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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2011年5月29日 
「笑うアブラハム」加藤誠牧師
創世記17章1−19節



 アブラハムにとって、サラとの間に子どもが生まれることも大事であるが、一族の長として、もしその可能性がないならば後継者を定めることが大切な務めであったはずである。かつてロトが戦に巻き込まれた時、アブラハムは奴隷318人を招集して戦ったと聖書は言う。つまり、彼の肩には恐らく千人を超える人々の暮らしを支える責任がのしかかっていた。それ故に最初の契約の時には、アブラハムはダマスコのエリエゼルの名前を挙げ、今またイシュマエルの名前を挙げる。



 神は何故アブラハムが99歳の時に現われ、再び契約を結ばれたのか、直接の理由を聖書は語らない。この時イシュマエルの年齢が13歳であったことを聖書は記す。アブラハムの時代のことは分からないが、ユダヤ教では13歳は大人の仲間入りをする年齢である。元服という言葉を思い出す。神を除いては、公私共にイシュマエルはアブラハムの後継者だと認められつつあったのではないか?



 契約についても、細かく見れば相違はあるが、アブラハムの子孫が神の祝福を受ける点では一致している。15章の契約がアブラハムによって(勿論、アブラハムにはそれなりの理由があるが)破棄されたからこそ17章で再び神はアブラハムと契約を結ばれるのではないだろうか。



 神の語りかけをアブラハムはひれ伏しつつ、心の中では笑い飛ばす。妻サラとの間に子供が生まれるには、流石に現実不可能な年齢になっていたからである。それでも彼は息子、一族郎党割礼をその日の内に受ける。当時としては非常な痛みと危険が伴うこの行為を直ちに受けるには、それなりの理由がなくてはならない。本来、契約違反は死をもって償う。再び神がアブラハムと契約を立てるという事は、神がアブラハムの罪を許したことになる。痛みをもってである。アブラハムの応答にはそこいらへんの意味が隠されていないだろうか。
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 2011年5月22日 
「顧みられる神」加藤豊子牧師
創世記16章 



 聖書は、人間の罪深さを隠さずに示しています。15章で「天を仰いで、主を信じた」というアブラハムが、16章では妻サライと共に下を向き、その弱い内面をさらけ出しています。



 10年経っても未だ約束の子どもが与えられない…自分の体の衰えを感じながら、サライは夫以上に悩み苦しんでいたことでしょう。「主はわたしに子どもを授けてくださいません。」と自分で結論を出してしまった姿には、サライの嘆き、神への不信感が表されています。そして彼女は「どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください」とアブラハムに勧めます。アブラハムは神に尋ねることなく、「サライの願いを聞き入れた」とあります。いいかげんアブラハムも、この問題に関して目に見える形で結果が欲しい…と願ったのではないでしょうか。サライの提案は、自分たちに子孫が与えられるための大変良い現実的な案に思えたわけです。

 二人の願いどおり、女奴隷ハガルは妊娠します。すると、そのことでハガルは女主人サライを軽んじるようになりました。サライは「あなたのせいです」と夫を責め、またアブラハムは「好きなようにするがいい」と無責任な態度を取ります。



 16章を通して思わされることは、人間というものは、本当に身勝手な生き物なのだということです。自分の都合の良いように事を運ぼうとし、うまくいかなければ人のせいにするサライ。真剣に向き合って責任を取ろうとせず、逃げるアブラハム。子どもができた途端にコロッと態度を変えて主人を軽んじるハガル。身勝手な考え方しかできない、神を見上げることが出来ず、自分の都合だけを見ている人間の姿があります。

 逃げ出した荒野で神に出会ったハガルは「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と告白しました。わたしたちは「何とみじめな人間なのだろう…」とパウロのように告白せざるを得ない者であります。しかし、そのような者を顧みてくださる神の眼差しが、ここに示されていることを覚えたいと思います。
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 2011年5月15日 
「生きる」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書4章46−54節



 「それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。」

 神さまの側では、すでに私たちが願う事が成されているのにもかかわらず、それを私たちは後になって知ることがあります。この父親には病気で死にかかっている息子がいました。何の病気で、どのような経緯でこの父親が主イエスのところに来たのかは、私たちは知らされていません。主イエスがあらゆる意味で最後の希望でした。そして自分と一緒に家まで来るように頼んだのです。



 父親と一緒に行動する代わりに、主イエスは「あなたの息子は生きる」と約束し、家に帰るよう促しました。父親がどのような思いで主イエスの約束を聞いていたのかは分かりません。彼には家に帰る以外の選択肢は残されていませんでした。

 彼の家の僕たちと帰る途中出会うまでにまる一日が過ぎていました。もし夜旅をしたのだとすれば、それは危険な旅だったと思います。午後の光が夕闇に変わり、やがて漆黒の闇がこの父親を包んだはずです。闇の中を一人で歩くような経験を私たちもすることがあるのではないでしょうか。



 3月の13日、つまり震災の二日後の夜、私たちは仙台に入りました。新潟から一般道で仙台に向かいましたが、車のライトに照らされてはいても、夜道の暗さが今も記憶に残ります。そして仙台の町の暗さも記憶に残ります。

 不安を抱え、闇に囲まれていても、この父親は歩くしかなかったのです。主イエスの語った「あなたの息子は生きる」という言葉にすがって。そして、すがって歩いて良かったという日が来るのです。この父親に来たように、私たちにも。
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 2011年5月8日 
「約束」加藤豊子牧師
創世記15章



 「あなたの子孫にこの土地を与える。」(12:7)子どもを与えてくださる、という約束は未だ実現していません。いつまで待てばいいのか…年々年老いていくアブラハムとサライにとって、この約束を信じて待つことは大変難しいものであったことでしょう。



 アブラハムは神に問いかけました。「わが神主よ、わたしに何をくださるというのですか、わたしには子どもがありません…ご覧の通りあなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから…」(2.3節)この問いかけの中には、アブラハムの不信、いらだち、あきらめ…といった様々な思いが神に向かって爆発しているような印象を受けます。アブラハムは神に向かって真剣に、真正面から問いかけています。それはまた、信じて従って行こうと歩み出したアブラハムと神との関係の深まりを示しているのかもしれません。信じて歩もうとするからこそ、真剣な問いかけも生まれるのです。



 神はアブラハムを外に連れ出し、天を仰いで星空を見るように促します。満天の星空のもとで、彼は何を思ったのでしょうか。詩編8編にはこのように歌われています。

 「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎみます。  月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何者なのでしょう…」

 天を仰ぎ、創造主なる神の存在の大きさに圧倒されながら、アブラハムは自分の小ささ、愚かさを思わされたのではないでしょうか。



 「アブラムは主を信じた。」(6節)とあります。自分の小ささ、弱さ、…迷ったり疑ったりする愚かな自分の姿に目をむけるのではなく、このような者を顧みてくださる神の愛と真実に信頼し、委ねたアブラハムの姿があります。わたしたちが日々の歩みの中で直面させられるのも、自分の弱さ、愚かさです。毎週捧げる礼拝は、アブラハムのように天を仰ぎ、神の変わらない愛と真実に委ねる時として与えられていることを覚えたいと思います。
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