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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2011年12月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2011年12月25日 
「地には平和」加藤誠牧師
ルカによる福音書2章8−20節



 ルカは2章の1節から7節で、どのような歴史的背景を持って主イエスが誕生されたのかを伝える。8節からは、それが私たちとどのような関係にあるのかを、羊飼いを通して伝える。 羊飼いに対する天の大軍の賛美が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」であった。



 「地には平和」。人の歴史の中で、これほど求められた祈りはないのではないだろうか?戦争だけが地の平和を乱すのではない。いわれなき差別や経済格差も地の平和を乱す。3月11日に起きた大震災をどのように受け止めれば良いのだろうか?津波で家族を失くした人の話を聞くのは、魂が押しつぶされるようなつらさがある。しかし、海を悪く言う人にはまだ出会っていない。放射能の目に見えない恐怖は、線量の高い地域の人々の心身を蝕む。人がもたらした災いであるのに、人の手が及ばない現実に圧倒される。救援対策本部で始めたばかりの、福島の子供たちの一時避難のためのキャンプにかかってくる電話の声は、みな切実な響きを持つ。



 天使の賛美は「地には平和、御心に適う人にあれ」である。御心に適う人とはどのような人なのであろうか?羊飼いは御心に適う人たちだったのであろうか?天使の賛美を聞いた羊飼いたちの、いわゆる個人情報は何一つない。ただ彼らは天使の語りかけた言葉を信じた。救い主が私たちのために生まれたことを信じようとした。だからこそ彼らは「乳飲み子を探し当て」ることが出来た。そして神をあがめ、賛美した。

 罪深く、欠点の多い私たちが(そうでないと思う人もおられようが)御心に適う人になれるのだろうか?なれる道をこの羊飼いたちは示すのではないだろうか。
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 2011年12月18日 
「和解」加藤豊子牧師
創世記45章1−15節



 私たちにとって、和解…相手を心から許し、受け入れるということは、そう簡単なことではないと思います。時が流れたから自然と和解できるというものではないでしょう。ヨセフが兄弟たちと再会するのはおよそ20年位後のことです。その月日の流れの中で、ヨセフ、兄弟たち、父ヤコブそれぞれが変えられていく姿を見ることができます。



 父ヤコブは「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」と、絶対に離さないと握りしめていた大切な息子を神の手に委ねる決心をしました。

 ベニヤミンが捕えられ、エジプトの奴隷にされそうになった時、ユダはヨセフの前に進み出て嘆願をします。「白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになる…何とぞこの僕をご主君の奴隷としてここに残し、この子は帰らせてください。」かつて「ヨセフを売ってしまおう」と提案をしたのはユダでした。しかし今は、年老いた父親を思いやり、また自分が身代りになってでも弟を守ろうとしているユダの姿があります。父ヤコブ、弟ベニヤミンを思う気持ちに偽りはありません。その心からの言葉に触れた時、長年のヨセフのわだかまりも解けたのではないでしょうか。



 身を明かしたヨセフは兄弟たちに語りかけます。「わたしをここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」ヨセフの生涯…それは自分の身にふりかかった不幸を嘆き、運命を呪い、また兄弟を憎み続ける人生であっても不思議ではありません。しかしヨセフは、多くの命を救うために、神が遣わしてくださったのだと告白します。どのような時も主が共にいてくださり、すべてのことを、人の悪意というものまでも、神の御計画の中で益となるように変えてくださる神の存在を見出しているヨセフがいます。

 それぞれが神の御手の中で変えられ、また人がつくり出すことの出来ない和解を神が与えてくださったことを思わされます。
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