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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2011年11月27日 
「夢を解く」加藤誠牧師
創世記41章9−24節



 夢は創世記において、大きな役割を果たす。ヨセフが兄たちにうとまれ、エジプトに奴隷として売られてしまうきっかけも夢であった。牢獄で料理役と給仕役の夢を解き、恩に感じた給仕役の口添えによって、無実の罪が晴れるのを期待したヨセフであったが、彼はなお2年の時を牢獄で過ごさねばならなかった。



 神々の化身とも考えられていたファラオに胸騒ぎを与えた夢を、誰一人として解き明かすことが出来なかった時、約束を思い出した給仕役により、ヨセフは王の前に立つ。ヨセフは恐れずに夢の解き明かしは神によることを王に告げる。

 ヨセフは夢の解き明かしのみならず、豊作を飲み込む飢饉に対する国策を王に示す。ヨセフの言葉は王だけでなく家臣たちの心も捕え、彼は王により宮廷の責任者に任ぜられる。

 急転直下のごときヨセフを取り巻く状況の変化である。彼は多くのものを手に入れた。王に次ぐ権力。新しい名前。そして王の肝いりによる妻。聖書は「ヨセフの威光」と表現する。



  しかし、果たしてヨセフは心から満足していたのだろうか?と思う。国の産物の5分の1を徴収して飢饉に備えるのがヨセフの策であった。いくら豊作だからと言って、徴収される民衆の不満はヨセフに向かったのではないだろうか?彼に与えられた妻はオンの祭司の娘である。ヨセフがどのように異教の神を信じる娘を、しかも祭司の娘を受け入れたのか、聖書は語らない。



 生まれた子どもに、ヨセフはそれぞれマナセとエフライムと名付ける。マナセとは「忘れさせる」という意味である。神への感謝をもってヨセフは子どもたちの名前を決める。エジプトはヨセフにとって悩みの地であった。しかしどのような悩みの地であっても、私たちは神への感謝を持って生きて行ける。
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 2011年11月20日 
「主が共におられ」加藤豊子牧師
創世記39章



 ヨセフはエジプトに連れてこられ、宮廷の役人ポティファルの家で奴隷として働くことになりました。主人から信頼され、家の管理や財産まで任せられるようになりましたが、主人の妻から執拗な誘惑を受け、ついには無実の罪で監獄に入れられることになります。

 どんなに悔しく、また嘆き悲しんだことかと思いますが、ヨセフの感情、心の動きを知ることはできません。ただ「主がヨセフと共におられ」という言葉が4回も語られています。



 毎日のように、主人の妻からの誘惑を受けた時「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」とヨセフは答えます。この誘いを受け入れることは、主人への裏切り、ということ以上に神に対して大きな罪をおかすことになるのだと、どんな時も神の前に生きていることを意識しているヨセフの姿があります。



 私たちは苦しみの中で、困難な状況に置かれた時「神様私と共にいてください。」と共におられる神を求めます。しかし、誘惑に遭った時はどうでしょうか。自分の好きなようにしたいと思う時、私たちは神が共にいることを願わないことがあるのではないでしょうか。苦しみ、悲しみのどん底で私たちと共にいて支えて下さる神は、私たちが様々な誘惑を受け、負けそうになる時にも共にいてくださり、ヨセフのように「主の前に生きよう」とする者にその誘惑に勝つ力をも与えてくださるお方であります。



 もう自分の人生は終わった、と自暴自棄になり、投げやりな生き方をしても不思議ではない状況にヨセフは置かれました。それでも絶望せずに前向きに生きることが出来たのは「主が共におられ」という恵みがそこに与えられていたからではないでしょうか。
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 2011年11月13日 
「夢見るヨセフ」加藤豊子牧師
創世記37章1−20節



 創世記最後に記されているのはヨセフの物語です。最終章50章はヨセフの死をもって終わります。それに続く出エジプトの出来事…奴隷として苦しめられていたイスラエルの民が、モーセに導かれてエジプトを脱出するという大いなる救いの物語も、このヨセフがエジプトに売られてしまう、という事件から始まるわけです。



 それにしても、アブラハム、イサク、ヤコブと創世記に登場する人たちは、皆家族関係が複雑で、聖書は普通なら隠しておきたいような家族の問題を赤裸々に語っています。私たちも、表面的には何事もないように見えても、実は多かれ少なかれ家族のことで悩みを抱え、傷ついているというのが現実の姿なのではないでしょうか。



 父ヤコブは、愛するラケルの忘れ形見でもあるヨセフを、他のどの兄弟よりも特別にかわいがりました。当然のことながらヨセフは他の兄たちに憎まれるようになります。ヨセフが見た夢の話は、更に兄たちの憎しみを増幅させ、やがてそれは殺意となります。ルベンの機転により命は助かりましたが、ヨセフは着物をはぎ取られて穴に放り込まれ、さらには遠いエジプトへ売られてしまうことになります。



 この37章には「神」という言葉が一度も出てきません。かつてアブラハムに直接語りかけてくださったような、神の声も聞こえません。そこにあるのは、ただ罪と悲惨な結末を迎えたヤコブの家族の不幸な物語だけのように見えます。しかしそのような、神が見えないと思えるような中に、実は神の不思議な導きの御手があり、確かに神の救いの計画が始まっています。ヨセフ物語が私たちに示している「神の摂理」というテーマを、覚えたいと思います。
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 2011年11月6日 
「ベテルへ上ろう」加藤誠牧師
創世記35章1−15節



 ヤコブ一族が神からベテルに上るように言われたことには理由がある。それは34章に記されていることに起因している。シケムというカナン地方の中心的な町で、ヤコブ一族は宗教を異にする町の人々と平和裏に暮らしていた。しかし、ヤコブの娘ディナが首長の息子に性的暴力を振るわれる。それは恥ずべき行いであり、事実を聞いたディナの兄たちは復讐を企てる。結婚を望む相手の思いを逆手にとり、町の男たち全員に割礼を施させる。創世記17章によると、割礼は神との契約である。人間同士の約束に、神との契約を意味する割礼を持ちだすなど、これは神への冒涜である。しかし人間同士の約束は履行され、痛みに苦しむ町の男たち全員を、ディナの兄たちは虐殺する。復讐は復讐を呼び、ヤコブ一族は周囲の町全体から確実に命を狙われる存在になった。



 ヤコブは息子たちの暴挙を、それがどのような結果を引き起こすことになるのかを知っていても、止められない。35章に見る神のヤコブへの語りかけは唐突であるが、ひょっとしてこれこそがヤコブの待ち望んだ事であったのではないだろうか?父親としての力の限界を知り、しかも自分たちを取り巻く状況は絶望的である。けれども神はお見捨てにならない。そういう信仰をヤコブは持っていたのではないだろうか?

 神の言葉を聞いたヤコブの周囲への話し方は、俄然力強いものとなる。



 震災の救援に携わる者として、私はしばしば語るべき言葉を失う。 余りの微力さに言葉を失う。しかし、言葉を聞く場所を持つことが出来るのは幸いである。
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