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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2011年10月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2011年10月23日 
「祝福を求めて」加藤豊子牧師
創世記32章23−33節



 兄エサウとの再会を前にして、ヤコブは「非常に恐れ、思い悩んだ」(8節)とあります。それは使いの者から、エサウが400人の伴を連れてこちらに向かっているという情報を聞いたからでした。ヤコブは兄をなだめるための贈り物を用意し、最悪の事態も想像しながら再会に向けて出来る限りの備えをします。後ろには別れてきたラバン、前には兄エサウが400人を連れて待ち構えているという、進退きわまった状況の中、これから自分と家族はどうなるのだろうかと、不安と恐怖、大変な緊張感の中、追い詰められているヤコブがいます。



 ヤコブは祈りの中で、「わたしは兄が恐ろしいのです。」(12節)と訴えています。自分の正直な、ありのままの思いを隠していません。何故、命を狙われているのか…それは自分が兄を騙し、欺いたからだと自らの罪を自覚しているヤコブです。神の前に自らの罪と弱さ、不安な気持ちを隠すことなくさらけ出している姿があります。また彼は「あなたはかつてこう言われました…」(13節)と神の約束の言葉を握りしめ、祝福を求めて祈っています。ヤボクの渡しで夜明けまで格闘した出来事というのは、このように神の前に自分のすべてをさらけ出し、また約束の言葉を握りしめながら、すがりつくように助けを求めた、ヤコブの祈りの格闘の時であったと思わされます。



 神はその祈りの格闘の中でヤコブに触れてくださり、名前をヤコブからイスラエルに変えるようにと言われました。「イスラエル」という名前の本来の意味は「神は支配される」というものです。人の踵をつかんで引きずりおろし、他者を支配するような者であったヤコブが、砕かれて神の支配の中を生きる者へと変えられています。

 わたしたちの人生に於いても、様々な転機、ヤボクの渡しのような危機が訪れます。そこに於いて神と格闘するように祈る時、神は私たち一人一人にも触れてくださることを覚えたいと思います。
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 2011年10月2日 
「ヤコブの苦しみ」加藤豊子牧師
創世記29章14−30節



 兄エサウに命を狙われ、追われるようにして旅立ったヤコブは、母リベカの兄、ラバンの家にたどり着きます。叔父ラバンは「身内だからと言ってただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」とヤコブに問います。ラバンには二人の姉妹レアとラケルがいました。ヤコブは妹ラケルとの結婚を願い、結婚の条件として、7年間ラバンのためにただで働くことを申し出ました。愛するラケルとの結婚を夢見て、7年をほんの数日のように感じる思いでヤコブは働きました。約束の年月が満ち、祝宴が始まりました。どんなにこの日を待ち焦がれていたことでしょう。しかし、この後想像もしていなかった、とんでもない出来事がヤコブを襲います。ラバンは結婚式の夜、ラケルではなく、姉のレアをヤコブのもとに送ったのです。



 「どうしてこんなことをなさったのですか。何故わたしをだましたのですか。」とヤコブはラバンに詰め寄ります。こんな時、母リベカが側にいたらヤコブを守り、助けてくれたことでしょう。しかし今、ヤコブに味方をしてくれる人は誰もいません。かつて父、兄をだましたヤコブがだまされる側に立たされています。 ヤコブが夢見ていた生活…それは愛するラケルと結婚して、ラバンのもとからも独立して幸せに暮らすことでした。しかし、ヤコブを待っていたのはラバンの家でのさらなる7年間の労働と、複雑な家庭環境でした。



 神は、厳しい環境の中にヤコブを置きました。自分の思い通りには決してならない状況…それは、かつて欲しいものは、だましてでも自分の手に入れてきたヤコブに対する、神からの訓練の時であったと思わされます。両親と共に暮らしていた、何不自由ない守られた生活の中では、「共におられる神」に気付けなかったかも知れません。追われる身となり、味方が誰もいないような環境に置かれて初めて、ヤコブは生きておられる神、ベテルで約束してくださった「共におられる神」に出会うことが出来たのではないでしょうか。
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