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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2011年4月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2011年4月24日 
「別離と祝福」加藤誠牧師
創世記13章



 2節に「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」とある。それは、12章で妻から一生の間責めさいなまれても不思議ではない行いの結果であった。最もアブラハムはどうやら社長の器である。物語の最初、12章5節には「蓄えた財産、ハランで加わった人々」という表現がある。彼のリーダーシップは社員をして、国を越えて彼に従わせるだけのものがあったのであろう。羨ましい限りである。



 13章では「非常に多くの」財産が、ロトとのトラブルの原因となる。彼らのいた土地では増えすぎた家畜に十分な食料を供給出来なかった。アブラムの社員とロトの社員の間で争いが起きた。そう聖書は言い、続けて「わたしとあなたの間ではもちろん・・・」とアブラムはロトに争いの終結を求め、新たな提案をする。そう、アブラムとロトとの間でも争いがあったようである。単なる社員同士の争いではない。リーダーとして会社全体をどのように導くかという争いだったのではないだろうか?



 アブラムはロトに選択の自由を与えた。ロトは目を上げて良く潤っていた「低地一帯」を選ぶ。わずか3節の間に「低地」という言葉が3度も繰り返される。恐らくロトの目にはビジネスチャンスが広がる都会に見えたのであろう。都会に住んでいようが、田舎に住んでいようが、人の心の中には神の目に映る邪悪がある。しかしながら、ソドムの「退廃」は特筆されるべきものだったのあろう。



 アブラムは神に促されて目を上げる。人は神に促されて、決断すべき時に初めて「目を上げる」ことが出来るのではないだろうか。彼の肩には社員一同の生活がかかっていた。ロトが選んだ低地は彼の目にも魅力的に見えたのではないだろうか?しかし彼は敢然と神の言葉を信じる。神の祝福を信じる。そして礼拝を第一とする信仰者の道を歩もうとするのである。
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 2011年4月17日 
「人の思い」加藤豊子牧師
創世記12章10−20節



 創世記12章は、アブラハムの信仰の旅の始まりであり、それはまた、イスラエル民族の始まり、神の大いなる救いの物語の始まりでもあります。将来に希望を持てない、行き詰まりを覚える状況の中に置かれたアブラハムに対し神は「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福する」と約束されました。その祝福は個人に留まらず、アブラハムを通して世界に広がっていくことが語られていました。



 「わたしが示す地に行きなさい」という神の招きの声に応えて、信仰の一歩を踏み出したアブラハムを待っていたものは、その地方のひどい飢饉でした。食べるものがないという状況は、私たちを不安にし、人間にとって最大の危機となります。多くの家畜と家族を養っているアブラハムにとっても、それは生存の危機であり、また彼の信仰の危機でもありました。

 「飢饉がひどかったのでエジプトに下り、そこに滞在することにした。」(10節) そこには、神に助けを叫び求める姿、祈りの姿はなく、エジプトへの避難はアブラハムの決断、独断であったことが伺われます。更に彼は、エジプトの地で生き延びるために知恵を絞り、策を立て、美しい妻サライを自分の妹と偽ることにします。やがて、アブラハムの予想の通りに妻サライはエジプトファラオの宮殿に召し入れられ、そのことによって彼は多くの財産を手に入れました。



 すべてうまくいった…アブラハムはそう心の中で思ったかもしれません。しかしやがて真実が明らかにされ、ファラオから言われた言葉は「あなたはわたしに何ということをしたのか。」(18節)というものでした。それは異国の王の口を通して語られた神の問いかけでもあったことを思わされます。わたしの元を離れて、ここで何をしているのかと神は問いかけてくださったのです。

 信仰の父と呼ばれるアブラハムの旅は始まったばかりです。数々の試みを通してその信仰の歩みが一足一足確かなものとされていく姿を、私たち自身の歩みと重ねながら辿らせて頂きたいと願います。
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 2011年4月10日 
「わたしが示す地へ」加藤豊子牧師
創世記12章1−9節



 12章からは、アブラハムの物語が始まります。創世記1章から始まる「天地創造」というテーマに続いて、二つ目の大きなテーマ「アブラハムの信仰の旅」が語られます。それは、イスラエルの歴史のスタートであり、また大いなる救いの物語の始まりでもあります。 何のためにアブラハムは選ばれたのでしょうか。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し…」(12:2)そこには、祝福の源となるようにアブラハムが選ばれ、世界のすべての人がアブラハムによって祝福に入るのだと記されています。



 それでは、何故アブラハムが選ばれたのでしょうか。彼は、非常に優秀な人物だったわけでもなく、選ばれるに値する特別な人物だったとも思われません。むしろ、希望が見えず、行き詰っているような状況に置かれていたように思われます。遊牧民であったアブラハムたちはユーフラテス川を北へ1000キロほど移動してハランに着き、そこに留まりました。父テラが死んで彼が一族の長となった時、妻サライは不妊で二人には子どもができなかったとあります。アブラハムに至るまでの系図には「生まれた…何年生きて息子や娘をもうけた」という言葉が繰り返されています。しかし、アブラハムの父テラの系図に示されているのは「死」と「不妊」という、この先は一家の断絶しかないという、人間の力ではどうする事もできない壁にぶつかっている、希望を見出せない状況でした。



 神は敢えて、行き詰っている、将来に希望を持てない夫婦を選び、用いようとされたのではないでしょうか。神の約束を、神の言葉のみを信頼して生きるようにと招かれたのではないでしょうか。「わたしが示す地に行きなさい」との招きに応えて、信仰の旅へと一歩踏み出したアブラハムの姿を心にとめたいと思います。
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 2011年4月3日 
「バベルの塔」加藤誠牧師
創世記11章1−9節



 先週は教団議長の石橋先生と共に韓国を訪れました。20階建てのメソジストセンターに、教団と協約を結んでいる3教派の方々に集まっていただきました。準備をしていた時、通訳のナグネ牧師が「通訳は言葉だけではなく思いを伝える」と言われたのが印象に残りました。



 バベルの塔を建てようとした人たちの目的は「有名になる」事でした。崇められるようになろう、と訳すことも出来る言葉です。そのために「天まで届く塔のある町を」建てようとしたのです。人の目にはどんなに高くそびえていようとも、あくまで神にとっては「降る」べき塔です。降って行かれた神がなさったことは「全地の言葉を混乱(バラル)させ、互いの言葉が聞き分けられぬように」する事でした。



 彼らは突然に種類の違う原語を話し始めたのでしょうか?私たちは新約聖書にあるペンテコステの出来事を知っていますから、その可能性も否定できないと思います。しかし、言葉の混乱はそれだけでもないように思えます。結果的に彼らは町の建設をやめます。言葉が通じなければ難しいでしょうが、それ以上に同じ思いを持てなくなったのではないでしょうか?



 今回の震災後、私のオフィスのパソコンに、世界各地からのお見舞いメールが入りました。みな同じ思い、暖かい励ましに満ちた内容でした。その励ましに後押しされるように、今日まで動き回ることが出来たと思っています。



 ヨハネによる福音書1章4節には「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と記されています。言葉の混乱は創世記の時代だけでなく、今日もあると思います。しかし私たちは言として来られたイエス・キリストにあって、命の言葉に励まされ、生かされている者であることを覚えたいと思います。
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