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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2010年12月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2010年12月26日 
「求める者に」加藤豊子牧師
ルカによる福音書11章5−13節



 真夜中に人が訪ねてきて「友よ、パンを三つ貸してください」と頼む、というとても理解に苦しむようなたとえ話が語られています。主イエスは、「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」と言われました。「しつように」と言う言葉には「恥知らずにも」という意味があります。時には、恥知らずと言われても構わないほどの一生懸命さが祈りに求められることが示されていると言えます。しかし、このたとえが示しているのは祈りの熱心さだけではないようです。ここで比較されているのは「家の主人」と「父なる神」の姿です。この家の主人が友人にせがまれてとうとうその要求に応えたのであれば、父なる神が、子である私たちのために、それ以上のことをしてくださらないはずがあるだろうか。神は私たちに良い物をくださろうと、恵みを備えて待っていて下さる。だからこそ、わたしに求めなさい、という神の招きの言葉が語られています。



 祈るとき、私たちの願いがすべて、自分の思い通りに適うわけではないことを私たちは知っています。時には、願いが叶えられない、私たちの思いを越えて別の道が開かれる…ということが答えであることもあります。神に向き合って祈るとき、その祈りの中で苦しみ、そこを通して自分自身が変えられ、砕かれ、神のみこころを知る者へと導かれるということもあります。祈りの中にこそ豊かな神との出会いが備えられているのではないでしょうか。



 最後に「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と約束されています。私たちは人に与える者をもたない、愛に欠けた者であります。上から与えられるのでなければ、人を愛し仕えることのできない者であることを思います。求める者に良いものをくださるお方に希望を置いて、新しい年を迎えたいと願います。
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 2010年12月19日 
「救い主の誕生」加藤誠牧師
ルカによる福音書2章8−20節



 イエス・キリストの誕生の一つの背景に、2章の最初に記されているローマ皇帝からの人口調査の命令があります。その目的は2つあったと言われています。一つは税金徴収のため。もう一つは徴兵のためでした。ユダヤの国全体が自分たちの町に帰る人たちで混乱していたことが想像できます。しかし、8節からはそのような雰囲気は伝わりません。「野宿」は私たちには非日常ですが羊飼いたちには日常だからでしょうか。



 当時、律法を守る人たちから羊飼いは良く思われていませんでした。律法を守れないからです。「野宿」という言葉が彼らの立場を代弁しているように私には思えます。つまり社会の中で安定した立場を持てない人たちです。もしも人口調査すらも必要ないとすれば、国から人として認められていない、と理解する事も出来ます。



 彼らに示された「しるし」も又、通常では考えられないものでした。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」です。いったい世の中のどの親が生まれたての我が子を飼い葉桶の中に休ませたいでしょうか?聖書は宿屋には彼らの泊る場所がなかったと言います。人口調査という非日常が背景にあるとはいえ、泊る場所を用意できなかった若い夫婦と乳飲み子も又、「野宿」せざるを得ない羊飼いたちと同じような境遇と言えるのではないでしょうか。だからこその「しるし」です。



 マリヤは訪ねてきた羊飼いたちの話を聞きます。そして「心に納めて、思い巡らし」ます。何を心に納めたのでしょう。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という神からのメッセージです。誰よりもこのメッセージを必要としていたのはマリヤとヨセフだったのではないでしょうか。そして私たちもこのメッセージを必要としています。
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 2010年12月12日 
「共におられる神」加藤誠牧師
マタイによる福音書1章18−25節



 降誕物語の中で注目されるのは、主イエスをその身に宿すことになったマリアであって、それに比べるとヨセフは、脇役のような存在に思えるかもしれません。しかし、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」という天使の言葉を受け止めた、ヨセフの信仰と決断がなかったら、クリスマスの物語は成り立たなかったのではないでしょうか。大役を担うことになったマリアを支えることが、ヨセフに与えられた召しでありました。降誕物語に登場する人々が、それぞれに与えらえた召しに応える中で、クリスマスの出来事が紡がれていきました。



 「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」という言葉は、どのように理解したらよいのかと、戸惑いを覚える言葉です。アダムとエバから始まる人間の歩みというものは、罪を繰り返してきた、塗り重ねてきた歴史と言えるのではないでしょうか。それは、旧約聖書に記されているイスラエルの民の姿であり、私たち自身の姿であります。その罪の歴史から私たちを救い出すために、一方的に、直接、神ご自身が介入してくださったということを、「聖霊によって宿った」という言葉は意味しているのではないでしょうか。「この子は自分の民を罪から救うからである。」(21節)とあるように、罪からの救い主の誕生が、預言の成就として神の計画の中で与えられたことが示されています。



 「インマヌエル」…この名は「神は我々と共におられる」という意味であるとあります。本来私たちは、神と共にいることができない者であります。罪で汚れた私たちは、聖いお方である神に、近付くことはできないのです。しかし、そのような私たちに神様の方から近づいてくださった。…それがクリスマスの出来事です。私たちのすべてをご存じで、愛してくださる神様が私たちと共にいて下さる…これ以上の贈り物はないことを覚えたいと思います。
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 2010年12月5日 
「お言葉どおり」加藤誠牧師
ルカによる福音書1章26−38節



 主イエスの母となったマリアをプロテスタントは崇拝しない。しかし、カトリックではそうではなく、先月訪れたドイツのケルンの大聖堂で二番目に大切にされていたのは、特別なマリア像であった。かつては祈りが聞かれた感謝に高価な献品があったそうだが、盗難が相次いだため、見ることが叶わなくなったと聞かされた時は、人の世の世知辛さを思いつつも残念であった。マリアの容姿については皆目分からないが、彼女の性格には私は興味を覚える。



 ルカによる福音書1,2章では天使が神によって派遣される。祭司ザカリア、マリア、そして羊飼いたちである。天使を見た祭司!ザカリアについてルカは「それを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と記す。羊飼いたちについても「彼らは非常に恐れた」と伝える。しかるにマリアについては「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」とルカは記す。昔も今も天使は日常的に見ることが出来る存在ではない(多分)。私にはザカリアや羊飼いたちの反応の方が自然に思える。勿論、天使の挨拶もいきなり「おめでとう」、直訳すれば「喜びなさい」であるからして、言われた方が面くらっても不思議ではない。しかし、そこで天使を前にして考え込むマリアもマリアでしょう、と言いたくなる。



 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」との返答を受け天使は去る。それがどのような過酷な現実を引き起こすのかを彼女は知っている。けれども、神が約束した言葉をマリアは信じた。神の言葉をその肉体をもって信じる存在を聖書は「はしため」「しもべ」と呼ぶ。そして神は今も「はしため」「しもべ」を必要としておられる。
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