←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2011年6月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2011年6月12日 
「とりなしの祈り」加藤豊子牧師
創世記18章16−33節



 神が私たちに期待され、待っておられる祈り…それはとりなしの祈りではないでしょうか。自分のためにではなく、他者のために祈る祈り…それはまた、私たちが他者のことを心から思う者とされなければ、真実に捧げることのできない祈りでしょう。

 アブラハムが神の招きに応えて歩み出してから、24年の月日が流れました。それは、試練と挫折を繰り返し、自分の弱さや不信仰と直面させられる歩みでありました。今日のところでは、そのアブラハムが24年の時を経て、神の期待に応えて「とりなしの祈り手」として神の前に立っている姿を見ます。



 豊かな繁栄を誇っていたソドムの町は、道徳的に大変乱れた町でした。それだけではなく、様々な格差が生じ、豊かな者、強い者が利益を独占し、弱い立場の人々が顧みられず、正しい裁きが行われない…そのような町でありました。

 アブラハムは憐みを求めて神に訴えます。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。…その50人の正しい者のために、町をお許しにならないのですか…」(24節)彼は、正しい者と悪い者が一緒に滅ぼされるのは問題だ、せめて正しい者だけでも救ってください、と願っているのではありません。50人の正しい者がいるならば…10人しかいないかもそれませんが、その少数の正しい者たちに免じてどうぞ町全体を救ってください、と神の憐みを求めて訴えているのです。



 必死になって滅びに向かう人々のために、神の憐みにすがって祈る、この祈りこそ、神がアブラハムに期待しておられた祈りだったのではないでしょうか。「祝福の源となるように」と選ばれたアブラハムに与えられた使命はそこにあり、24年かけて彼は、心を砕いて他者のためにとりなしの祈りを捧げる者へ導かれているのです。

 今日、「とりなしの祈り手」としての使命を引き継いでいるのは教会であり、私たち一人一人です。真のとりなし手である主イエスの助けを仰ぎながら、心を砕いて祈る者にさせて頂きたいと願います。
目次に戻るページトップ