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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2011年9月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2011年9月18日 
「ヤコブの誓願」加藤誠牧師
創世記28章10−22節



 東北の被災地にボランティアに行く青年たちには、当然のことながら様々な背景がある。学生もいれば会社を休んで参加する人もいる。定職につけずしばらく引きこもっていたという青年たちもいる。数年社会に出られなかった青年が、ボランティアをきっかけに洗礼の思いが与えられた、という話を昨日、とある教会で聞いた。出会いは人を変える機会を与えることがある。まして神との出会いは、その人の一生に大きな変化をもたらす。



 ヤコブは千キロにも及ぶ旅の途上にある。嫁探しという目的もあるが、兄に命を狙われて、という理由の方が大きい。町にいたはずであるが、彼は野宿を選んだようである。兄の追手を恐れたのであろうか?私は中学時代、さんざんに家出をして石を枕に寝た経験がある。地べたの微妙な凹凸が次第に気になって、夢を見るほどには眠れなかった。



 夢から覚めたヤコブは「まことに主がこの場所におられるのに・・・」と言う。とても神がおられるとは思えない場所にヤコブは寝たのであろう。その驚きを表す言葉であるが、やがてイスラエル人たちにとって、ベテルは特別な場所になってくる。そうなると少し変である。つまり聖書の神は場所に縛られる神ではないから。ともあれ、ヤコブに対する神の約束は一方的である。「与える」「共にいる」「守る」「見捨てない」と孤独な旅を始めたヤコブを励ますのである。



 ベテルは場所であるが同時に経験である。神と出会いみ言葉が与えられる、という経験こそがヤコブの支えになってゆく。それは私たちにとっても大切なことである。心にベテルの経験を私たちはしっかり持っているだろうか。
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 2011年9月11日 
「策略と神の計画」加藤豊子牧師
創世記27章1−29節



 「イサクはエサウを愛した。…リベカはヤコブを愛した」子どもは親がどのように自分のことを見ているか、ということに対してとても敏感です。このイサクとリベカの態度は、二人の兄弟に暗い影を落とすことになっただろうと思わされます。



 イサクは長男エサウに、リベカはヤコブに跡を継がせたいと願いました。しかし、人の思いを越えて神の選びはすでに示されています。「兄が弟に仕えるようになる」生まれる前に語られた言葉です。当然のように長男を後継ぎとしようとするイサク、策略を用いてまでその権利を奪おうとするリベカ。この二人の親の中に神を畏れる心はなく、ただ自分の思いを通そうとする姿が見られるだけです。しかし、どんなに人が策を巡らそうとも、自分の思いを通そうとしても、その中で神の計画が実現されていくということをこの物語は示します。



 主イエスが十字架に架かられた時、そこに渦巻いていたのは律法学者たちの憎しみ、妬みの思いでした。その人の思いがイエスを十字架につけたようですが、実はその只中で実現したのは神の救いの計画であったことを思わされます。

 何故、後継者としてヤコブが選ばれたのか。兄の踵をつかんで生まれてきたヤコブ…ずるがしこく、だまして奪うような人物が神の祝福を受け継ぐに相応しい人物とも思えません。しかし、神の選びはヤコブにありました。



 説明のつかない不可思議な神の選び…それは私たちにも言えることではないでしょうか。何故、私は救われてキリスト者になったのか…あの人ではなく、何故私が。 ヤコブはこの後、神の御手の中で育てられ、祝福を受け継ぐ者へと導かれていきます。私たちも、アブラハムのように神の祝福を受け継ぐ者として、神の恵みを持ち運び、表すものとして、不思議な導きの中でここに招かれていることを覚えたいと思います。
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