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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2011年8月28日 
「目に見えないものの大切さ」加藤誠牧師
創世記25章19−34節



 この25章からヤコブの物語が始まる。長さから言えば、ダビデの物語には及ばないものの、アブラハムと並ぶ分量である。

 ヤコブを一言で言い表せば、アンチヒーローである。しかもアンチの前に「せこい」を加えてもいいと思う。この25章には人間の、男の「せこさ」「情けなさ」のようなものが色濃く出ている。



 二種類の料理が想像される。肉料理と野菜料理である。兄エサウは狩人で、取った獲物で彼が作ったかどうかは不明だが、肉料理を父イサクは好んだ。何とこれが父が兄を愛した理由だと聖書は言う。ヤコブが作った料理は、パンとレンズ豆の煮物と料理名まで記されている。つまりは肉食系男子がエサウであり、草食系男子がヤコブであったと考えても構わないであろう。ところがこの草食系男子、なかなかしたたかである。



 ある日、狩りが不調で疲労と空腹を抱えて戻ってきた兄エサウに対して弟ヤコブは、「長子の権利」と引き換えに上記の料理を提供する交渉を行う。交渉は成立し、エサウは一時の満足と引き換えに長子の権利をヤコブに譲る。兄も弟も、この長子の特権が実はどれほどのものかは恐らくまだ知らない。この事が引き起こす騒動も今は語る時ではない。



 この物語のゆゆしき点は、弟が狡猾な手段で長子の特権を奪おうとした事ではない。この事の背後に神がおられる事である。彼らがまだ母リベカの胎内にいた時、余りに押し合う為母は主の御心を尋ねた。返ってきた答えは「兄が弟に仕えるようになる。」との神の言葉であった。神がイサクの後継者としてエサウではなくヤコブを選んだ、という事である。しかも生まれる前に。

 神の選びは人の目には見えない。しかし確かに神の選びは聖書で語られ、それは私たちにも重大なこととして関わるのである。
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 2011年8月21日 
「アブラハムの生涯」加藤誠牧師
創世記25章1−18節



 創世記25章の最初に記されているのは、アブラハムの再婚の話である。しかも、6人もの子供が与えられている。かつて「百歳の男に子供が生まれるだろうか。」と言ったアブラハムが、再婚したとたん?6人の子供が与えられている。妻の名はケトラ、これはアラビア産の薫香を意味すると学者の本に書いてあった。

 25章の前半は、アブラハムの葬儀の記事を囲んで、彼の子孫たちがどこに住んだかを私たちに教える。そして、強調されているのが、イサクこそがアブラハムの真の後継者である、ということである。



 救援対策本部の仕事として、震災直後からほぼ毎週東北地方に出かけている。スタッフが一回の出張の移動距離を計算したところ、千キロを超えていた。特に東北新幹線が復旧するまでは、東京から一人で車を運転して往復していた。体力とタイヤをすり減らして実感したのが東北の広さであった。

 イシュマエルというアブラハムとハガルの間に出来た子供の子孫は北エジプトからアシュル方面、地図で見ると何とアッシリアの近く、つまり直線距離で千キロ離れた所に散らばって住んだのだと言う。これにケトラの子供たちを加えると千キロ四方にアブラハムの子孫は広がって行った、と乱暴に言えるのではないだろうか。「互いに敵対しつつ生活していた」と21世紀に当てはめても通じる現実を記しつつ、しかし聖書はアブラハムへの神の祝福の広がりを私たちに伝える。



 アブラハムの生涯は175年であった。「満ち足りて死に」と聖書は語る。何に満ち足りていたのだろうか?11節に「アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された」とある。彼は物に満ち足りて死んだのではない。神の祝福がイサクにも豊かに与えられるのだ、という確信に満ちて死んだのではないだろうか?死に際しても彼は希望を持って最後を迎えたのではないだろうか。
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 2011年8月14日 
「主に導かれて」加藤豊子牧師
創世記24章42−67節



 高齢のアブラハムに残された、最後の大切な仕事…それはイサクの結婚相手を探すことでした。この大役は、全財産の管理を任されている年寄りの僕に託されることになりました。結婚相手はカナンの地からではなく、親族がいる故郷から連れてくるようにとの命でした。『あなたの子孫にこの土地を与える』と約束して下さった主が、必ず嫁を連れてくることが出来るようにしてくださる、とアブラハムは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(へブル11章)ように僕に語ります。



 僕が考えた、相応しい結婚相手を探す方法は、水を汲みに来た女性に「水を飲ませてください」と頼み、その女性が僕のみならずラクダにも飲ませてくれるかどうかを見る、というものでした。旅人とラクダのために、労をいとわず奉仕する気持ちをもっている人を見つけ出そうとしたわけです。長年アブラハムに仕えた、経験豊富な年寄りの僕の、人を見る「知恵」というものがそこに見られます。しかしこの出来事の初めと終わりに見られるのは、僕のひれ伏して神に祈る姿です。結婚相手を探す場面、そこには人の知恵が発揮されているようですが、貫いているのは主の確かな導きの御手を信じて祈る姿です。主の導きを求めながら、最善を尽くして託された使命を果たそうと努めている僕の姿があります。



 リベカの父、兄は「このことは主の御意志ですから…」と受け止めます。「一緒に行きますか。」そう問われたリベカも「はい、参ります」と答えます。突然の結婚話、遠い知らない土地…それでも決心したリベカの姿は、行き先を知らないで、ただ神の約束の言葉、導きを信じて一歩踏み出したアブラハムの旅立ちの姿と重なるようです。アブラハムの信仰をイサクと共に受け継いでいくリベカの姿があります。 このイサクの結婚相手を探す物語は私たちに「主の導きを信じて生きる世界がある」と言うことを示しているのではないでしょうか。
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