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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2011年7月31日 
「神に選ばれし方」加藤誠牧師
創世記23章



 この23章に記されているのは、一言で言えばアブラハムが墓地を手に入れた話である。神はかつてアブラハムに「わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」(15:7)と約束されたが、アブラハムが生涯かけて手に入れることが出来たのは、サラのために所有したこの墓地だけである。

 サラが死んだ時、アブラハムは「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」と聖書は記す。どれほど深い悲しみであったろうか。しかし彼は「遺体の傍らから」立ち上がる。そして驚くほどの粘り強さと周到さをもって土地の交渉に当たる。



 ヘトの人々が住むヘブロンにおいても、アブラハムはその財力と人格で一目置かれていた。しかし彼はどこまで行っても「一時滞在する寄留者」にすぎない。「譲ってくださいませんか」、「所有させてください」と願うアブラハムに対して返ってきたのは「提供」「差し上げます」という言葉であった。

 ついにアブラハムはエフロンと公正な取引によって墓地を手に入れる。この23章においては、私たちはアブラハムの、どうあってもサラのために墓地を手に入れる、という強い意志を感じるのではないだろうか。



 「わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」という約束はアブラハムに与えられた。しかしサラとアブラハムは夫婦として、その約束の実現も楽しみにしていたのではないだろうか?その神の約束をサラは見ないで死んだ。だからこそアブラハムは「遺体の傍らから」立ち上がったのではないだろうか。

 神の御言葉に生かされ、その約束を信じて人はその地上の生涯を終わることが出来る。サラとアブラハムの物語はその幸いを私たちに教える。
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 2011年7月24日 
「主は備えてくださる」加藤豊子牧師
創世記22章1−19節



 22章モリヤの山での出来事は、アブラハムの生涯の中で最大の難関な山、試練と言えるものでしょう。この前の章に書かれているように、25年の時を経てようやく約束の子イサクが与えられ、またその土地の支配者アビメレクと契約を結ぶことにより初めて自分の井戸、水を得ることができました。イサクを巡る様々な試練の時が終わり、遊牧民だった生活にも安定が与えられ、後は、かわいい息子イサクの成長を見守るだけ…そんな落ち着いた時を迎えていたのではないでしょうか。

 まさにそのような時に、神様から試みを受けたのです。その試みの内容のあまりの厳しさ、理不尽さに私たちは戸惑いを覚えます。「イサクを焼き尽くす献げものとしてささげなさい」この命令は、神様ご自身の約束を無にするものであり、アブラハムのこれまでの人生は何だったのか…と思わせるものでありました。



 アブラハムにとってイサクがどのような存在だったのか。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」とあるように、自分の血を分けた、たった一人の最愛の息子でありました。ありったけの愛情を注ぎ、幸せを感じていたことでしょう。しかし、その人としての情の深さが、祝福の基となるべく神に選ばれた者という使命感を鈍らせていたのかもしれません。



 アブラハムは淡々と、黙々と従います。苦しい胸の内、つぶやき等は一切語られず、ただそこには神の命令に従うアブラハムの姿があります。イサクに「献げものにする子羊はどこにいるのですか」と問われた時、「きっと神が備えてくださる」と答えました。「備える」は「見る」と訳される言葉です。アブラハムは全く見えない状況でした。

 何故このような命令が与えらたのか、この先どうなるのか…しかし、神様は見ておられる、過去も現在も、そして将来も見ていて下さる。その確かなまなざしの中を今まで生かされてきた、そして今も生かされているということを、アブラハムは信頼していたのではないでしょうか。自分には今見えないけれども、見ていてくださる、備えて下さると、神を信頼して従おうとするアブラハムの姿があります。
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 2011年7月17日 
「神はあなたと共に」加藤誠牧師
創世記21章22−34節



 私たちが神と共にあるのではない。神が私たちと共にいて下さる。これが聖書のメッセージであり、アブラハムを通して今日も語られるメッセージである。

 ぺリシテの王アビメレクにとりアブラハムの一族は取扱いに困る存在であった。その理由は一にも二にも、神がアブラハムの味方をしているということであった。22節の「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」というアビメレクの言葉には、彼の理解を超えた神のアブラハムへの度外れた好意を認めざるを得ない複雑なアビメレクの思いが込められているように思える。彼のみならずアブラハムの信仰者としての負の部分に私たちも目をとめる時、とてもアブラハムが神と共に歩んでいる、とは思えない。しかし神がアブラハムと共に歩んでおられると、アビメレクは思わざるを得ないのである。



 アブラハムが掘り当てた井戸をアブラハムの所有とするための契約がこの個所では行われている。アブラハムはあくまで寄留者である。34節では長くペリシテの国に寄留したと記されている。いかに財力があり、使用人が多くてもペリシテの国で、彼はどこまでいっても異邦人であり旅人である。その現実の中で、彼は神が彼に約束したことの実現の第一歩を見たのではないだろうか。33節でアブラハムは一本の木を植え、永遠の神の御名を呼ぶ。永遠に変わることのない神の御言葉の約束を彼は信じるのである。私たちも神の御言葉の約束を信じる存在である。



 アビメレクとアブラハム一族の関係は、息子イサクの代になって悪化する。しかし彼らを追い出したアビメレクが再びイサクの前に現われ関係の修復を願う。(26章)その理由は、「主があなたと共におられることがよく分かったから」だとアビメレクは言う。神が私たちと共にいて下さる。これに優る恵みはない。
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 2011年7月10日 
「イサク誕生」加藤豊子牧師
創世記21章1−21節



 12章から始まったアブラハム物語、25年の時を経て約束の子イサクが誕生したことが21章に記されていいます。その間アブラハムとサラは、ひたすらに神の約束を信じて待ち続けることができたわけではなく、疑い、不信、諦め…様々な思いに揺れ動く25年間だったことを見てきました。



 あまりにも長く、待たされ過ぎたようにも思えるのですが、聖書は「約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われ」(1節)「それは、神が約束されていた時期であった。」(2節)と語ります。子ども、後継者がいない…という苦しみを抱えてはいましたが、アブラハムは大勢の群れを率いる大変実力のある、優秀なリーダーであったことが想像されます。そのような、人間的な力のあるアブラハムが砕かれて、祝福の基となるに相応しい、神に選ばれた器になるためには、それだけの時間が必要だったのではないでしょうか。



 サラは「神はわたしに笑いをお与えになった。」(6節)と顧みてくださる神への感謝と喜びに溢れて語ります。そこには、以前の皮肉を込めた笑いはなく、素直に神の方を向いて笑う喜びがありました。しかし、その後に記されている出来事に、私たちの気持ちは暗くなります。サラはイシマエルがイサクをからかっていると思い、再び追い出そうとするのです。「あの女とあの女の息子…」ハガル、イシマエルという名前があるのにその名さえ口にしようとしないサラの態度の中に、心の奥深くに潜む冷淡さ、憎しみ、闇の深さを見させられます。また、イサクがアブラハムの後継者となることは、はっきり約束されていた事でした。にも関わらず、信じることができず恐れに囚われているサラの姿があります。



 現実を見て、様々な恐れや疑いに支配され、神の約束が見えなくなってしまう姿…それはまた私たち自身の姿でもあります。そのような人間の弱さを越えて、神は私たちを顧み、また約束を実現して下さるお方であることを覚えたいと思います。
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 2011年7月3日 
「サラのゆえに」加藤誠牧師
創世記20章



 聖書の中には「話に無理があるでしょう?」と突っ込みたくなるような個所がある。90歳の妻のサラを、神からの第一子誕生の予告があるにもかかわらずその土地の王に差し出すことがそうであるし、しかも20数年経ってはいても二度目ということも俄かには信じがたい。そしてこれが「信仰の父アブラハム」か?と私たちを戸惑わせる。



 神は王アビメレクの夢に現れ、彼に事情を説明するが、その際にアブラハムを「預言者」と言う。「してはならぬことをした」と断罪せざるを得ないアブラハムを神は預言者と呼び、あまつさえ「あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう」とまで言われる。複雑な思いで王アビメレクはアブラハムに祈りを求めたことであろう。

 17節では神がアブラハムの祈を聞いてくださった事が記されている。この20章には異邦人にさえ馬鹿にされる信仰者アブラハムと、その彼をあくまで「預言者」として立てる神、そして祈るアブラハムの姿が示されている。そして私たちはそのギャップに頭を抱える。



 忘れてはならないもう一人の主人公はアブラハムの妻サラである。二度までも自分の命を守るために異邦の王のハーレムに差し出されたこの女性の真理を想像することは恐ろしくて出来ない。そしてサラがどのような思いでアブラハムの懇願に従ったのかは聖書は記さない。しかし聖書は最後の節で「主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を・・・」と記す。ここには様々な思いを飲み込んで夫に従った妻サラの怒り、悲しみ、諦めが背景にあるように思えてならない。



 祈りは、主の名によって祈られる祈りは、主イエスのゆえに神に届く。しかし神に届くのは祈りだけではない。言葉に表せない思いも神のもとには届く。
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