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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2011年3月27日 
「契約」加藤豊子牧師
創世記9章1−17節



 「主は御心に言われた」(8:21)神様というお方は、人間に向かって呼びかけ、語られるのだと思うのですが、ここでは「御心に言われた」神ご自身の心に向かって言われたとあります。よくよく考えられた末の、神の決意とも言えるものが、そこに示されているように思います。「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(8:21)これが神の決意でありました。



 「人が心に思うことは、幼い時から悪い…」これは、罪にまみれた人間に対する、神のあきらめの言葉なのでしょうか。あきらめであるならば、人間との関わりは失われます。しかし神は、御自分に似たものとして造られた人間との関わりを断つことはなさいませんでした。そこには、罪ある人間を決してあきらめずに、忍耐をもって受け入れようとする神の愛が示されています。



 「わたしは、契約を立てる。」と言われました。契約というものは、普通両者に果たすべき責任、義務が生じます。どちらかが契約違反すれば、その契約は破綻するのです。神と人間が契約をしたら、どういうことになるでしょうか。神の側はいつも真実ですが、人間はそれに応えることが出来ません。これから先、どんなに神を悲しませ、裏切るかもしれない…ということをすべて承知の上で、二度と滅ぼすことはしないと、神の一方的ともいえる愛を示してくださったのです。



 契約のしるしとして、空に虹がかけられました。虹 rainbowの bowは「弓」を意味します。戦いに用いられる弓を、神は空に置き、手離してくださった…それは、神が人間を滅ぼすことは二度としないという契約のしるしでした。この「虹」はイエス・キリストによる救いという新しい契約をも指し示しています。罪深い人間と神との間をつないでくださる、主イエスの十字架という確かな架け橋が今、私たちに与えられていることを覚え、感謝したいと思います。
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 2011年3月20日 
「神が命じられたとおりに」加藤誠牧師
創世記7章1−22節



 聖書によれば、ノアの時代、ノアだけが神に従う人であった。そう神が語られて、七日後に洪水が起こる。清い動物も清くない動物も、全ての地の生き物がつがいで箱舟に収容された。聖書が「清くない」とする動物も、神の前に同じ命の重さを持つ。むしろ「清い」生き物が、8章20節を見ると、祭壇で神にささげられている。つまり、せっかく洪水から救われた命を犠牲としている。 私は「聖さ」を伝統的に強調する教会に導かれた。「清さ」も「聖さ」も「犠牲」という面を無視しては成り立たない、と思わされる現実を何度か経験した。



 7章16節で「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」と記されている。箱舟の戸を閉めたのはノアではない。神が自らの手で閉ざされたことを聖書は告げる。ノアはどのような思いでその音を聞いたのであろうか?



 東日本を震災と津波が襲った二日後、私は教団議長や同僚と共に、遠回りして仙台に入り、翌日は石巻まで訪ねた。中心部には車で入ることが出来なかったので、徒歩で教会を目指し、数種類の匂いの混じった道を歩いた。出来うる限りのことをさせていただいたその帰り道、途中で立ち寄った教会員の家から一人の青年を仙台まで託された。彼は小名浜原発に仕事で行った帰りに津波の被害を受けた。車を棄て、とっさの機転で工場の屋根に避難したそうである。直ぐに暗くなり、雪が降り、ネクタイを首に巻いて体温が逃げるの防ぎつつ、ごうごうと音を立てて飲み込んでいく洪水の勢いを感じていたそうである。彼の会社では、彼一人が安否不明であった。携帯で連絡を取り合う彼の声は今でも耳に残る。会社に送り届け別れた。ついに彼の名は聞かずじまいだった。牧師たちも名乗らなかった。ただただ、彼の命を喜んでいた。
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 2011年3月13日 
「ノアの物語」加藤豊子牧師
創世記6章1−22節



 創世記1章に記されているのは、神に祝福された世界の姿です。「見よ、それは極めて良かった」(1:31)とあるように、神がご覧になって良しとされる世界がそこにありました。しかし、6章に於いては地上に人の悪が増し、神の前に堕落した人々の姿が記されています。「…ご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6節)と、1章とは対照的な神様の人間への思いが記されています。

 「後悔し、心を痛められた」というのは、何とも神様とは思えないような、人間的な表現です。そこには、ご自身が造られた人間を心から愛し、信頼し、期待しようとされる姿、その愛と信頼を裏切った人間を憂い、心を痛めている姿があります。



 神はすべての造られたものを滅ぼす決心をされました。しかし神は人間の罪に対して、ただ厳しく、冷酷に裁きを下されるお方ではありません。「ノア」とは「慰め」という意味を持つ名前です。このノアを通して箱舟が用意され、滅ぼすだけではなく救いと命に至る道が開かれました。聖書に記されている「ノアの箱舟」という洪水物語は、伝説、言い伝えの一つとして書かれているのではなく、そこには罪に対する厳しい裁きと同時に神の救いが示されているのです。

 「ノアは神に従う無垢な人であった」(9節)「無垢」とは純粋さ、混じりけのなさを示す言葉です。完全無欠な姿ではなく、幼子のように素直に神を信頼する心を表しているのではないでしょうか。



 旧約聖書は「神と人間のドラマである。」と言います。それぞれの時代にその人がどのように神を求め信じ、従って生きたのかが記されています。「これはノアの物語である。」(9節)私たちもそれぞれ、今、自分の物語を生きています。この時代の中でノアのように無垢な心で神の声に聞き、従い、「神と共に歩む」わたしの物語を生きる者でありたいと願います。
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