるところもあるそうです。



 ザカリヤは、神殿の奥に入って香をたき祈るという、大変光栄な務めを与えられました。そして神殿の中で「恐れることはない。…あなたの妻エリザベトは男の子を産む」と驚くような言葉を聞かされます。それは天使を通して告げられた神の言葉でありました。しかし、ザカリヤは神の言葉をそのまま受け取ることができません。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と答えるザカリヤは天使から、「あなたは口がきけなくなる、時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから、」と言われてしまいます。子どもが生まれるまで約10カ月間、話せなくなるというのは、信じなかったことに対する罰ではなく、神に心を向け、その御心を知る恵みの時となったのではないでしょうか。



 私たちの周りには言葉が溢れています。様々な言葉に埋もれる中で、どれだけわたしたちは心を神に向け、神の言葉を聞いているでしょうか。私たちが話している間は聞くことができません。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」(詩編62)神の前に黙する時、初めて聞こえてくる言葉があるのではないでしょうか。礼拝は、私たちがしばし黙して心を神に向け、神の言葉を聴く時として与えられています。語る者も聞く者も、共に神の言葉を聴く者として礼拝に招かれていることを覚えつつ、アドベントの時を過ごしたいと願います。
目次に戻るページトップ
 2010年11月21日 
「沖へ漕ぎ出せ」加藤誠牧師
ルカによる福音書5章1−11節



 教団の仕事でスイスとドイツに行ってきました。スイスで泊ったホテルの隣には、聖ペトロ教会というプロテスタントの古い教会がありました。早天礼拝が行われていました。バーゼルは昔から宣教師を多く送り出してきた町です。遠く離れた地にいる宣教師たちのために祈っているのかも知れないと想像しました。



 シモンたち漁師が徹夜で働いて帰り支度をしていた時、主イエスから神の言葉を聞こうとして群衆が押し寄せました。群衆にお話しになるために主イエスはシモンの船を使われました。シモンには迷惑な事ですが、なにせしゅうとめをいやしていただいた義理があります。話が終わってもシモンはまだ解放されませんでした。「沖に漕ぎ出して・・漁をしなさい」と言われました。当然シモンは反論しますが、最後には「しかし、お言葉ですから」と主イエスの言葉に従います。



 シモンの経験と予測に反して、二そうの船が沈みそうになるほど魚が獲れました。不思議なことにここで初めてルカはシモン・ペトロという名前を使います。ペトロとは親からもらった名前ではありません。主イエスによってつけられた呼び名です。あたかもシモンがシモン・ペトロになったかのごとき印象を受けます。11節では「すべてを捨ててイエスに従った」とありますから、私の受けた印象は強ち間違ってはいないと思います。



 主イエスのみ言葉の招きを受けて、シモン・ペトロは「お言葉ですから」と主イエスを信じて従う世界に飛び込みました。そしてそれはペトロだけではなく、彼の仲間たちも同じでした。「お言葉ですから」というペトロの姿勢、私たちも大切にしたいものです。
目次に戻るページトップ
 2010年11月14日 
「この岩の上に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書16章13−20節



 主イエスのもとには、いつも多くの人々が集まっていました。主イエスはその当時、まさに話題の人物であったと思われます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」という問いに対し、弟子たちは「洗礼者ヨハネ、預言者エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だと言う人もいます」と答えます。群衆の前で説教し、癒しや不思議な業をなさる姿は、まさに神から遣わされた預言者そのものと人々の目に映ったのだと思います。ローマの支配下で重税などに苦しめられていた当時の社会状況を思うと、この世の中を変えてくれる、政治的な力あるリーダーとして期待の目を向けていた人もいたかもしれません。



 そこで主イエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに問われます。「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの答えは、ずばりそのもの、というような見事なものです。しかし、ペトロがメシア、救い主に与えられた使命を十分に理解していたとは思えません。この後、主イエスが「多くの苦しみを受け殺され…」とご自分のこれからの姿を打ち明けられた時、主イエスをいさめたペトロは「サタン、引き下がれ」と叱られてしまします。ペトロがメシアの意味を理解するのはまだ先の事ですが、主イエスはこの岩の上に、すなわち信仰告白の上に教会を建てると言われました。



 私たちは毎週礼拝の中で使徒信条を告白します。神に招かれた一人一人が心から「イエスは救い主である」と告白するその信仰告白の上に教会は立つのです。主イエスが問われたのはフィリポ・カイザリアという偶像礼拝の町でのことでした。今、私たちもキリスト教の文化や歴史が感じられるような環境の中で暮らしているわけではありません。神に背を向けた大きな流れの中で、私たちを招きそこに「わたしの教会をたてる」と主が招いておられることを覚えたいと思います。
目次に戻るページトップ