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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2011年1月23日 
「生きる者へ」加藤豊子牧師
創世記2章4b−17節



 1章の創造物語に於いて、その頂点は人間の創造でした。「神のかたちに」…すなわち神と向き合う、交わることのできる存在として、他の被造物とは異なる特別な存在として人間が造られたことが語られていました。2章に於いては、1章とは異なる視点で人間の姿が示されています。それはまず第一に、人間が「土」(アダマ)から造られているということです。土…しかも土の塵から造られているというのは、人間がいかにもろい、はかない存在であるかを示しています。どんなに高価な物を、また知識教養を身につけたとしても、やがては皆土に帰るしかない存在です。



 そして次に示されているのは、神によって形づくられた人間は、「その鼻に命の息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった。」(7節)ということです。命の息…すなわち神の霊を吹き入れられて生きる者なった。人間は神に命を与えられ、神の霊に生かされている存在です。神に祈り、信じ、御言葉に生かされて生きる、その豊かな交わりなしには真に生きることができない…それが人間本来の姿なのではないでしょうか。



 さらに神はエデンの園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えいでさせ、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(17節)と言われました。善悪の知識の木の実を食べようとすること…それは、人間が全知全能になることを願い上に向かって手を伸ばし続けることとも言えるのではないでしょうか。そのようにして得た高度な知識とも言えるものが、逆に人間の生命を脅かすものとなっている現実があります。私たちに求められていることは、神を忘れて高い所に手を伸ばし続けることではなく、造り主なる神の御前に膝まづくことではないでしょうか。そして、イエス・キリストによる救い、命という宝をこの土の器に頂いていることを覚えて歩ませて頂きたいと願います。
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 2011年1月16日 
「祝福と安息」加藤誠牧師
創世記2章1−4a節



 三年前の春、長野で半日畑仕事をさせていただいた。夏の収穫には所用で行かれず、ジャガイモを食べそこなったことは今でも恨めしいが、食べ物が神さまの恵みであることは少しだけ分かった。第6の日の最後は、神様による食べ物の約束である。そして「天地万物は完成された」と2章1節は告げる。



 その唇が乾かないうちに、2節で「第7の日に、神は御自分の仕事を完成され」と続く。「あれ?」と思われる方が多いと思うが、かまわず第7の日について考えたいと思う。「安息」という言葉が2回繰り返されている。間違いなくキーワードである。確かに神さまは6日目までのような創造の業はなさらなかった。けれども聖書はこの日を神が祝福し、聖別されたと語る。



 曜日の概念はバビロニアで始まったとされる。ネットで見るとバビロニアで捕囚であったユダヤ人はバビロニアの休日の金曜日を避けて土曜日を休日とした、とあった。安息日の規定はバビロン捕囚以前の事であるが、捕囚となったユダヤ人たちはハマンが「彼らはどの民族のものとも異なる法律を有し」と王に訴えたごとく(エステル3:8)捕囚の分際で自分たち独自の休日を守った、と想像することは可能ではないだろうか。



 そこにあるのは信仰である。愚直な信仰である。第7の日を神が祝福し聖別されたことを信じる信仰である。祝福という言葉は旧約聖書では「命」と関連して用いられる。長寿であり多くの子どもが与えられることである。聖別とはユダヤ人にとってその日を神さまのものとして他の日と区別することである。私たちは自分の時間を百パーセント自分のために使いたい。しかしそこに本当の安息はあるのだろうか?と考えさせられる。
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 2011年1月9日 
「神にかたどって」加藤豊子牧師
創世記1章14−31節



 天地創造の物語の背景にあるバビロン捕囚の時代、それはあらゆるものが崩壊に向かう時代でした。イスラエル民族の誇りを奪われ、国が、家族が、自分自身が壊れていくのを感じ、生きる希望を失っている人々に、ただ一人この世界を造り、治めておられる神の存在を示し、この世界のすべてのものは、本来神が「良いもの」として私たちのために備えてくださったものなのだというメッセージが語られています。



 創世記1章の頂点とも言うべき出来事は「人間の創造」です。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(27節)人間とは一体何ものなのか…という問いに対する答えを27節に見出すことができます。「神にかたどって」とはどのようなものを意味しているのでしょうか。29節を見ると、神は人間を「あなたたち」と呼んでいます。「あなた」と呼ぶ存在として、神の呼びかけに応えることのできる者として、人間は造られています。人間だけが神との間に「あなたと私」と言う関係を持つことができる、すなわち神を信じ、神に祈り、神との交わりに生きることができます。又同時に、神の呼びかけに応えず、背を向けて生きることも出来るわけです。私たち一人一人が「あなた」と呼んでくださる神の前に立って、その呼びかけにどう応えるのかが問われています。



 また「男と女に創造された」と言うことは、人間は孤立して生きるように造られたのではなく、他者との関わりの中で生きる者として造られていることを示しているのではないでしょうか。自分勝手に、神に背を向けて生きる人間の罪故に、この世界は極めて良かったとされる最初の世界とは程遠い姿になり、神との関係も、人との関係も壊れています。主イエス・キリストはそのような私たちの壊れてしまった関係を回復してくださるお方として来てくださったことを覚えたいと思います。
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 2011年1月2日 
「天地の創造」加藤誠牧師
創世記1章1−13節



 世界宣教幹事と言う仕事柄、様々な教会やチャペルを見る機会が多い。昨年11月に訪れたケルンではゴシック様式とロマネスク様式のカトリック教会がわずが200メートルほど離れたところにあった。ロマネスクつまり丸いドームの聖アンデレ教会には地下小礼拝堂があり、壁を囲むようにキリストの生涯をテーマにした12枚のリレーフが印象に残る。しかしどちらの礼拝堂も暗い。そしてその暗さが良い。反対に前橋の共愛学園の礼拝堂は朝の光に溢れるようであった。学校のチャペルとしては自然の光に溢れている方が断然良い。



 神が「光あれ」と言われるまで、地は混沌であった。口語訳では「形なく、むなしく」と訳されている「混沌」という熟語は、辞書によれば旧約聖書に3回出てくる。一つはエレミヤ4章23節「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし空には光がなかった」である。 エレミヤが見たのは天地創造以前の混沌ではない。背景には紀元前6世紀のバビロン捕囚がある。神はエレミヤを通して「これはあなたの犯した悪」がもたらす、と告げる。つまり人の悪、罪はこの世界をして天地創造以前の混沌をもたらす力があることが示される。



 人の悪の力により世界は混沌としている。エレミヤの時代の事ではない。現代がそうであろう。しかし神は「光あれ」と今も命じることができるお方である。神が創造された最初の生あるものは「草」であった。種を持つ草であった。聖書はしばしば人を草に譬える。命のはかなさが共通するからであろうか。簡単に踏みにじられる存在だからであろうか。光は草に命をもたらす。「神はこれを見て、良しとされた」と聖書は言う。神が良し、とされる世界がある。それは光によって命が豊かに与えられる世界である。その世界の創造に、今度は私たちも招かれているのではないだろうか。
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