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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2011年2月27日 
「主の名を呼ぶ」加藤豊子牧師
創世記4章17−26節



 神に造られた者としてではなく、神に背を向け自分勝手に生きるようになった時、その罪は神と人間との関係を壊しただけではなく、人と人との関係をも壊すようになっていくことを、カインとアベルの物語は示しています。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(13節)と言うカインには、犯した罪を心から悔いて神に赦しを求め、弟に対して申し訳なったと思う姿は見られず、「カインは主の前を去り」(16節)とあります。



 17節−22節は、主の前を去ったカインの子孫について、カインから数えて6代目のレメクまでの系図が記されています。町を建て、その土地に定着していくという営みの中で、音楽家の先祖「ユバル」や陶工家の先祖「トバル・カイン」の誕生に見られるように、文化・芸術が生まれ、様々な技術が進歩し、生活が豊かになっていく様子が見られます。その中でレメクが勝ち誇ったかのように歌った詩(23−24節)には、「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」という言葉があります。そこには、主の前を去って生き続ける人間が、豊かさを生み出しながらも神を忘れ、自分の力を誇り、力で相手を支配しようとする姿が見られます。それは、報復戦争、復讐の連鎖を繰り返す、神を忘れた現代の私たちの姿と重なるのではないでしょうか。「復讐はわたしのすること」と主は言われ、また主イエスはペトロに対し「七の七十倍までも赦しなさい」と語られました。十字架に架かられた主イエスこそ、人間の報復の連鎖を断ち切って下さるお方であり、わたしたちは主イエスによって神との間に平和が与えられる時初めて、他の人々との間にも平和が与えられます。



 新たに与えられたアダムの子セトに、エノシュという子が生まれました。その名には弱い、死すべき人間という意味があります。人が神の前に自分の弱さ、もろさを自覚する中で「主の御名を呼ぶ」即ち主を礼拝するということが始まります。私たちも「主の前を去る」生き方ではなく、「主の御名を呼ぶ」群れとして歩ませて頂きたいと願います。
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 2011年2月20日 
「カインとアベル」加藤誠牧師
創世記4章1−16節



 エデンの園を追放されたアダムとエバに男子が二人生まれた。カインとアベルである。「時を経て」(3節)と言われるまで、どのような家庭環境だったのかは全く分からない。二人は別の職を得たが、神への献げ物ではアベルのものに神の目が留まった。その理由について、旧約聖書は明確に語らないが、新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節で「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ・・・」と語っているのは無視すべきではない。



 兄カインは弟アベルを妬みそして殺害する。神はカインに対して「何ということをしたのか」(10節)と嘆かれるが、実は同じ言葉をすでに私たちは聞いている。2章13節で、蛇に唆されて唯一の戒めを破った女に対して神は「何ということをしたのか」と嘆かれた。「食べると必ず死んでしまう」(2章17節)と命じられていた木の実であった。親にとって長男が次男を殺害するという事は、想像を絶する苦痛である。「何ということをしたのか」という言葉は、アダムとエバの口からも漏れたであろう。そして同時に二人は自分たちが犯した罪の恐ろしさに慄いたのではないだろうか。



 悲しいかな、人間は罪の結果を後から知る。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(13節)とカインは言うが、心配するのは自分の命である。そしてアベルへの謝罪の言葉も、神への悔い改めの言葉も聖書は私たちに伝えない。ちょうど彼の親がそうであったように。神はカインに彼を殺すものは7倍の復讐を受ける事を語り、更に彼が撃たれることのないようにしるしを付けられた。

 ここでも示されるのは神の一方的ともいえる配慮である。アベルの悲劇的な死は何だったのかと思わせられるが、一方、神は罪人の死を願わないことも聖書が示す真実である。
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 2011年2月13日 
「裸の人間」加藤誠牧師
創世記3章10−24節



 最近見たアメリカのテレビ番組で、ある実験の影響を受けた女性の前では、スーパーマンを別にしてはあらゆる人が嘘をつけなくなる、という場面がありました。その結果は皆さまも容易に想像がつくと思います。裸の心を見られる、これほど恥ずかしいことは私たちにとってないのではないでしょうか。



 神が食べることを禁じた木の実を食べた人間は、裸であることを知り、自らの手で腰を覆うものを作ります。神の足音!を聞いた二人は木の間に隠れます。神の「どこにいるのか」という問いかけにアダムは「隠れております。わたしは裸ですから。」と答えます。この答えは面白いと思いました。彼らは裸ではありません。自分たちで作ったものをまとっています。けれども神の前で「裸」だと答えてしまうのです。「食べるなと命じた木から食べたのか。」という質問に二人は、ひとつ言い訳してから事実を認めます。素直に本心を認めたくない時に往々にして人は言い訳をするのではないでしょうか。いちじくの葉っぱで隠したかったのは、腰だけではなく心の中もだったのではないかと思います。



 エデンの園から追い出されようとしている二人のために、聖書は神が「皮の衣を作って着せられた」と記します。人が自らの手で作ったみすぼらしい(多分)いちじくの葉っぱの着ものではなく、耐久性があり、暖かい皮の衣を神はプレゼントされました。私たちがそうであるように、この二人も、自分たちがしでかした「罪」の重大さをまだ良く知らないはずです。それは同時に、神がどのような思いで皮の衣を着せられたのかも分からないはずです。

 私たちにとってこの話は無関係ではありません。なぜなら私たちにも神が用意された「衣」があるからです。
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 2011年2月6日 
「どこにいるのか」加藤豊子牧師
創世記3章1−9節



 エバが欲しいと願って手を伸ばしたもの…それは、神が「決して食べてはならない」と禁じたものでした。善悪の知識の木から取って食べようとする欲とは何なのでしょうか。善悪を知るということは、道徳的、倫理的な意味での善悪について知ると言うことを意味しているわけではありません。「善悪」は「すべて」を意味する言葉です。エバは自分が神のように全知全能になることを欲したことになります。



 神と人間との関係が、「造り主」と「造られたもの」という関係であるからには、そこには決して、人間が造り主なるお方の意志を無視して踏み込んではならない領域というものがあるはずです。それを、この「善悪の知識の木」は表しているのではないでしょうか。全知全能を求め人間が神のようになりたいと願う姿、神に造られたものとして生きることを止め、神抜きで自分だけで生きていこうとする姿、そこに人間の犯す罪の本質を見せられます。「一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(6節)そばにいてそのやりとりを聞いていたアダムは、エバを止めることも出来た、しかし彼は止めなかったのです。自分が真っ先に手を伸ばして取ったわけではありませんが、拒まずに受け取ったということは、アダムの心の奥底にもエバが感じたのと同じ欲望があったのだと思わされます。その結果、何の隠し事もなかった神との信頼関係は壊され、守られて過ごす平和な日々は不安、恐れを感じるものへと変わりました。



 「どこにいるのか。」神の顔を避けて隠れているアダムに、神は声をかけられました。それは決して人間に罰を与え裁くための呼びかけではないように思います。私たちがどこに隠れていようとも、神の前には出られない…と思っていたとしても、「どこにいるのか」と呼びかけ、探し求めてくださる神がおられ、神に造られたものとして歩む道を備えて下さることを覚えたいと思います。
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